| 日本赤軍考 |

(最新見直し2006.6.6日)
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| 日本赤軍の史的意義はその活動軌跡にあるのではない。逆に、不首尾に終わった失敗軌跡の史的総括にこそある。れんだいこは、日本赤軍を評する視座をそのように据えている。思うに、日本赤軍は、第一次ブントの急進主義運動を更に急進主義化させていった第二次ブントの更なる理論的純化の末にもたらされた世界同時革命運動に殉じた。この経験から学ぶとすれば、その貴重な体験を通じて獲得した「世界同時革命運動の虚妄」であろう。 物事は純化させねば正体が分からない。そういう意味で、日本赤軍は世界同時革命運動の理論と実践を純正に遂行することにより世界同時革命運動の正体をはっきりさせた。れんだいこは、日本赤軍の史的意義はここにあると考える。この貴重な経験を受肉化することこそが戦士達に対する誠意ではなかろうか。そして問わねばならない。日本赤軍運動の経験を踏まえて、我々は、如何なる革命運動の道を敷くのかと。ここが肝腎なところなのに議論されていないのではなかろうか。 2006.4.9日 れんだいこ拝 |
| 【重信房子の回想】 | |||||
「わが愛わが革命」(講談社)
「りんごの木の下であなたを産もうと決めた」(幻冬社)
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| 【赤軍派結成】 |
| 1969.5月、共産主義者同盟(第二次ブント)の中の関西を中心とする武闘路線派が赤軍派を結成した。京大、同志社大、立命館大などを中心とする活動家400名(うち高校生90名)。議長は塩見孝也、軍事委員長は後によど号ハイジャック事件を起こし北朝鮮に飛ぶ田宮高麿であった。 |
| 【赤軍派の後の動き】 |
| 9.4日、日比谷野音で開かれた全国全共闘結成大会に公然登場したことで知られるようになった。この日、入場を阻止しようとする300人のブント主流派をわずか100人で撃破し大衆の前に初めて登場した赤軍派は、革命戦争を宣言した。 9.21日、阿倍野は出所など3箇所の交番に火炎瓶攻撃し、ピストルを奪おうとした(「大阪戦争」)。9.30日、神田ー本郷一帯で同時多発ゲリラ闘争を展開し、奪った武器を使い政府高官を殺害し、首相官邸などを襲おうとした(「東京戦争」)。武器を奪うことに失敗した赤軍は、火炎ビンで東京の本富士署を焼き討ちし署長室を炎上させている。この時不在で難を逃れた本富士署長が、後にオウム事件の最中狙撃され重傷を負った国松警察庁長官とのことである。 この戦いを「ブルジョワジーとその番兵を皆殺しにする戦いではなかった」と総括した田宮高麿ら赤軍政治局は、「今後は、せん滅戦が必要である」として爆弾闘争にとりかかった。10.21日、国際反戦デーで、新宿駅で鉄パイプ爆弾を登場させた。中野坂上でピース缶爆弾によるパトカー爆破を狙ったが、爆発寸前に発見され失敗する。 次に、100人の赤軍兵士による首相官邸と警視庁の襲撃を決定した。2.26事件をヒントにしたといわれ、首相官邸を占拠した後、人民政府の成立を全世界に宣言するつもりだった、という。 |
| 【大菩薩峠で一網打尽される】 |
| 11.5日、ハイキングを装い軍事訓練のために山梨県塩山市の大菩薩峠に結集した赤軍中枢部隊53名(うち高校生9名)が、爆発物取締法違反、凶器準備集合罪の容疑で一網打尽に逮捕されてしまい、あえなく失敗する。 |
| 【国際根拠地建設に向う】 |
| 大菩薩峠事件を頂点とするいわゆる前段階武装蜂起に失敗した共産主義者同盟赤軍派は、一国内での武装闘争には限界があるとして、労働者国家を根拠地として武装蜂起の世界性と永続性を図るべきであるという国際根拠地論を提唱し、国際根拠地建設に向った。建設候補国として北朝鮮、アルバニア、キューバの労働者国家が想定された。 1970.1.16日、東京で800名の蜂起集会。この時、世界革命戦線構築として「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」を呼号した。 |
| 【塩見議長逮捕される】 |
| 2.7日、大阪で1500名の蜂起集会。3.15日、最高幹部の塩見孝也議長(京大)が破壊活動防止法違反(予備・陰謀)容疑で逮捕される。このときまでに逮捕された者は222名人にのぼり、赤軍派は壊滅的打撃を受けた。その後の赤軍派は武装蜂起路線から不連続ゲリラへと路線変更を余儀なくされ、資金かせぎの強盗(マフィア作戦)、ハイジャック(フェニックス作戦)、猟銃強奪(アンタッチャブル作戦)へと向った。 |
| 【日航機よど号ハイジャック事件】 | |
| 3.31日ー4.3日、田宮高麿をリーダーとする9名(田宮高麿、小西隆裕、田中義三、安部公博、吉田金太郎、岡本武、若林盛亮、赤木志郎、高校生の少年A、岡本武は日本赤軍に加わった岡本公三の実兄)の赤軍派が、日航機よど号をハイジャックし、北朝鮮入りを敢行した。よど号事件と云われる。わずかにフェニックス作戦だけが成功した。 赤軍派メンバーは決行に当たって犯行声明文を残している。田宮は次のように述べている。
ここまでが第一次赤軍といわれ、この後の第二次赤軍と区別される。 |
| 【第二次赤軍の動き】 |
| 「日本赤軍拘束事件資料」を参照する。 第二次赤軍は、獄中の塩見孝也議長の奪還を企図した。各国の大使館員を誘拐し、人質にして塩見議長を釈放させ中国に亡命させようというもので、ペガサス作戦と呼ばれた。しかしこれも決行直前に幹部が逮捕され、持っていたメモから計画が知られてしまい、失敗する。 この時期の赤軍は、1970年の10月前後に革命が起こると信じ込んでおり、ペンタゴン突入など力量を無視した無理な作戦ばかりたてていた。そのため幹部、兵士に次々と脱落者が生じ、また地方と中央、公然と非公然の対立が深まり分裂しつつあった。中央は『軍』を掌握した武闘派の森恒夫らが握り、政治に対する軍事の優越を唱え独走する。徴発活動で鍛えられた軍が、第二段階として政治テロを行うという方針のもと、連続的に銀行強盗が行われる。これで数少なくなった兵士がさらに減少するが、なんとか闘争資金を入手することには成功する。 |
| 【中核派の集会を警備中の機動隊に鉄パイプ爆弾を投てき】 |
| この頃、赤軍は、明治公園で中核派の集会を警備中の機動隊に鉄パイプ爆弾を投てきし、30数人を負傷させている。 |
| 【連合赤軍結成】 |
| 「日本赤軍拘束事件資料」を参照する。 この頃、京浜安保共闘が赤軍と同じ軍事路線を突き進んでいた。京浜安保共闘は、中共派として日共から除名された日本共産党左派の系譜を引く日本共産党革命左派の下部組織であった。50年代武装闘争時代の共産党の革命理論や闘争スタイルを受けつぎ、軍事組織として人民革命軍を持っていた。学生中心で世界革命論の赤軍派と異なり、労働者主体で毛沢東主義による一国革命論を教義としていた。京浜安保共闘は小人数によるゲリラ闘争を行い、ダイナマイトを盗み出していた。米軍基地爆破未遂や銃奪取を目的とする交番襲撃を実践していた。交番襲撃はメンバー一人が警官に射殺され失敗したが、銃砲店から散弾銃とライフル銃など10丁を強奪することには成功していた。しかし、警察の追及と資金不足のため次第に動きが取れなくなっていた。 爆弾と資金を持つ赤軍は、銃を入手することがどうしても出来ず、京浜安保共闘の持つ銃器を欲した。赤軍の資金と京浜安保共闘の銃を交換し、最後に両者の軍事組織の合同を決定する打ち合わせが潜行し、赤軍派中央軍と京浜安保共闘人民革命軍が組織合同することになった。こうして「連合赤軍」が創設された。 |
| 【連合赤軍内粛清事件発生】 |
| 連合赤軍は、銃を使用した軍事訓練と山岳ゲリラ戦のため山岳ベースを設置した。しかしアジト生活で、総括の名のもとに28名のメンバーのうち12名を次々と殺害し自壊するという事件を発生させた。 |
| 【あさま山荘銃撃戦事件】 |
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警察の山狩りを逃れた生き残りの5名は、軽井沢あさま山荘に人質を取って立てこもり、警官隊と10日に及ぶ銃撃戦を展開した。警官2、一般人1名を射殺し多数の負傷者を出した後、逮捕された。これを「あさま山荘事件」と云う。 |
| 【アラブ赤軍結成される】 |
| 1971.2.26日、赤軍派の女性幹部の重信房子(明治大)、元京都パルチザンの奥平剛士(26歳、京大工学部)が偽装結婚してパレスチナへ赴いた。マルクス・レーニン主義に基づく日本革命と世界の共産主義化の実現を目的として結成されていた共産主義者同盟赤軍派の「国際根拠地論」に基づき海外に革命の根拠地を求めて脱出したものであった。アラブ赤軍、赤軍派アラブ委員会と称し、
同じくマルクス・レーニン主義に立脚するPFLP(パレスチナ解放人民戦線)へ共同武装闘争を申し入れ、その支援庇護を受けレバノンで創設し、中東での活動を始めた。 10月、安田安之(24歳、京大工学部)、山田修、檜森孝雄がベイルート入りし、奥平達に合流した。アラブ赤軍は、過激な武装路線のマルクス主義セクトとして、パレスチナ・ゲリラと共同し、又は単独で、国際テロ組織の中でも極めて活発なテロ活動を世界各国で展開していくことになった。 |
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1972年のロッド空港乱射事件(テルアビブ空港事件)をはじめ次々とテロ事件を起こし、クアラルンプール米大使館占拠事件(1975.8月)とダッカ日航機ハイジャック事件(1977年)では超法規的措置で日本国内に拘置中のメンバーら計11名を釈放させた。1980年代後半から200年代にかけて、丸岡修、和光晴生等の中心メンバーが相次いで逮捕され、組織は壊滅状態に追い込まれた。 2000.11.8日、最高指導者の重信房子も潜伏していた大阪府高槻市で旅券法違反容疑で警視庁公安部によって逮捕される。後に支援者数名が犯人隠匿容疑で逮捕。これにより同組織の活動はほぼ壊滅したとされる。2001.4月、重信房子は獄中から日本赤軍としての解散宣言を行なった。 |
| 【テルアビブ空港乱射事件】 |
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1972.5.8日、アラブ・ゲリラが、サベナ航空機をハイジャックし、イスラエルのテルアビブのロッド空港に着陸し、逮捕されている多数の同志の釈放を要求した。イスラエル政府は、強行手段によりゲリラを射殺した。PFLPは、報復作戦を計画した。 |
| 【ドバイ事件】 |
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1973.7.20日、丸岡修と四人の、PFLPメンバーが、パリ発アムステルダム経由東亰行きの日本航空ボーイング747型機をアムステルダム離陸後ハイジャックした。その後、アラブ首長国連邦のドバイ空港、シリアのダマスカス空港等を経由し、リビアのベンガジ空港へ向かった。乗員乗客141人の解放後、機体をベンガジ国際空港で爆破し、投降した。女性戦士1人が手榴弾の暴発で死亡した。 |
| 【シンガポール・クウェート事件】 |
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1974.1.31日、バセル・エル・コーバイシ隊と名乗るパレスチナゲリラと日本赤軍の混成部隊4名(日本赤軍2名―和光晴生、山田義昭と推認)が、シンガポールのシェル石油製油所に侵入し、施設の一部を爆破、フェリーボートを乗っとり乗員を人質にして脱出のための飛行機を要求した。その6日後、パレスチナゲリラ5名がクウェートの日本大使館を占拠し、大使館員を人質にとり、シンガポール事件の戦士と自らの脱出用飛行機を要求した。日本政府は要求をのみ、シンガポールに日航特別機を送り、クウェートの戦士と合流させ、南イエメンに飛行させた。部隊は南イエメン政府に投降した。 |
| 【ハーグ事件】 |
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1974.9.13日、西川純、奥平純三、和光晴生の3名が、オランダ・ハーグにあるフランス、アメリカ等の大使館を占拠し大使館員を人質にとり、拘束されたメンバーの釈放を要求した。9.18日、戦士と人質の交換が成立。フランス政府は超法規的措置として逮捕していたメンバーを釈放した。部隊はフランス航空機でシリアに向かい、ダマスカス空港で投降した。 |
| 【日本赤軍を名乗る】 |
| 1974年以降、連合赤軍兵士追悼人民集会で決別宣言を出し、日本赤軍を正式名称とし、独自の路線を進むこととなった。以降、1980年代にかけてパレスチナ解放人民戦線などパレスチナの極左過激派ゲリラと連携し、一連のハイジャック事件を起こした。 |
1975.3.5日、スウェーデンのストックホルムのレバノン大使館付近で、日本赤軍の西川純、戸平和夫が逮捕され、日本へ強制送還された。日高敏彦は逃走した。
| 【クアラルンプール事件】 |
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1975.8.4日、日本赤軍戦士5名(内3名は和光晴生、奥平純三、日高敏彦と推認)が、マレーシアのクアラルンプール米領事館とスウェーデン大使館を占拠し、大使館員を人質にとり、日本で拘留中の西川純、戸平和夫、坂東国男、松田久、松浦順一(以上赤軍派)、坂口弘(京浜安保共闘)、佐々木則夫(東アジア反日武装戦線)の釈放を要求した。 |
1976.9.23日、日高敏彦が、シリアからヨルダンに偽造旅券で入国しようとして逮捕され、後に拘置所内で自殺した。
10.13日、ヨルダン当局に拘束されていた奥平純三と遺体となった日高敏彦が強制送還された。
| 【ダッカ日航機ハイジャック事件】 |
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1977.9.28日、丸岡修、和光、佐々木則夫、戸平、坂東と思われる5名が、インドボンベイ空港を離陸直後の日本航空DC-8型機をハイジャックし、バングラデシュのダッカ国際空港に強制着陸させた。乗員・乗客151人の人質と交換に、日本で在監・拘留中の奥平純三(日本赤軍)、城崎勉(赤軍派)、大道寺あや子、浴田由紀子(東アジア反日武装戦線)、泉水博、仁平映(刑事犯)ら9名と現金600万ドル(当時約16億円)を要求し、日本政府の福田首相は、「人命は地球よりも重い」と述べ、クアラルンプール事件と同じくこれに応じ、超法規的措置として出国を拒否した3人を除いた拘束中のメンバーら6名(奥平純三、大道寺あや子、浴田由紀子、城崎勉、泉水博、仁平映)を解放し、600万ドルの身代金を支払った。 釈放されたメンバーはダッカ国際空港で日本赤軍と合流し、シリアのダマスカス空港で給油した後、アルジェリアのダニエル空港で人質を解放した後、アルジェリア政府に投降した。日本政府がSATを設置する要因となった事件。 |
| 【岡本公三が捕虜交換で奪還される】 |
| 1985.5月、1982.6月のイスラエル軍によるレバノン侵攻を受け、本拠地ベイルートを撤退した日本赤軍は、イスラエルとPFLP―GC(パレスチナ解放戦線総司令部)との捕虜交換により釈放された岡本公三を迎えた。以降、再びテロ活動を再開させ、ジャカルタ、ローマ、ナポリと相次いでテロ事件を引き起こしすことになる。 |
| 【ジャカルタ事件】 |
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1986.5.14日、ジャカルタ事件。インドネシア・ジャカルタの日米両大使館に爆発物が打ち込まれ、同地のカナダ大使館前で車が爆破されるという同時テロ事件。日米捜査当局は、付近のホテルから日本赤軍の城崎勉の指紋が検出されたとして、城崎勉を犯人の1人と断定し、容疑者として手配。この事件では「反帝国際旅団(AIIB)」が犯行を声明。(最近の事件では日本赤軍自体は声明を発表していない。「反帝国際旅団(AIIB)」が日本赤軍をあらわすものと思われる) |
| 【三井物産支店長誘拐事件】 |
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1986.11.15日午後3時頃、三井物産マニラ支店長が、ゴルフ帰りにフィリピン共産党の軍事組織、新人民軍(NPA)のメンバー5人に誘拐された。1987.1.16日、三井物産本社や報道各社に脅迫状や写真、テープが届いた。写真は、誘拐された支店長が虐待を受けているように見え、テープには弱々しい声が吹き込まれていた。 その後、数回脅迫状が届き、同年3.31日の夜にケソン市内の教会脇で解放された。解放された被害者に怪我はなく、写真やテープは犯人の偽装であることが解った。このことから、この事件は身代金目的の誘拐事件と見られている。(NPA中央の声明によると、末端のメンバーが勝手に行ったことで、人質と引き換えに1000万ドルの身代金が支払われたとのこと)。1991年に逮捕された犯人達は、日本赤軍の協力があった旨の供述をしている。 |
| 【ローマ事件】 |
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1987.6.9日、ローマ事件。ベネチアサミット開催中の6月9日、イタリアのローマにおいて発生した、米・英両国大使館に向けた爆発物の発射等のテロ事件。「反帝国際旅団(AIIB)」が犯行を声明。イタリア当局は、奥平純三ら犯人と断定。 |
1987.11.21日、丸山修が成田空港で逮捕される。
| 【ナポリ事件】 |
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1988.4月、イタリア・ナポリのナイトクラブ前に駐車していた車が爆破され、民間人、アメリカ空軍兵士ら5人が死亡した。イタリア当局は、奥平純三及び奥平(重信)房子を犯人と断定。日本赤軍自身はこの事件の犯行を否定している。 |
| 【マドリード米大使館手製ロケット砲事件】 |
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1988.7月、マドリードの米大使館に手製ランチャーよりロケット2発が撃ち込まれ、「反帝国際旅団(AIIB)」が犯行を声明。 |
| 【相次ぎ逮捕される】 |
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1995.3月、日系ペルー人を装ってルーマニアに潜伏していた浴田由紀子を逮捕。 1997(平成9).2月中旬、レバノン国内に身分を偽って潜伏していた日本赤軍のメンバー5人(和光晴生、足立正生、山本萬里子、戸平和夫、岡本公三)が発見され、レバノン当局に身柄を拘束された。5人は、旅券偽造、不法入国等の罪で起訴された。日本政府は、レバノンでの司法手続きの進展状況を見守りつつ、レバノン当局に対し5人の身柄の早期引き渡しを求めている。 1997.11.12日、日本赤軍メンバー西川純が、ボリビアのサンタ・クルスにおいて、現地治安当局に身柄拘束された。警視庁は、国外退去処分によってボリヴィアを出国し、帰国した同人を、11月18日、「ダッカ事件」による航空機の強取等の処罰に関する法律違反で逮捕した。日本赤軍の本拠地ともいえるレバノンにおいて、レバノン政府当局によりメンバーが検挙されたことは、事実上、日本赤軍が最も重要な拠点を失ったことを意味している。 |
| 【「連帯結党宣言」を発表する】 |
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2001.12.15日、「連帯」結成委員会が「連帯結党宣言」を発表する。 |
| 【板橋事件】 |
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2005.1月、元メンバーが、東京都板橋区内のスーパーマーケットでサキイカ2点、1200円相当を盗み、取り押さえられた事件。この事件によって、元日本赤軍のメンバーでありながら生活保護を受けていたことが明るみになり、日本中を震撼させた。なお、この事件で逮捕された元メンバーは逮捕当時、別件で執行猶予中であった。 |
| 【最高指導者の重信房子が逮捕される】 |
| 2000.11.8日、最高指導者の重信房子も潜伏していた大阪府高槻市で旅券法違反容疑で警視庁公安部によって逮捕される。後に支援者数名が犯人隠匿容疑で逮捕。これにより同組織の活動はほぼ壊滅したとされる。 |
| 【最高指導者の重信房子が逮捕される】 |
| 2001.3.5日、重信房子とパレスチナ戦士の間に生まれた娘の重信メイ(当時28歳)が、日本国籍を取得。 |
| 【最高指導者の重信房子が日本赤軍解散表明】 |
| 2001.4.14日、重信房子は、都内で開かれた支持者集会に、獄中から日本赤軍としての解散宣言を行なった。 |
| 【日本赤軍メンバー檜森孝雄が焼身自殺】 |
| 2002.3.30日、檜森孝雄が日比谷公園で、焼身自殺した(享年54歳)。 |
| 【第一審で、重信房子(60歳)に懲役20年が下され、控訴】 |
| 2006.2.23日、東京地裁(村上博信裁判長)が、重信房子(60歳)に対し、懲役20年(求刑は無期懲役)を言い渡した。3.6日、重信の弁護人が控訴した。 |
| 【日本赤軍参考資料】 |
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(私論.私見)