【初代ロスチャイルド・マイヤー】

 (最新見直し2006.12.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 近現代史に多大以上の影響を与え続けているのが「シオンの議定書派」である。これを策定したのがロスチャイルド1世ないしはそのブレーンではないかと云われており、れんだいこは、説得力有る話だと思っている。ここで、そのロスチャイルド1世の履歴を考察する。「池内 紀(いけうち・おさむ)氏の東洋経済オンラインのロスチャイルド物語」、「ウィーンのユダヤ人大富豪ロスチャイルドを逮捕したヒトラー」その他を参照する。著書としては、広瀬隆・氏の「赤い盾」、ウィリアム・G・カー著、太田龍・氏の監訳「闇の世界史」等が検証している。

 太田龍・氏は、2,006.12.20日付「時事寸評」の「アメリカではロスチャイルドの力は取るに足りない、と言う。ロスチャイルド家が百年以上かかって作り上げて来た偽装」で、ユースタス・マリンズ著、天童三郎訳「世界権力構造の秘密」(日本文芸社、絶版)の55Pの次の言葉を紹介している。
 「アメリカの金融界ではロスチャイルドもほとんど取るに足りないという通念は、一世紀以上かけて合衆国で入念に育て上げられてきたものである。この偽装によって、この国の政治的金融的発展を自分に有利に操ることができたのだ」。

 その上で、次のように表している。
 概要「ユースタス・マリンズのこの『世界権力構造の秘密』は、古典中の古典である。1984年に出版されたマリンズのこの本は、欧米でも、最高水準の著作である。全9章からなる本書の中で、第二章 ロスチャイルド家の勃興と一族の世界支配、この章はとくに長大であり重要である。ここに、一世紀以上かけて育成された、云々とある。従って、これは、1870年代、つまり南北戦争以後を意味する。前出、第二章には、「米国を二分するためにロスチャイルドが仕組んだ南北戦争」とある。ロスチャイルドが、南北戦争後、米国市民の反ロスチャイルド感情を鎮静しなければならなかったことは自明である。極力、ロスチャイルドは、アメリカには全く関与しないと言う、ディスインフォメーション作戦を実施した。のみならずそれを、百年以上に亘って継続したと言う。従って、ロスチャイルドはヨーロッパ止まり、ヨーロッパではロスチャイルドは成功したかもしれないが、アメリカではロスチャイルドは失敗した、と言うデマ情報をアメリカ人が信じるように工作した、と。

 
この言に信を置くべきか否や、以下これを考察する。

 2006.12.21日再編集 れんだいこ拝


【ロスチャイルドの家系】
 後にロスチャイルド家となる祖は、イサーク・エルヒャナンから始まる。彼は、フランクフルトの一角に金融業の看板を出していた。現在のフランクフルトでいうと、中心地から少し北寄り、ベルネ広場に面して「ユダヤ記念館」がある。べつに「ユダヤ博物館」もある。マイン川の川沿いにあるのが博物館、市中にあるのが記念館である。二つもユダヤ館が有るのは、フランクフルトがそれだけユダヤ人と縁が深かったからである。

 ユダヤ記念館のある辺りは、かっては町外れであって、そこにユダヤ人の住むゲットーがつくられていた。城壁と堀に囲まれた半月形の区画で、ごく狭いところに最盛期には三千人にあまるユダヤ人が住んでいた。フランクフルトの全人口が三万人だったころで、猫の額のような小さなところに、人口の一割がひしめいていた。イサーク・エルヒャナンは、その一角で貸金業を営んでいた。

 そのころのドイツは230もの小国に分かれ、さらに50ばかりの「自由都市」があった。自由都市の「自由」は、財政も都市が独自にするという意味であって、それぞれが通貨を発行していた。フローリアン、ターレル、ダカットなどと、てんでにちがう貨幣が、国王や大公の肖像つきで出まわっていた。

 フランクフルトは両替都市で、ヨーロッパ全体の何百もの通貨をここに集めて両替していた。貨幣は単位以上に金・銀の純度と流通価値がものをいう。更に、市場の交換価値に合わせねばならない。その為には発行元の国情にも通じていなくてはならない。その上で将来の変動をも予測せねばならない。その他、下落の兆しがあれば手離し、上昇のにおいを嗅ぎつける金庫に貯えておく。
 
 ロスチャイルド家は、そういう両替商をフランクフルトで代々こなし続けていた。世界一の金融王に飛躍するまでおよそ4世紀あまり住みついた。他にもカーン家、シフ家、バルーク家があった。金貸し業者は当時、戸口に赤い標識をぶら下げる習わしがあった。ロスチャイルド家は、「赤い楯」の標識を掲げていた。ドイツ語で「赤い」はロート、「標識」はシルトで、これを綴るとRothschildとなり、ドイツ語ではロートシルト、英語読みするとロスチャイルドとなる。ロスチャイルド1世の頃、商いの名をそのまま姓にした。

 1994.2月下旬、M・A・ロスチャイルドの生誕250年を記念して、ヨーロッパ各地の血縁子孫80余名がフランクフルトで一堂に会している。

【16世紀以来の絶対主義王制がユダヤ商人に活躍の場を与える】
 16世紀以来、ヨーロッパは絶対主義体制に向かい、富国強兵策とその為の財政的裏付けとなる貿易による重商主義を重んていった。それはユダヤ商人の思惑と一致しており、案外とユダヤ商人の教唆する如く突っ走っていったのが実相かも知れない。大々的な経済活動のチャンスを握ることになったユダヤ商人は、全ヨーロッパに散在していたユダヤ人の国際商取引網を通じて急速に財源を膨らましていった。

 ユダヤ商人は、領封君主の寄せ集めの国であったドイツで特に必要とされた。ヨーロッパではドイツほど宮廷ユダヤ人の経済力に依存して国はなく、19世紀に至るまで、ドイツ諸侯でユダヤ人を宮廷の側近にしていなかった者はほとんどなかったといっていい。このことがやがて、一般市民のユダヤ人パッシングへと繋がっていくことになる。

【初代ロスチャイルド・マイヤー時代その1、おいたち】
1743年、マイヤー・アムシェル・バウアー(1743〜1812)が誕生した。今日のロスチャイルド閨閥の始祖は彼に始まり、仮にロスチャイルド1世と命名する。ゲーテと同じ時代人である。アムシェルは典型的なユダヤ名、マイヤーはドイツでもっとも多い姓の一つ。ユダヤとドイツを折半して命名したことになる。

 ゲットー内の学校でヘブライ語の読み書きと聖書を学び、ユダヤ教のラビとして教育された。両替商であった父親から商売を仕込まれ、 最初、ハノーバーの「オッペンハイム銀行」に見習いで入ったが、やがて独立して両替屋「フランクフルト・ロスチャイルド商会」を営むようになる。「フランクフルト・ロスチャイルド商会」は、赤い楯の上に一羽の鷲を描いた看板を掲げることによって商売を宣伝した。この看板はフランクフルト市の紋章を応用したものとされているが、鷲の爪から5本の金の矢が広がり出るようにあしらわれていた。この「赤い楯」看板ゆえに、彼は「ロスチャイルド(ロートシルト)」という名前をつけた。

【初代ロスチャイルド・マイヤー時代その2、宮廷ユダヤ人】
 1768年、25歳の時、フランクフルト南東のハーナウ伯の宮廷御用商人となった。王侯貴族の宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーゲン)となることは、当時のユダヤ人が到達することの出来た最高の栄誉であった。

 1770年、27歳の時、同じフランクフルト・ゲットーの数軒さき、金廻りのいい商人ザロモン・シュナッパーの娘でこのとき17歳のグトレと結婚した。夫婦は、21年間に10人、内訳は男5人と女5人を生むことになる。

 イギリスの王室と縁戚関係にあったヘッセン選帝侯は、当時アメリカの独立戦争に際し、イギリスに多数の傭兵を貸し付けたり、軍需物資を供給したりして、莫大な代価をイギリス王室から受け取った。こうして、ヘッセン選帝侯は更に富を増した。ロスチャイルド1世は、ヘッセン選帝侯お抱えの銀行家として手腕を発揮することを通じて多大な利潤を得、巨富を蓄えた。

【初代ロスチャイルド・マイヤー時代その3、「シオン長老の議定書」策定】
 「シオン長老の議定書の真贋考」で考察しているが、この頃、ロスチャイルド1世は、「シオン長老の議定書草稿」とイルミナティーを創設している。これがロスチャイルド1世のもう一つの顔であるが、隠蔽されている。良し悪し抜きに能力者であることは違いない。

 1773年、マイヤー・ロスチャイルド(初代)は、弱冠30歳で、12名の国際ユダヤの巨頭を招いて、フランクフルトで秘密重要会議を開いた。ロスチャイルドは、その会議で、英国のピューリタン革命を検証し、これを教訓化させ、フランス革命を勝利的に導くよう指針させた。その上で、「フリーメーソンに代わるより生硬な」、全世界に対する支配権を手中に収めるための「世界革命運動」の創出について述べ、その為の「二十五項目の行動計画書」を打ち出した。これが「シオンの議定書」の原型となった。(「二十五項目の行動計画書」の概要が、「裏の世界史」P102〜110に記されている) 

 「世界革命運動」を実行するための地下秘密組織イルミナティ(Illuminati)の創設が決定され、改宗ユダヤ人にしてイエズス会士にしてインゴシュタット大学法学部長アダム・ヴァイスハウプト(1748〜1811、当時26歳)がイルミナティ責任者として選抜された。


 1776年、ヴァイスハウプトが、マイヤー・ロスチャイルド(初代)が打ち出した「二十五項目の行動計画書」を下敷きにして、シオン長老の議定書」を完成させた。これがイルミナティのマニュフェストとなった。1776.5.1日、イルミナティが、ドイツ南部のバヴァリアで創設された。 

【初代ロスチャイルド・マイヤー時代その4、ウイルヘルム9世の資産管理】
 1785年、ヘッセン侯爵が亡くなると、ロスチャイルドの仕えたハーナウ伯がウイルヘルム9世を名乗ってヘッセン選帝侯の地位につく。ウィリアム9世は4000万ドルもの財産を相続した。これは当時のヨーロッパで最大の私有財産と云われており、ドイツ諸侯の中でも最も裕福な資産家の一人となった。ロスチャイルド1世は、ウイルヘルム9世の巨額な資産運営管理を委され、ヘッセン侯爵家の「銀行事務弁理人」に任命された。こうして、当時のヨーロッパ最大の資金国の金庫管理を任されたことになる。

 初代ロスチャイルドは、「ヘッセン大公国宮廷支配人」の肩書きでどの宮廷にも出入りでき、各国王に財務アドバイザーのかたわら資金を貸しつけていった。ロスチャイルド商会は、従前の土地を基盤にした経済に代わって、証券とクレジットにもとづく資本経済を導入し、利益を上げていった。 

 この頃、ロスチャイルド1世は、ユーデンガッセ148148番地の「緑の楯」として知られる5階建ての大きな家に移った。この家はシフ家と共同で使用された。

【初代ロスチャイルド・マイヤー時代その5、フランス革命時代の遊泳】
 1789.7月、イルミナティを主体とするユダヤ人グループの扇動によりフランス革命が遂行された。連中が以降、すべての戦争、革命を陰で操る秘密権力となった。旧体制が大揺れに揺れ、これを契機にヨーロッパが激動の時代に入った。ロスチャイルド商会は、この時代を巧みに演出ないし遊泳していくことになる。 

【初代ロスチャイルド・マイヤー時代その6、息子達ののれん分け】
 ユダヤ社会では14歳で「成人式」をし、以後は一丁前の大人として扱われる。この頃、ロスチャイルド1世の息子の5人兄弟のうち長男と二男が、ヘッセン大公国の首都カッセルで、「宮廷支配人代行」として働きはじめた。ロスチャイルド1世夫妻は、息子たちの性格と特長を見定め、その徳性に相応しい環境を与えていくことになる。ちなみに、長男はおっとりした穏健型、二男は粘り強い慎重型、三男はあけっぴろげで冒険好きという違いが有った。

 1798年、5人兄弟の3番目のナータン(ネイサン・マイヤー)が21歳の時、イギリスに送った。親・兄弟がゆだねた資金が2万ポンドであったと伝えられている。ネイサンは、穏健でも慎重でもなく、おめず臆せず冒険にとびこんでいくタイプで、ロスチャイルド1世は、ネイサンの気質が大きな変化に直面しているイギリスでの市場開拓に向くと見定め送ったと伝えられている。この見定めは正しく、ネイサンはまたたくまにロンドン金融界の若きヒーローになっていく。

 この後、四男のカールには、ヨーロッパで三番目の大都市であったナポリに向わせている。こうして、長男アムシェル・マイヤーにはフランクフルトの商会兼銀行を引き継ぐべく帝王教育を授けていった。ドイツは数多くの小国に分かれていて、利害の調停が難しい。この点、穏健型の長男に向いていた。ハプスブルク王家のオーストリアは大国であって、古狐のような廷臣がどっさりいる。ねばりづよく交渉のできる二男ザロモンが打ってつけでウィーン支店を任せた。

【ロスチャイルド・ネイサンの登竜】
 ネイサンは、半年ばかり父親の商売仲間であるロンドンの商人のもとで見習いをしてから、ヨーロッパ最大の織物の町として知られていたマンチェスターへ移った。当時、マンチェスターの人口は約9万であったが、その後の20年あまりで30万近になったことで分かるように、すさまじい勢いで膨張していた。ネイサンは、そこで、マンチャスターからフランクフルト市へ綿布を輸出する商売を始めた。販路を広げ、アムステルダム、ジュネーヴ、ハンブルク、パリ、モスクワへも送る。次第に綿糸交易だけの従来の遣り方には満足できなくなり、染屋、捺染屋と契約して、新しいデザインや柄模様のものに仕上げ製品を送るという一貫生産を編み出し、カタログ注文制や特注の馬車や船を使っての迅速取引等々工夫を凝らし、大成功した。更に、植民地インドからの木綿を一手にさばき大儲けした。わずか数年のうちに、ロスチャイルド商会はマンチェスターきっての取引業者にのし上がった。

【初代ロスチャイルド・マイヤー時代その7、ナポレオン全盛の遊泳】
1799年、ロスチャイルド1世(当時55歳)は、フランクフルト市で、相変わらずヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世(56歳)の代理人として活躍していた。この年、オーストリア=神聖ローマ帝国に、「帝国郵便総監」のトゥルン=タクシス公家や反ナポレオン連合軍への協力の成果を直接に訴えて武装・免税・移動の特権を得、みずからこの戦乱に飛び込んでいった。

 1806年、ネイサン29歳の時、ロンドンの有力な商人兼銀行家、ミスター・コーエンの娘ハンナ・コーエンと結婚した。同じくユダヤ人であって、義父の手引きでロンドン金融市場のお歴々とつながりができた。

 1806年、 ナポレオンがイギリスの国力を弱めるために「大陸封鎖」に打って出た。イギリス製品の輸入差しどめ。フランスだけでなく、オランダ、ドイツなど、すべての港への陸上げを禁止した。ロスチャイルド商会は同業者と同様に、税関吏に賄賂を贈る戦術で網をすり抜け、営業をつづけた。手に入りにくければ、商品価値は高まるわけで、値上がりして十分にもとはとれる。だが封鎖が強化されるきざしを見てとり、取引を中止、商会を引き上げた。 的確な判断だった。輸出がとまり、イギリスの織物業界は大打撃を受けた。業務縮小によってマンチェスターには失業者があふれ、社会不安がひろがり、商店や商会の焼き打ち沙汰に発展した。

 ナポレオン1世のヨーロッパ遠征が始まると、フランクフルトのウィリアム9世は領土を放棄しなければならなくなった。その時、ロスチャイルド1世はその巨万の財産を安全に保管するよう命じられて、彼はそれを安全地帯であるロンドンに送って息子に管理させることとなった。この時ロンドンに移したヘッセン侯爵家の財産こそロスチャイルド家の巨万の富の出発点となった。

 ナポレオンが欧州を蹂躙する中で金融取引で活躍し、各国に戦争の資金を融通した。彼は、莫大なカネによって反ナポレオンに向かい、ナポレオン戦争中、資金繰りに困っていた各国政府に1億ポンドを融資して一躍名声を高めた。

 1810年、ネイサン・ロスチャイルドはロンドンの銀行街、通称“シティー”の一角に三階建ての屋敷を手に入れた。一、二階で業務をとり、三階は家族用。王立証券取引所にもイングランド銀行にも近い。住所はNew Court, St. Swithin's Lane。こう書けばおわかりのとおり、現在のロスチャイルド銀行の住所と同じ。一族はリチギに発祥の地を守りつづけている。


 この頃、フランスと同盟を組むスペインで民衆反乱が起きた。皇帝ナポレオンは、ただちにイベリア半島に向かい、11月、ポルトガルの首都リスボン市を征服、続けて1808.3月、スペインに十万人を派遣、民衆反乱の鎮圧とともに、王族を引退させ、ナポリ王の兄ジョゼフ(ホセ)にスペイン王を兼任させた。


 ナポレオンの大陸支配の拡大は、ヨーロッパの貴族を亡命させ、ロンドンのネイサン・ロスチャイルド(31歳)のところに資金を次々と寄せ集めることになった。彼は一手にその運用を行うようになっていった。そして、彼は、亡命貴族と反ナポレオン運動のために、資金を市場で運用し、為替で送金し、さらには、フォークストンの伝統ある海賊船団を雇い、物不足に陥っている大陸に対して密輸を行って、大いに稼いだ。つまり、皇帝ナポレオンが、ロスチャイルド家のカネとモノの流れを封じようとすればするほど、ロスチャイルド家は、信託や為替や密輸でより多く儲かることになった。

 1809.1月、ナポレオンは帰国する。4月、イギリス艦隊が西岸ロシュフォール港を攻撃、オーストリア軍も「ライン同盟」の盟主バイエルンに侵攻、かくして、フランスは東西二面戦争を強いられることになった。7月、「ワグラムの戦い」で辛うじて勝利を得る。12月、ジョセフィーヌと離婚。1810.4月、ハプスブルク家マリルイーズと結婚。オーストリアとの関係は改善したが、イベリア半島の利益なき戦争に巻き込まれ、財政危機に陥る。周辺国を併合して税収を増やすが出費に追いつかない。

 1810年、5男ジェイムズ・ロスチャイルド(1792〜1868、18歳)がフランスに移り、海賊船団の仲介によって、戦況と市場に応じて金塊をイギリスとフランスでやりとりして、その差額を儲ける方法を確立した。

 1810年、ロンドン証券取引所の支配者フランシス・ベアリングが亡くなると、ロンドン支店の三男が新しい支配者となり、「世界一の金融王」として台頭した。ロンドン支店は金融中心に発展を遂げていった。ネイサンは、長引く戦争で国力が疲弊し経済が混迷し始めたイギリスの国債を買い支え、増大し続ける軍資金の資金手当てをした。  

【初代ロスチャイルド・マイヤー時代その6、ロスチャイルド1世の終焉】
 ロスチャイルド1世は1770年代から18世紀初頭まで活動し、1812年、死去した。


【初代ロスチャイルド夫妻の子息一覧表】
 ロスチャイルド1世夫妻の子供を男女別に一覧にすると、つぎの通り。
長男 アムシェル・マイヤー (1773〜1885) アムシェルがユダヤ名。父親の姓と名を逆にしてつけている。
二男 ザロモン・マイヤー (1774〜1855) ザロモンがユダヤ名。
三男 ナータン・マイヤー (1777〜1836) ナータンがユダヤ名。
四男 カール・マイヤー (1788〜1855) カールは古典的なユダヤ系ドイツ名。
五男 ヤーコプ・マイヤー (1792〜1868) ヤーコプは古典的なユダヤ系ドイツ名。
 
長女 シェーンヒェ(ジャネット) (1771〜1859)
二女 ベルヒェ(イサベラ) (1781〜1861)
三女 ブラインリヒェ(バベット) (1785〜1869)
四女 ユーリエ (1789〜1815)
五女 ヘンリエッテ(イェットヒェン) (1791〜1866)

 女たちには二重の名前を用意した。シェーンヒェ以下は届けたときのユダヤの正式名で、カッコの中は日常に用いたドイツ名。ユーリエはどちらにもあてはまる。ドイツ人社会のなかで生きるにあたり、ユダヤ人があみ出した処世の知恵だろう。

【ロスチャイルド1世の妻グトレの采配】
 母親グトレは、息子や娘が大邸宅に移ってからも、フランクフルトのゲットーを離れず、毎朝、数種の新聞に目を通し、訪れてくる息子たちに指示を与えた。一族では「グランドマザー」とよばれていた。

 「我々は純粋に“ビジネス”を追求しているのであり、“国際ルール”を侵していない。先見性に優れた大胆かつ站密なビジネス戦略の積み重ねが、今日のような確固たる“資本主義的地位”を築いたのである。我々のことを悪く言う人がいるが、我々は現代文明のあらゆる分野に多大な“恩恵”をもたらし、人類全体に計り知れない貢献をし続けているのであることを忘れないでくれたまえ」。





(私論.私見)