| 研究2 | 【「1967.3.2日善隣学生会館事件」の概要】 |

(最新見直し2007.3.10日)
これより前は、「【事件へ至るまでの歩み】」
| 【「1967.3.2日善隣学生会館事件」直前の様子】 |
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1967年当時、善隣学生会館3、4階には在日中国人(華僑)学生の学生寮(後楽寮)となっており寮生が住んでいたことから、善隣学生会館内は相互にいがみ合う二勢力の同居事態が発生したことになる。 2.1日、「造反団ニュース」第一号発行。このなかで、華僑学生は善隣学生会館内の日中友好協会本部事務所"奪還"を掲げている。「君たち(正統本部)は何をしているのか。大胆に会員と人民大衆に訴え、奪還闘争の先頭になぜ立てないのか」と主張。 華僑学生らが壁新聞とは別に「本会館を反中国の目的に使うな!」、「日中友好の旗を掲げて日中友好に反対する破壊分子は出て行け!」などのスローガンをはり出す。 |
| 【2.28日の動き】 | ||
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こういう経過の中で、1967年の2月28日から3月2日にかけて事件(「善隣学生会館事件」)が勃発した。が、奇妙なことに今日においても「その事実経過については、双方の主張がかなり食い違っている」という特殊な事件となっている。れんだいこに云わせれば、あたかも「戦前日本共産党中央委員小畑氏のリンチ致死事件」を髣髴とさせ、真相が無理やり「藪の中」に落とし込められている観がある。
そういう込み入った事件となっているということを踏まえて、双方の主張からごく大雑把に共通点を拾い出して事件を明確にさせ、慎重に考察してみることにする。 |
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この経過に付き、日共系の言い分は大いに異なる。日中友好協会事務局長・橋爪利次著「体験的[日中友好]裏面史」では、「会館玄関から風が入って来る。風に吹かれて破れたのであろう」と記述しており、破れた事は認めているが、原因を風のせいにしている。
この経過を日共の側から見ると逆に、「壁新聞を破ったといいがかりをつけ、最初の襲撃はじまる」という風になる。暴力を振るったのは寮生側であり、襲撃、監禁があった。その補強資料として、1・1ヶ月前から計画されていた襲撃事件である。2・2.28日当日は、壁新聞を破ったといって複数の寮生が午後11時頃に事務所に押しかけてきた。当初は5名在室だったとされている。3・小山事務局員と言い争いになり押し問答している。赤旗では、メガネが壊されるなど暴行が為されたとしている。4・(トイレにいけなかった為)監禁であった。
橋爪利次著体験的[日中友好]裏面史」には、「修太郎はでていけ、と罵倒されました」とも書かれている。
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| 【3.1日の動き】 | ||||||
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3.1日、日中友好協会が、声明「真の友好を破壊する暴挙は断じて許せぬ」を発表。 日共系に拠れば、午前10時すぎ、華僑学生が、日中友好協会に「われわれはいのちをかけてたたかい、きみたちを会館からかならず追い出す」という脅迫電話を掛けてきた、とされている(れんだいこ注真偽不明)。 急を聞きつけ、日本共産党の宣伝カーを中心に日共系数百名が会館を包囲した。その包囲網の中に、松本善明代議士、坂本修ほか1名の弁護士らの直接指導の下に日共本部の橋本広彦、中部地区委員会法規対策部長・綱島英高らが確認されている。日共幹部会員候補・内野竹千代、書記局員・高原晋一、同候補・金子満廣、中央委員で国会議員・岩間正男、日共都議会議員・梅津四郎、大沢三郎等日共幹部が続々つめかけて督戦している。 中村と一緒に出てきた幾人かの反中国分子が、日中友好協会の事務所に向って、大声で「早く出てこい!!」とさけびかけるやいなや、5、6十人の暴徒が日中友好協会の室内から正面玄関におしかけ、華僑青年をとりかこんで、殴る、けるの暴行をはたらいた。その直後、富坂警察署から二十数人の警官が五台のパトカーで乗りつけてきたが、暴徒に対してはなんら処置を取らずに、十数分後にはひきあげた。 日中友好協会正統本部代表・三好一事務局長と後楽寮自治会代表邱獅君が、抗議集会の決議文を携えて、日共系日中友好協会に要求書を手渡そうと出向く。ドアをノックしたところが、日中友好協会側は入口のドアに鍵をおろし、内側に本棚、机、ふとんなどをつみあげてバリケードをつくり(ガラス戸だから、内側のバリケードはよく見える)、ドアをあけようとしない。赤旗は、これを監禁されたとの記事を書くことになるが、「彼らが、自分で自分を“監禁”した」状況であり、笑止千万であろう。
日共系は、更に次のように報じている。
赤旗は、「二日間監禁され、女子はバケツで用を足した」と書いているが、悪質なフレームアップであり、実際には裏口から地下室の便所へ自由に通えた。 橋爪利次著体験的[日中友好]裏面史」に拠れば、この時華僑学生側からの次のような襲撃があったとされている。
この部分の史実関係はどうなっているのだろう。中共系からは出てこない。これが史実なら史実として確認しあうべきだろうに。但し、捏造ということも考えられるが、そうとすれば由々しきことであろう。れんだいこには、真偽関係が今のところ分からない。
これも際どい貴重証言である。例えば華僑学生側は「電話線を切ったのかどうか」見解を披瀝すべきだろう。史実は史実として確認されれば良い。問題は、日共側の悪質なフレームアップとしたらどういうことになるかただろう。 午前零時ごろ、機動隊二個中隊が現場に出動していた。この警察機動隊の役割について、中共系と日共系双方が敵対側とグルになっていたと証言している。中共系は次のように云う。
日共系は次のように云う。
これも際どい貴重証言である。例えば華僑学生側は「フレー、フレー、機動隊」なる声援で、機動隊の排除活動を声援したのかどうか見解を披瀝すべきだろう。史実は史実として確認されれば良い。問題は、日共側の悪質なフレームアップとしたらどういうことになるかだろう。 |
| 【3.2日の動き、善隣学生会館事件発生】 | ||
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翌3.2日、事件発生前には日共系の数十名が事務室内に居た。早朝6時半ごろ突如、日共中央幹部松本善明らの指揮の下前記綱島を先頭とする動員部隊30数名がマイクロバスで乗り付け、ヘルメット、棍棒、鉄パイプ、角材等で武装して扉を開け、会館守衛の制止にもかかわらず会館内になだれこみ、玄関内で不寝番のあたっていた4人の寮生を袋だたきにし、急をきいてかけ下りこれを阻止しようとした寮生に暴力を加えた。このとき、華僑学生も少人数ながら水をかけて応戦したが、この過程で華僑学生側に重傷者7名を含む多数の負傷者が出た。重傷者の中には頭蓋骨陥没で一週間も意識が戻らない者も発生した。
この経過については寺尾五郎氏のレポートが詳しい。寺尾氏は云う。
ところが、日共系の説明による事件概要に拠れば、「朝7時ごろ、かれらは再び協会事務所に襲いかかり、防衛にあたっていた会員たちになぐる、ける、水をかけるの暴行をはたらく。7時20分ごろ便所に行こうとした森下常任理事に襲いかかり、全治三週間の重傷を負わせる。こうして協会事務局は完全に監禁状態になる」となり、華僑学生側の負傷の記述は無い。全く逆に描き出している。ここまで事件経過を精緻に書き綴ってきている橋爪利次著体験的[日中友好]裏面史」にも該当する記述が無い。これは存在しなかったという意味であろうか。 同日午前8時頃、青柳盛雄中央委員、坂本修(ともに弁護士)は護衛をしたがえて現場に現れ、先にきていた松本善明らと合流し直接指揮を取り始めた。青柳盛雄は、赤旗紙上で「過剰防衛は微罪だから安心して闘え」論文を発表しており、正当防衛権行使推進責任者となっていたことが判明する。他にも、日共幹部会員候補・内野竹千代、書記局員・高原晋一、同候補・金子満広、中央委員で国会議員の岩間正男、日共中央本部勤務員・橋本広彦、中部地区法規対策部長・綱島英高、日共都議会議員・梅津四郎、大沢三郎、日共国会議員団事務局長・五明英太郎等日共幹部も続々とつめかけ、督戦した。坂本修弁護士は、4.2日付けの赤旗で「3.2日の午前8時前に現場へ赴いたが、それは謀議したり、指揮したりするためではない。心配していったのだ」(「事実をつくり変えることはできないできない」)と強弁しつつ、現場に居たことを自ら明らかにしている。日共中央の指令で早朝から続々と会館を包囲していた日共暴徒の数は午前10時には数百名に達した。 |
| 【3.2日、続乱闘】 | ||
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午後1時頃再度暴行事件が発生している。これが二回目の襲撃事件となる。日共側は弁当のさし入れを要求、学生側は昨夜の約束とおり会館側をとおして入れるよう回答した。前夜はその方法で会館管理者が玄関でうけとり、中にきちんとわたしていた。ところが、連中はこれを拒否、直接さし入れることを要求した。学生側がこれを拒否したところ、ニセ「日中友好協会」内から数十人の武装部隊が出てきて、挑発をおこない、玄関ホールでこれを阻止しようとスクラムを組んだ中国人学生と正統本部会員、友好商社員などにたいして竹竿や棍棒、備え付けの消火器をつかってあばれだし、このさい華僑総会職員劉道昌さんは頭部と腹部を殴打され重態、他にも4人の中国人学生と正統本部会員が重傷をおい、二十数人の負傷者が続出した。 日共系は、この経過を次のように報じている。
午後3時ごろ、3回目の襲撃事件が発生している。日共系のヘルメット武装部隊は入口の戸びらを竹竿や角材、パイプなどをつかってこわし、さらに積んである机や椅子をこわしはじめた。中国人学生と日中友好協会正統本部会員、友好商社員たちはこれを防ぐため、水をかけ、机や椅子を補強し、一時間近くにわたって奮戦した。 日中友好協会(正統)本部会員の近野省三さんも午後4時ごろの乱闘で、棍棒による殴打をうけ、頭部陥没の重態。意識不明のまま慶応病院に入院。3時間半にわたり手術をうけたが、直径10センチの頭蓋骨陥没という重傷のため2日夜現在いぜん意識不明の危篤状態をつづけている、とある。 梅津四郎は会館玄関のそばで、商業新聞記者その他の人びとの前で公然と、警察の責任者に向って全く事実と反対に、華僑学生と日中友好協会(正統)の会員が善隣会館への人の出入を妨害していると称して「会館への出入は自由である。これを妨害するものは排除せよ」と要求した。ちょうどこのとき、廖承志弁時処駐東京連絡事務所の孫平化首席代表とその他の代表が負傷した華僑学生を見舞いに訪れたのをみて梅津は、「ここは日本の領土だ。廖事務所の誰がこようと遠慮することはない。排除せよ」と警察に要求した。
「東京地裁は『日中友好協会の占有使用妨害排除』の仮処分を決定」。 夜に入って、警察隊の人垣にかくれるようにして、暴力団は手勢をあらたにして「事務局員」といつわり、どんどん入室した。室内の「事務局員」は、はじめから数人にすぎず大部分は、党と民青から派遣された暴徒であった。 中国人学生と正統本部会員、友好商社員たちは、夜を徹して対峙し、再度の襲撃にそなえた。 |
| 【3.3日以降の動き】 |
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3.3日午前、会館理事会は緊急会議を召集して、「中国人学生を世話する会館として、このような不祥事をおこしたことについては、責任を感じ、負傷した学生およびその父兄に陳謝し、医療費は会館で全額負担する。また、沖寮長の名義で日共修正主義暴力団の学生にたいする暴行傷害を検察庁に告発する一方、ニセ『日中友好協会』は会館の日中友好の原則に反するからあらゆる手段を講じてこれを排除する」ことを決定し、華僑総会の代表および寮の責任者をまねいてこの旨を正式に伝え、さらに華僑学生は被害者であることを認めた。 同日、東京華僑総会は緊急理事会を召集して、日共修正主義グループのファッショ的暴行を激しく糾弾する声明を発表し、さらに官房長官、警視庁、富坂警察署、会館理事者に対して抗議することを決定した。 同日午前10時、検察当局は、日共国会議員と弁護士の要求に基づいて、暴徒らの便所への出入りを「保証」するということを口実に、裁判所の仮処分をとり、警察の力をかりて華僑青年をむりやりに廊下の片すみにひきさがらせた。 同日午後3時、日中友好協会正統本部は記者会見を行ない、日共修正主義グループの華僑青年学生に対する迫害事件の真相を報告し、あわせてこの事件についての声明を発表した。 3.4日午前、孫平化氏は病院に赴いて、重傷の華僑青年任政光と、日本人青年近野省三を見舞い、慰問した。任政光は、吐血、血尿をつづけている。近野君は、すでの頭部の手術は終えたが、手術後視力が減退し、なお危険期を脱していない。 午後2時、華僑総会と日中友好協会正統本部は、会館内で合同集会を行ない、華僑に対する日共修正主義グループの気狂いじみた迫害に抗議した。孫平化氏は大会に出席し、日共修正主義分子の暴虐行為をはげしく非難し、華僑の正統な権益を守る正義の闘いを支持する演説をおこなった。 午後6時、日共修正主義グループは「安保破棄・諸要求貫徹中央実行委員会」の名で、千数百名の「日共党員」、「民青同盟員」、青年学生をかき集め、礫泉公園において、いわゆる「日中友好協会支援、日本の民主運動にたいする暴力と不当干渉抗議、対外盲従分子粉砕」という反中国大会を開き、閉会後、反中国「デモ行進」にうつり、善隣学生会館のそばだけでなく、故意に、廖承志事務所の代表と中国記者の宿舎から百メートルほど隔てた道路を選んで「行進」した。このデモコースは、日本政府当局が許可したものである。 |
この後は、「(れんだいこ私論.私観)「善隣学生会館事件」について」
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(私論.私見)