補足(20) 宮顕の希少価値的選挙戦と労働運動指導時の様子

 (最新見直し2006.5.13日)

 「暗黒の代々木王国」(辻泰介)に、次のような基調レポートがあるので紹介する(P263〜)。
 「私ははっきり証言しますが、宮本書記長が大衆嫌いなのは野坂議長以上です。それは彼に大衆を前にした演説をやらせると良く分かります。世間の一部では、宮本や袴田が選挙に打って出ないのを『さすがに革命政党だ、二流人物は選挙に出すが、本当の指導者は『奥の院』(注・該当漢字が拾えませんので代替文字を当てておきます)にあって3年を指揮している』などと考えて、宮本らを神秘化してしまいますが、ここでも、王様の耳はロバの耳、です」。
 「実は、宮本顕治も東京第一区から一度だけ衆議院議員選挙の候補者として打って出たことがあるのです。それは、東京第一区−つまり、私の活動地盤である文京区、林町の宮本百合子さんの住まいがある文京区を舞台にした選挙でした。当時の党内抗争の中で宮本候補は冷や飯を食わされておりましたが、それにしても肩書きは『中央指導委員』番」。東大があり、文化人が多い、その名も文京区。文化人に絶対に人気のある大物宮本顕治が初出馬したというので、現役議員を有する社会党などは、コレハ大変ダ、目に見えて狼狽したものでした。私たちも大いに気を良くして、出足良く、選挙活動に突入したものでした。

 私は、ほとんど宮本候補につききりでした。当初の予定候補者であった松本三益氏が、『スパイ挑発者』として処断されるに至った伊藤律氏との関係か何かの原因で、急に下ろされたあとを、宮本顕治氏が立ったわけですが、私たち下部党員は、前評判の良さに気をよくして、候補者交替をむしろ歓迎しました。候補者のお供をしてというより実際は土地柄不案内の候補者を連れてなのですが−失対現場にも行きましたし、お茶の水女子大の寮にももぐりこみました。

 ところが、ダメなんですね。どこの演説会場でも、すぐに聴衆がダレてきて、シュンとなってしまい、およそ盛り上がりというものが出てこない。演説会を活気づける、あの生き生きとした大衆との交流というものが、まるきりないのです。逆に、そいつをプツンと切り、冷たく突き放してしまう。会場全体が、宮顕候補の話が終わる頃には、話の継穂もつかないくらいに冷え冷えと、寒々としてしまうのです。

 この区も、野坂参三が5万、6万と票を取っていた区です。党の支持がないわけでもないのにも関わらず、期待の大物宮本中央指導員は僅か2万3千しか取れないで惨敗したのです。これは、前評判が良かっただけに、余計悲惨でした。(中略)

 はじめはぶるったていた社会党の運動員が、一回演説会を覗いただけで、たちまち喜色を取り戻し、『勝った!』と叫んだそうです。虎がハリコであることが見透かされた、とでもいうのでしょうか。ところが、負けた本人自身は、後々までも、彼が工作責任者であった民主主義擁護連盟が一千万人を結集していた。というのが自慢の種なのだから、どうしようもありません。一千万人を『統一戦線』に結集していたご本尊が、2万3千なにがしで落選というのでは、どうしようもありゃしない」。
 「私は、ゼロ敗選挙の時、中央指導委員として文京区に派遣されてきた宮本先生のお供をしていて、オドロイタことがあります。『宮本先生』とは、私たちが失対人夫と呼ばれた失業労働者を組織し、動員し、宮顕を候補者としてその先頭に立て、職業安定所の所長と大衆団交をやった際に、その所長が奉って呼んだ敬称です。所長は確かに最初、『宮本先生』の出現に緊張し、エライ有名人が運悪くここに現れたものだとボヤキ顔で、『先生、先生』、『先生のような方がワザワザ』を連発していました。

 失対手帖取り上げを廻っての交渉は、何しろギリギリの生活がかかっていますから、大衆自身によって激しく行われました。所長は、今日の大学の学長と同じことで大衆的に吊るし上げられました。ところが、こうした激しい場面で、いつも所長救い出す役は、泣く子も黙るはずの我が『宮本先生』なのでした。

 私はビックリしました。ちょっとでも妥協案が出てくると、すぐに飛びついてしまうのです。そんなもの蹴飛ばして、激しい交渉を続行しようとする大衆との間に立って、私が困った顔を向けると、『もういいもういい』と云うのです。私にとって、闘士宮本顕治は『もういいもういい』先生でした。終いには、すぐに要領を呑みこんだ職安所長は、安心しながら、こびへつらうように、一層『宮本先生』、『先生、先生』を連発するようになり、こちらの候補者を100%運用したものです。

 原則居士は妥協居士なのです。あの世の原則、この世の妥協なのです。紙の上の原則、実際活動の妥協なのです。宮本先生は、大衆運動の現場ではカラキシ駄目でした。演説会場でカラキシ駄目だったのと同じことです。俗に言って、ケンカのやり方一つ知らないようでした。失対の大衆は宮本先生に大変不満で、私のような党の運動員はそれをなだめるのが一苦労でした。
 
 これは分派闘争で宮顕が冷や飯を食わされていた時期なので、否応なしにただ一度だけ現場に、前線に下ろされてきたからでした。後にも先にも、彼が現場指導に雄姿を現わしたのは、この時だけに違いありません」。