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夢・共産主義第一部

第五章 マルクス・レーニン主義

第五節 フルシチョフの秘密報告

 前節では、日本共産党の「50年問題」と、「マルクス・レーニン主義」について、その問題点を探求しました。日本共産党は、スターリンと毛沢東からの干渉を受ける中で、極左冒険主義的「革命戦術」を採用し、稚拙な武闘方針を実践にうつすなどして、国民から離反し、党は分裂してしまいました。

 その党を、統一し、再生するための作業が、50年代中盤から後半にかけて行われます。
 その熾烈な、理論闘争のさなかに、共産党としての基盤が根底から問われる、「フルシチョフ秘密報告」がなされ、全世界に周知されたのです。

 日本共産党は、スターリンらから、事大主義的干渉を受け、重大な被害を受けながら、それでもなお、当時は、ソ同盟共産党を事実上「指導党」として仰ぎ、ソビエト社会主義が、世界を先導する社会体制であるとの認識に立っていました。

 そうした固定観念からの脱却をはかる上で、「秘密報告」は、ある意味で絶好の機会であったのです。


(1)「フルシチョフ・秘密報告」によって、
   スターリンの犯罪がはじめて世界周知の事実となった


 本文bO15・第四章スターリン独裁の確立、第三節「大粛正」の開始で、「フルシチョフ秘密報告」について取り上げました。この「秘密報告」により、スターリンの犯罪が世界の知るところとなりました。

 フルシチョフは、1956年2月のソビエト共産党第20回党大会において、その日の日程がすみ、宿舎にもどった代議員を夜半午後10時に再招集するという「非常手段」を講じて、この「スターリン批判・報告」をおこなったのです。

 スターリンが死亡した年が、1953年3月15日でした。
 その3年後の党大会で、フルシチョフは、独裁者スターリンの「旧悪」を世界中に知れ渡るようにして、暴露したわけです。

 旧ソ連邦が、世界に「社会主義国家」成立を高らかに宣言した象徴的出来事としては、1936年憲法(いわゆるスターリン憲法)をあげることができます。ついで、新経済政策を否定し、農業の集団化を実行することによって造り上げた急激な重工業推進を特徴とする経済基盤の「創造」。緊急五ヵ年計画の実行から、次の五ヵ年計画と、旧ソ連邦は、表向きには、社会主義国家の建設が急速に進んでいることになっていました。

 しかし、その裏側、ソビエト国家内部においては、「大粛正」と呼ばれる冷酷非道なるスターリンの犯罪が進行し、その結果として誕生した政権は、スターリンの個人独裁政権であったのでした。015をもう一度お読み頂きたいと思います。

 日本共産党は、党の統一という課題と、「マルクス・レーニン主義」の重大問題の克服の課題とに、どう取り組んだのでしょうか。

(2)日本共産党は、「50年問題」をどう総括したのか
  そして、「スターリン批判」をどう受け止めたのか


 「50年問題」のきっかけとなったスターリンと毛沢東の干渉は、スターリンによるアジア政策の一環としてのものでした。日本共産党に極左冒険主義的革命方針を押しつけ、共産党員らを「中核自衛隊員」として組織し、「火炎ビン闘争」や「交番襲撃闘争」に駆り立てた張本人は、干渉者であるスターリンと毛沢東であったと言っていいでしょう。

 また、その干渉の受け皿として、日本共産党の変質を図ったものたちの元締めが、野坂参三であり徳田球一であったわけです。また「北京機関」に結集した、当時の中央委員会幹部達の面々も、その責任は、深く深刻に問われるべき問題であったと思います。

 野坂参三に至っては、スターリン「子飼い」のエージェントであったのですから、「なにおかいわんや」ということになります。

 ここでは、日本共産党は「マルクス・レーニン主義」をどう位置づけてきたのかというテーマで検討することになりますが、わたしは日本共産党は、「50年問題」を総括するにあたり、実はその理論的バックボーンであった「マルクス・レーニン主義」をとことん探求して総括することができなかったと見ています。
 
 つまり、日本共産党は、「50年問題」を総括するにあたり、組織のなかにあった家父長的組織運営にみる、前近代的体質の排除、すなわち党の民主的運営基盤の確立、事大主義・教条主義の克服、すなわち自主独立路線の確立、党の規律と団結の保障となる党運営の原則、すなわち民主主義的中央集権制の確立等を、教訓として導き出しました。

 しかし、他方で 党を分裂させた最大の原因者であるスターリンと、毛沢東の責任を問う声は一言も挙がることはありませんでした。また、事大主義者となって、その干渉を受け入れ、党内民主主義を蹂躙し、党を直接分裂させた、当時の党幹部たちに対する、責任の所在を明らかにすることが、まったくできませんでした。

 それは、日本共産党が、党を統一するにあたり、「分裂した双方の当事者達の責任を問わない」との政治決着により、「50年問題」の一応の決着を付けてしまったことに、原因があります。

 つまり日本共産党は、分裂状態にあった党を、統一するために、党の統一を最優先させるあまり、「50年問題」の総括を十分にしなかったし、できなかったのです。

 そのために、1958年第7回党大会においても、61年8回党大会においても、選出された中央委員会委員の顔ぶれは、旧態依然とした、「50年問題」を起こした「幹部達」が、つまり張本人達が、とくに、「北京機関」に結集した「幹部達」が、横すべり的に中央委員に収まっているのです。

 そのことの弊害が、60年代から70年代の日本共産党のたたかいにおいて、様々な形で噴出したのです。スターリンの末裔であるソ同盟共産党の指導者らからの干渉も、毛沢東自身からも、さらには、北朝鮮・金日成らからも、日本共産党は、執拗な干渉を受け続けることになったのです。

(3)事大主義者たちのバックボーンには「マルクス・レーニン主義」があった

 わたしがここでとくに指摘したい問題は、次の点にあります。

 当時の事大主義におちいった「幹部達」の、思想・理論的バックボーンには、「マルクスレーニン主義=スターリン主義」があった、つまり「幹部達」は、スターリン信奉者という意味のスターリン主義者であったということです。そのことに、当の「幹部達」を含めて、どのくらいの共産党員が気づき、また、自覚していたのでしょうか。

 この「スターリン主義者」であったということの意味には、旧ソ連邦社会を「社会主義社会」としてとらえること、また、1949年中国「解放革命」を社会主義革命としてとらえ、中国全体が社会主義国家としての建設が始まった国との認識に立ったこと、そして、1947年の朝鮮民主主義人民共和国樹立宣言とそれ以降の国家・社会建設の過程を、これも同様に「社会主義国家・社会建設に歩み出した」との認識に立ったことが含まれます。

 この考え方は、東欧諸国の「人民民主主義革命」による、一連の国家建設をも、社会主義建設となべて見なす、そうした考え方も含まれます。

 こうした「社会主義革命と社会主義社会イメージ」は、1950年代につくり出された一種の固定観念、それは、共産主義運動の当事者間だけにひろまり定着化したものではなく、ある意味で世界中で常識化された固定観念でもあったのですが、そのことが、そもそも誤りであったということなのです。

 日本共産党が、「50年問題」を総括するにあたり、この固定観念を打ち破るにふさわしい理論的な総括が、なしえたかどうか、つまり、スターリンや毛沢東の干渉主義の背景である「マルクス・レーニン主義」そのものに対する総括が、なしえたかどうか。

 わたしは、十分なる総括がなし得なかったために、日本共産党は、いわば「負の遺産」を背負ったまま、60年代から70年代のたたかいに取り組むことになったと思えてなりません。

 日本共産党を分裂に追い込んだ張本人は、大国主義・覇権主義者であったスターリンであり、毛沢東なのです。ところが、「50年問題」の総括は、そのことの責任追及の声すら挙がらずに、したがって、重大な干渉を繰り返しおこなったスターリンや毛沢東に対してはあいかわらずに個人崇拝的な「革命英雄」としての評価が、そのまま、継承されてしまったのです。


(4)「フルシチョフ・秘密報告=スターリン批判」の受け止め方


 日本共産党が、党を統一するにあたり、その克服を課題とすべき重大問題に、世界周知の事実となった、スターリンの犯罪=「スターリン批判」がありました。

 bO15で説明したとおり、ソビエト共産党第20回党大会における「フルシチョフ報告」自体は、「政治演説」であることにはかわりありません。
 しかし、指摘された事実は、深刻で重大でした。
 こうした事実が明らかにされたからには、すべての世界中の共産主義者は、このことに対して、つまりはスターリン主義、あるいは「ソビエト社会主義国家」について、それぞれの見解を表明することが求められたはずです。

 当時、ソビエト社会主義を、また、スターリンを、偉大な革命国家でありその指導者であると思いこんできた、その根拠が根底から崩されたのですから、この事実を無視しては、その後の、あらゆる意味からの「社会主義論」は語れないことになります。

 世界の共産党や共産主義者たちにとっては、重たい大きな十字架が背負わされたということでしょう。わたしは、そう見ています。

 わたしは、この時点で、少なくとも次のような疑問、問題意識が持たれて当然だったと思います。それは、
○この報告は、事実なのか。真実なのか、ということ。

 日本における最初の邦訳本は、明らかにアメリカ政府が握った情報で、英文のものでしたから、その出所が本当なのかどうか、いわゆる「西側」の反共宣伝なのではないのか。
 当時の人たちであれば、まず、そおいう疑問を持ったはずです。
 そして、この疑問はすぐに解けました。指摘は、すべてにわたり本当であったのです。

○事実だとすれば、そのスターリンの誤りとは、果たして「粛正」だけなのか。
 彼の指導者として取ってきた一連の社会主義建設の方針や理論上の誤りはなかったのかどうか。
 コミンテルンからコミンフォルム等における、スターリン主義の弊害はなんであったのか、厳しく「見直す、あるいは洗い直す」必要があったのではないのか。

○信じられないような個人崇拝が培われてきた思想的・歴史的・社会的背景は何か。
 実は、一連の「社会主義国」には、その大きさ、深刻さの大小の違いはあるものの、たとえば東ドイツのホーネッカー、ルーマニアのチャウシェスク、中国の毛沢東、北朝鮮の金日成等にたいする信じられないような個人崇拝が生まれています。

 これは、その国の民主主義の未成熟、つまり遅れがストレートに反映したものといえますが、その個人崇拝を意識的につくり出して、国民を支配・統制するというやり方は、ナチス・ドイツのヒトラーや、日本の天皇制=天皇・現人神(あらひとがみ)論にも見られるものであり、二十世紀にあらわれた国家支配の方法として特徴点でもありました。
 
 そおいうことと縁もゆかりもないはずの社会主義国家において、現実には、個人崇拝が起こり、また、押しつけられ、育てられていた事実について、深い探求がなされてしかるべきと思われるのです。

 次いで
○ソビエトの民主主義は重大な問題を抱えているのではないか。
 国民の自由や権利は守られているのか。ソビエト型の一党独裁体制の限界。民主主義と官僚主義。とくに「社会主義国家における官僚主義台頭の必然性」を、深く分析すべきだったと思います。

 一般的には、社会主義・共産主義は、徹底した民主主義の上に成り立つものという考えが、私たちが学んだ社会主義論でした。そうではない社会主義体制なのか、つまりは全体主義国家の亜流なのか、との疑問は、徹底的に追及すべきテーマであったはずです。

○ソビエトの社会主義は、本当に社会主義なのか。
 このときは、「世界は、社会主義と資本主義との二大陣営に分かれる」との情勢認識でしたから、ソビエトは社会主義であるとの認識に対する、根本的なところからの疑問は、生まれようがなかったようです。しかし、一番大事な問題は、既存する社会主義が、マルクスやエンゲルスの言ってきた社会主義体制であるのかないのかと言うことでした。この問題に対する回答を出すとすれば、当然にレーニンによるロシア革命に対する評価の軸を、定めなければなりません。


 わたしは、このときに、共産主義理論に対する豊かな問題意識があったならば、育っていたならば共産党や党員、あるいは学者間に、次のような問題意識が、これも生まれて当然だったと、思えるのですがいかがでしょうか。

 マルクス・エンゲルスの展開した共産主義の理論上の脈絡からみて、つまり科学的社会主義理論において、1917年のロシア革命は、特殊な位置にある革命であり、スターリンの建設したソビエト社会主義は、本来構想されていた社会主義・共産主義とは違うものであるとの問題意識です。
 これは、私の問題意識ですが、仮にこうした問題意識が生じていれば、その後の日本の科学的社会主義理論の探求、または発展は、まったく違う様相を示していたのではないか。いわゆる「先進国革命理論」とも違う、もっと踏み込んだ、端的に言えば、「資本主義の発展のなかに、あるいはその延長線上に社会主義・共産主義社会をとらえる」といった画期的な、実は最もマルクス主義的なものになっていたのではないかと思われるのです。

 こうした「発想」に立つことは、「マルクス・レーニン主義」に対する根底からの問題提起に、結びつくはずですが、当時は、そこまで踏み込んで、ものをいっている人は、あまりいないようです。むろん、社会主義体制否定論そのものは、「旺盛」に展開されてはいます。

 結果として、日本の共産主義運動は、この点で、真の共産主義論を得る絶好の機会を逃してしまったといえるでしょう。


 その理由としていくつか考えられます。
 その1点目は、何よりも、日本共産党の場合は、党の分裂を「精算」して、新しく自分たちの力で、国際情勢を分析し、新綱領を策定しなければならないと言う、組織内部における最重要課題に、追いまくられていたという現実があったのです。
 余裕を持って、ソビエト社会主義の本質を探究することなど、とても出来る状況になかったようです。

 世界情勢を認識する際の第一義的情報源は、「フルシチョフ秘密報告」がなされた、ソビエト共産党の第20回党大会でした。それは、世界中の共産党が、いまだに、ソビエト共産党を「指導党」として位置づけていたことを物語るものです。

 この「報告」が行われた第20回党大会は、地球上の政治地図は資本主義とともに、社会主義が台頭し、二大陣営となったとの国際情勢論が展開された大会でもあったのです。つまりこれはなにか。西側が陣営が流し続けた、「東西冷戦構造論」そのものなのです。

 そして、その「二大陣営」の対決の構図のなかで、「社会主義は勇躍前進している」、すなわち、社会主義体制は優位に立った、経済成長の上でも、「追いつき、追い越した」論であったのです。これが、20回党大会における、世界情勢分析の基調でした。

 フルシチョフが、「秘密報告」が、世界中の共産主義運動に与える打撃を差し引いてもなお、世界の共産党に対して「勇気」を与えることが出来ると、自信を持っていた根拠が、ここにあったわけです。世界の共産党等は、「スターリン批判」に強い衝撃・打撃を受けながらも、この「社会主義体制優位論」にしがみつくことで、この「危機」を乗り切ろうとしました。

 日本共産党は、この20回党大会と1957年11月14日の「社会主義12カ国の共産党・労働者党の代表者会議 宣言」(日本共産党代表は直接参加はしていなかった)と、1960年11月「共産党・労働者党の代表者会議 声明」から、国際情勢の分析を行い、また、党の綱領路線の軸になる論立てを行っています。


 2点目は、ソビエト社会主義の暗部を白日の下にさらすことは、敵からの反共攻撃に絶好の材料を与えてしまうとの判断がはたらいたこと。つまり利敵行為となる。そのことがまた、日本共産党への国民的支持を得る上で否定的作用を及ぼすのではないか、そおいう日和見主義(ひよりみ主義)的見地もあったかもしれません。この考えの人たちは、フルシチョフの秘密報告を、出来るだけ問題にしない、つまりは無視してすましてしまおうという態度にでました。

 3点目は、当時の日本共産党の幹部たちが、事大主義的発想、思想から脱却しておらず、ソビエト社会主義批判をできるだけ避けるべきだとの思惑に駆られていたのではないか、ということです。

 さきに指摘したとおり、共産党第7回大会の幹部団の重席を占めていたのは、野坂参三、志賀義雄、袴田里見、宮本顕治らであり、中央役員として選出された中には、安齋庫治、神山茂夫、内藤知周、中野重治、春日庄次郎をはじめとする人たちが並んでいますが、このなかで宮本顕治をのぞき、他の人は、ソビエト社会主義への追従者であり、事大主義者であり、時期の違いこそあれ、最終的には、分派活動等を理由に、日本共産党を除名されることになった人物です。

 野坂参三に至っては、党創立以来からの活動家であり、コミンテルン時代に名をはせ、戦後も党の要職にあり続け、参議院議員となり、百歳をこす長寿を全うした人物ですが、これが、コミンテルン・スターリンの庇護のもとに、味方を裏切り、同志たち・実は自分にたいする不利な情報を知り得た人たちを銃殺に追い込むなど画策し、諜報活動に従事し、戦後の党路線を攪乱させ、そして、現在の共産党の綱領路線のもとでも、秘密裏にモスクワから資金提供を受けていた(袴田里見ほか数人が70年代初頭まで資金提供を断続的にうけていた)などがわかり、党を除名されたのです。

 第8回党大会では、後に中国共産党・毛沢東の干渉を受け、その「盲従分子」となり除名された西沢隆二が中央委員になっています。この西沢隆二も、「北京機関」メンバーでした。

 こうした事大主義的発想を克服できなかった人物たちが、つまり、自国の共産党の方針をつくるさいに、モスクワや北京に出かけて「ご指示を仰ぐこと」があたりまえと思い続けていた人物たちが、幹部の主力をなしていたために、「スターリン批判」を知りながら、、その克服課題を提起すると、ソビエト社会主義批判をしなければならない、との思いがはたらき、結果として、「無視する」ことになったのではないか、これは、まったく私流の見解ですが、そう思えてなりません。

(5)当時からの論争点は?

 一部の学者間では、この問題が論争点にはなり、こつこつと研究してきた方たちもいました。しかし、私が、そうした学者らの本を探し出して読んだりしたのは、1980年代の中頃でした。

 共産党のなかでも、フルシチョフ秘密報告問題などは、私が入党した当時には、すでに風化しており、まわりの人たちも「知らないな」という人たちばかりでした。

 こうしたことから、日本共産党の社会主義体制論において、その後の理論的解明が、不十分なものに終わってしまったのではないかというのが、私の感想です。

 日本共産党の社会主義体制論は、今日では、7回・8回党大会時からは比べようがないほどに発展していますが、その発展の経緯をたどると、いいところまでいっているのに、結局は、ソビエト等の一連の「社会主義国家」を、あくまでも社会主義体制と見なしてきたことが枠・しばりとなって、そこを突破したところでの体制論を語ることができなかった、それがつい最近まで、引きづり続けた問題だったのです。

 それにしても、仮にこの時期に、その解明、探求がなされていたならば、日本共産党の社会主義体制論は、もっと早くに、「地球上に社会主義体制が確立されたことはない。社会主義を志向する革命が成功したことはあったが、そのことで社会主義が実現したと考えるべきではない」との見解が確立できたと思うのです。

 私が、あえて過去の問題であった「秘密報告」をもちだして、スターリンの社会主義を語ろうとするのは、過去において、ソビエト社会主義を、社会主義と認定してきたことの誤りを明確にすることができた最初の出発点が、この時期にあったのではないかと考えるからです。
 



第六節 「秘密報告」の衝撃
       共産党としての「克服」は1975年「上田・論文」においてであったが……

 党史に見る「フルシチョフ秘密報告」にたいする評価の変遷を見てきました。
次に、日本国内において、また、世界における「秘密報告」の与えた衝撃を追ってみます。

(1)戦後革命論争史

 わたしの手元には、上田耕一郎著「戦後革命論争史」(大月書店刊)があります。
 上・下巻ともに1957年1月30日発行のものです。
 60年代から70年代の「学生運動」はなやかなりし頃、おもに「民青系(日本民主青年同盟)」の活動家たちの間で、もてはやされていた「書」です。
 本書は、80年代に入り、そのときは日本共産党の最高幹部となっていた、著者自身の言明によって、「絶版」となっています。著者は、上田耕一郎となっていますが、兄弟である不破哲三氏との共著となっており、「絶版」の声明は、たしか二人して行ったと記憶しています。

 著者が、「絶版」を宣言したものを、いまさら持ち出して、その一々にたいし、私流の評価を下すなどというやり方は、フェアではないし、そのつもりはまったくありません。
 わたしは、この二冊の本を評価するからこそ、あえてとりあげ、「フルシチョフ秘密報告」が、日本の中でどのように受け止められたのかを探求したいのです。
 この点で、本書は、絶好の書として、いろいろな意味から、読むことに意義のある書といえます。

(2)はしがき
 上巻「はしがき」冒頭には、次のように記されています。
 「この書は、ある意味ではフルシチョフのいわゆる『秘密報告』によるスターリン非難から受けた大きな衝撃の結果として生まれたものである。ほとんど読みとおすのに困難をおぼえたほどのあの文章によって与えられた苦痛を、私は一生忘れることができないであろう。その苦痛は、私たちに過去を見直すことを強いる。すべてのマルクス主義者が例外なく信じている見解でさえまったくまちがっていることがありうるということを、苦渋とともに悟らされた以上、私たちの進路をさぐるためにも、すでに歴史的判定のくだったものと思われているもろもろの過去の足跡の、いくつかの曲がり角について、捨て去った方向について、見えなかった道について、その隅々まで新しく自分の目で見直すことを、フルシチョフ報告は強いているともいえよう。


(3)下巻第4章 第20回大会後の国際理論戦線の発展

 この第4章に、「秘密報告」を世界の共産党がどのように受け止めたのかが、詳しくふれられています。

 まず、イタリア、フランス、イギリス、アメリカなどの共産党は、ソ同盟共産党に正式発表を求めるとともに誤謬の責任をすべてスターリン個人に帰することは誤りであり、その原因の科学的究明が、必要であるとするかなり烈しい内容の声明をあいついで発表した。(「世界政治資料1 大月書店刊「スターリン批判と各国共産党」参照)

 6月中旬には、イタリア共産党のトリアッティが、雑誌「ヌーボイ・アルゴメンティ」(5・6月号)掲載のアンケートへの回答として、「社会主義的民主主義の問題と社会主義的民主主義の発展」と題する長文を寄せています。それは、「外国の共産党からソ同盟共産党にたいするきびしい批判論文」でした。その要約を上田耕一郎氏は、次のように示しています。

 (1)誤りの性格と規模  スターリンの個人的権力の集積によって民主的な生活・活動の官僚主義機構による制限が生まれたが、この権力の集積は「国家と党の指導諸機関の頂点」に集中した部分的なもので、ソビエト社会の基本的骨組はおかされなかった。
 しかし、「ソビエト社会の指導的幹部の大部分」が個人崇拝におぼれ、批判的・創造的能力を失っていたこと、人民全体が個人崇拝を誤りとみなさなかったことは誤りの深刻さを如実に示すものである。

 (2)スターリン批判の性格と結果  批判が下からでなく「上から出た」ことはこうした事情から当然であるが、今後広大な国民を再教育をすることは長期にわたる活動によってはじめて可能となる重要な課題である。これによってソビエト政治制度の本質的変更、たとえば多数政党制の採用などが起こることはけっしてありえないが、民主主義的発展の新しい過程は当然予想されるし、現に経済指導の広範な分権化などの一定の制度的変更はおこなわれつつある。

 (3)誤りの原因と共同責任  これまでの誤りのすべての原因をスターリンの「個人崇拝」に帰することはできず、誤謬が生まれ発展し長期にわたって存続しえた原因と条件をマルクス主義的に解明することが必要だが、ここからは当然「今日非難ならびに訂正のイニシアチブをとってきた諸同志をふくむ政治的指導者グループ全体の共同責任の問題」が生ずる(トリアッティはみずからくわしく個人崇拝を生んだ歴史的事情を分析している)。

 この(1)から(3)が、トリアッティの「問題提起」です。トリアッティは、イタリア共産党の創設者の一人で、コミンテルンの「闘士」であり、大戦後の同党の発展に貢献した人物ですが、わたしにいわせれば、熱烈なスターリン主義者の一人です。

 3点に要約された問題提起ですが、こうした立場にある人物が、フルシチョフ秘密報告を前にして、何を考えたかが、よく分かる論文であるところが、たいへん興味を覚えるところですが、わたしは、この文章を直接読む機会がありませんでした。中央公論の臨時号にも載ったそうですが、入手は困難でした。


 (4)アメリカ共産党の反応

 トリアッティの問題提起につづいて、アメリカ共産党書記長ユージン・デニスは論文『第20回大会とスターリン批判』(この論文は56年7月6日〜8日号『アカハタ』や『プラウダ』にも掲載されています。)を発表し、誤謬を生んだ歴史的情勢を分析しつつ「スターリンの指導の後期を汚した犯罪と残虐は……どんな歴史的・政治的『必然性』をもちだしても弁護できないものである」と断言し、さらにトリアッティと同様に「今日のソビエト指導者にかんする問題」を提出した。

 つづいて、フランス、ノルウェー、スウェーデン、イギリス、ベルギー、オーストリア、オランダ、インドネシア、フィンランド、ドイツ、カナダなどの各国の共産党が声明を発表した。それは、ソ連を今なお孤立させている責任をフランス、イタリア共産党に問いつつ、「ソ同盟自身に自分の汚れをあらわせたらよい」としたオランダ共産党を除いては、ほとんどすべがトリアッティの意見を支持するものであったが、積極的な分析の試みはなかった。

 ただフォスターが個人崇拝の歴史的基礎として、ソ同盟の歴史的諸事情の分析とともに、旧ロシアがおくれた国家であり民主主義的伝統が欠けていたことをあげ、指導者の共同責任についても後期にはスターリンとの闘争がきわめてむずかしかった事情の列証として、その闘争をおこなったチトーが社会主義諸国の「被害甚大な分裂」という結果を招かざるをえなかった教訓をあげていたのが注目されただけであった。……


 なお、この論争に人民民主主義諸国の(注 東欧諸国のこと)共産党が参加せず、ソ同盟声明が発表されてはじめて支持を表明したこと、日本共産党もまたこの論争の埒外(らちがい)にいたことをつけ加えておこう。

 (5)ソ同盟からの見解=回答

 ソ同盟共産党中央委員会は『個人崇拝とその諸結果の克服について』と題する決議を『プラウダ』56年7月2日に掲載した(『アカハタ』56年7月4・5日号)

(1) 個人崇拝は、全帝国主義世界の反ソ侵略の危険の増大、とくに1933年以後のドイツ・ファシズムの勝利後の複雑な内外情勢のなかで社会主義への闘争をおこなううえに「もっとも厳重な指導の中央集権化」と「民主主義にたいする若干の制限」が必要となった歴史的情勢のなかで、スターリンの個人的欠陥やベリヤの犯罪的集団の活動の結果生まれたものである。

(2) 中央委員会内には個人崇拝に反対するレーニン的指導中核がきずきあげられており、戦時中のある時期にはスターリンの個人的行動と専制支配に大幅な制限を加えた。
 しかし、この中核が、スターリンに公然と反対することができなかったのは、第一に、社会主義の成功がすべてスターリンに帰せられていた状況のもとではスターリンに反対するいかなる行動も国民の支持をうけられなかったこと、第二に、多くの犯罪の事実が当時はまだ知られていなかったことによるものである。

(3) したがって、「個人崇拝の根源をソビエト社会制度の本質に求めようとしたりするのは大変なまちがい」であり、トリアッティのように「ソビエト社会が『一種の改革』に面していいるかどうか」という問題を提起する根拠はない。ソビエト民主主義は偉大な発展をとげてきたし、個人崇拝一掃の大たんな問題提起は、「ソビエト社会主義制度の力と生命力の最善の証明である。」

 この決議による回答は、約一カ月にわたる論争をひとまず終結させる役割を果たした。

 ユーゴのチトーは、のちに『プーラ演説』(56年11月11日)のなかでふたたびこの問題を提起し、個人崇拝は制度の所産であるのにこれをスターリン個人に帰するのはごまかしであるとして、制度そのものにある個人崇拝の根源として「官僚的な機構指導の方法、いわゆる『画一主義』、勤労大衆の役割と願望の無視」などをあげた。(『世界政治資料』10号)


 チトーの指摘は、この問題に対する点において、正しいものと思われます。

(6)日本の場合はどの程度の受け止められ方だったのか

 日本共産党中央委員会は第20回大会の1カ月ののち五中総の決議として『ソ同盟共産党第20回大会について』(『アカハタ』56年3月24日号)という声明を発表したが、内容は第20回大会の諸結論の要約と六全協の正しさの再確認にとどまり、とくに積極的な内容をもつものでなかった。

 ようやく討議が開始されたのはフルシチョフ「秘密報告」が発表になったのちの6月末からで、7中総の決議『独立、民主主義のための解放闘争途上の若干の問題について』が参院選挙投票の直前に発表され、新綱領問題の一節「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」という部分の改定の必要を認め、サンフランシスコ講和会議以後の情勢の変化によって、議会を通じて「民主主義的民族政府」を樹立する可能性ならびに社会主義への平和的移行の可能性が生まれてきたことを明らかにしてからであった。

 この「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とのくだりこそ「50年綱領」の「暴力革命肯定論」の根拠とされたものでした。前出の「51年文書」がそれです。
 また、この文そのものが、モスクワに出向いた当時の党幹部を前にして、スターリンが直接指示して挿入した部分でした。

 党が分裂するきっかけとなった「重大テーマ」が理論的に克服された瞬間が「7中総」の決議でしたから、これはこれで重要な意味を持っていたわけです。

 しかし、このような事情から、20回大会における「秘密報告」問題そのものの議論は、共産党内よりはむしろ党外における活発な議論の対象となりました。
 このへんが日本国内のこの問題への対応の特徴となっています。

 議論は、
 主に『中央公論』『世界』の二つの総合雑誌の誌上で活発に展開されていき、しかもこの討論のなかでは、幾人かの例外をのぞいて沈黙を守っていた共産主義理論家のかわりに、従来スターリン主義および日本共産党をきびしく批判しつづけてきた山川均、向坂逸郎らを先頭とする労農派理論家がいっせいに見事な進出を見せ、さかんな論陣をはったことが大きな特徴であった。

 「労農党」はやがて、「社会党」に合流します。

 以下、多彩な著名人たちの論戦が紹介されていますが、それぞれが日本共産党と「マルクス主義運動」についてのべているところの意見が、その後の日本変革の理論へのアプローチとなっており興味深いものですが、ここでははぶきます。

 ただし、私の感想は、当時の共産党内のこの問題への対応、討議等は、ことの重大さを考えれば考えるほど、わたしにはあまりにも低調であったと見えるのですが、いかがでしょうか。

(7)何を教訓化したか

 さて、フルシチョフの秘密報告問題において、日本共産党は何を教訓化したのでしょうか。

 1958年第7回党大会については、先にも紹介していますが、この大会の模様は、現在は『前衛』臨時増刊号で知ることが出来ます。この諸決定と報告のなかで、「スターリン批判」にふれた個所は一個所だけありました。

 それは、野坂参三(中央委員会第一書記)の政治報告の「三 当面する党建設上の諸問題 61n5行目で「綱領討議その他のなかで理論と実践を遊離させる傾向も一部ではあるがあらわれている。またスターリン問題、ハンガリー問題など関連して世界と日本の反動勢力が展開した反ソ、反共宣伝のなかで、マルクス・レーニン主義の原則にたいする修正主義的動揺も党内の一部にあらわれた」というものでした。

 野坂参三が、党の責任者として報告に立っていること自体が、日本共産党にとっては強烈な皮肉であるといえます。
 しかし、このあとも相当長期間にわたり、野坂参三は党の顔として、最高幹部のひとりとして「活躍」するのです。野坂自身が、直接にスターリンの「粛清」の恐怖におびえ、また、同志を売り渡した張本人でしたから、心中おだやかではなかったでしょう。

 野坂参三は、共産党が統一を回復しようと苦労をしているこの時期にも、秘密裏に単独でモスクワ行きをはかっています。途中、中国に寄り、当時北京で「軟禁中」の身であった伊藤律(「50年問題」時の党幹部 アメリカ占領軍等のスパイ容疑で党を除名された人物)の処遇について、つまり、野坂の「旧悪」を知っていたらしいことから、永久に日本に帰ってこられないようにするための策動までしていました。

 みてのとおり、この野坂の取り上げ方は、「スターリン批判」を正面から受け止め、党内討議の末に、まとまった意見を述べたものではありません。

 そうした真摯な対応を示す前に、問題を「反共攻撃」にすりかえて、そのうえで、党内に生じた種々の意見等を「修正主義的動揺」として片づけようとしています。彼をめぐる様々な事実が明白となったいまの時点から、彼の言動をあらためて見直すと、たいへんに悪質な役割を果たしていることが分かります。

 党大会の扱いは、あきらかに「スターリン批判」についての評価等は「無視してふれない」対応をしていることが分かります。これは、次回の第8回党大会においても同じで、結局、このスターリン批判は、共産党の諸大会においては、ほとんど「ふれられないまま」におわってしまいます。

 異様に思うのは、世界各国共産党等からの祝辞やメーッセージの中にも、一言も「スターリン批判」がふれられていないことです。これほどの問題が、あえて無視された事情はなんであったのでしょうか。おそらくは、先に紹介したソ同盟共産党の「回答」によって、世界中の共産党のほとんどが、この問題を「一件落着」させたからではないでしょうか。

 わたしが、前ページで指摘した「五つの疑問・問題意識」についての回答は、7回から8回党大会にかけて、なんら見受けることはできません。これには、わたしはたいへん失望しました。


 (9)「マルクス主義と現代イデオロギー」

 上田耕一郎氏と不破哲三氏が、日本共産党内で重席を負う立場となってから発行した理論書としては、有名な『マルクス主義と現代イデオロギー』(上下巻)があります。
 これは、1963年10月に発行されています。

 ここでも、「スターリン批判」問題は、トロツキスト批判の「きっかけ」として登場するだけで、分析・評価等は皆無に終わっています。
 この時のトロツキスト批判の軸に、「スターリンの一国社会主義に反対したトロツキー」ということで使われています。こうした角度からの批判が、日本型のトロツキスト運動への評価となっていきました。この問題は拙文・後述で詳しくふれます。

 ほか日本共産党幹部、また、幹部外においても、スターリン批判問題を取り上げたものは見られません。

 (10)1975年「論文」

 ただ、「なるほど、そおいうことだったのか」と思わせる論文が1975年『前衛』11月号に載っていました。

 それは、上田耕一郎氏の「理論政策活動の新しい前進のために」です。
 ここで上田氏は、「五 国際共産主義運動と社会主義の歴史的展望」で、課題の中心は、ここでも同様であって、近年つぎつぎとあきらかになった諸事実――スターリンの悲劇的な誤り、ソ中両国の対立などなど、当初は衝撃的でしたが、いまでははやくも常識化したかのような、しかし依然としてきわめて重要な諸事実から、必要な全面的教訓をひき出し、わが党が確立してきた真の愛国主義とプロレタリア国際主義を統一した自主独立の立場と科学的社会主義の創造的発展の見地に確固として立って、国際共産主義運動と社会主義をめぐる諸問題について、真に科学的な組織的研究を、全面的、本格的におしすすめるという課題であります。

 (1)スターリンの誤り
 スターリンの時代は、レーニンの死後一九二四年からスターリンの死一九五三年まで、ほぼ三十年つづきました。この時代は、トロツキーとの闘争、ソ連の農業集団化と五ヵ年計画、大恐慌とドイツ・ファシズム、ソ連における大粛清と反ファシズム統一戦線、第二次世界大戦、東ヨーロッパの人民民主主義革命と中国革命、冷戦と朝鮮戦争などなど、国際共産主義運動がきびしい試練をへつつ、全体として巨大な前進をとげた歴史的時代です。 しかし同時にこの時代は、ソ連共産党第二十回党大会のフルシチョフの秘密報告といわれるものがあきらかにした、社会主義的民主主義にたいする恐るべき侵犯がスターリンによっておおこなわれた暗く悲惨な事件がつづいた時代でした。

 われわれは当時、いわゆるスターリン批判に際しても清算主義的態度をとらず、誤りの重大性とともに、スターリンがソ連共産党書記長であった時期にかちとられた歴史的事業の積極性を正しく評価する態度をとりました。

 スターリンが指導者であった時代のソ連の歴史についていえば、この態度はいまでも正しいことはうたがいありません。しかし同時に、その後あきらかになった幾多の諸事実からみて、スターリンの誤りは、当時考えられた以上に深刻かつ大規模なものであることがあきらかになってきました。

 日本の共産主義者も、山本懸蔵、国崎定洞などが犠牲になりましたが
(このときは野坂参三の犯罪はあきらかになっていなかった)、スターリンの誤りはソ連とソ連の党だけでなく、国際共産主義運動全体にも深刻な影響を与えたわけであり、スターリン時代のソ連ならびに国際共産主義運動についても、従来の公式や通念にとらわれずに、より広い範囲の問題点を再研究することが必要となっています。

 それは社会主義的民主主義の侵犯の問題だけでなく、スターリンの名とむすびついたかれの一連の理論と指導におよぶ必要があります。なぜならスターリンの誤りとその影響、その政治的、経済的、思想的根源、今日における悪しき遺産を明確にすることは国際共産主義運動の不団結をつくり出した根源としての大国主義の歴史的背景をも明確にすることになるからです。



(11) 上田耕一郎氏の「克服」


 私が「そうだったのか」と思った理由を述べます。
 一つは、こういう割り切り方をしていたのか、という意味で「そうだったのか」と思ったわけです。

 上田耕一郎氏も、不破哲三氏も共産党が綱領と規約を定めた党大会の時期には、党の幹部ではありませんでした。両氏が党中央委員候補となったのは1964年11月の第9回大会で、上田氏37歳、不破氏34歳でした。このころから、この二人の「若手」は理論戦線で「頭角」をあらわします。

 二人が、前出の「マルクス主義と現代イデオロギー」(1963年のはしがきで、次のように述べています。

 「マルクス主義と現代イデオロギー」と題するこの本は、一九五七年から六三年にわたる期問に、日本のマルクス主義にたいして加えられた批判と攻撃に答えるべく、私たちが書いた論文のなかで、主としてイデオロギー関係の主要論文を集めたものである。

 いまの過ぎ去りつつある期間をふりかえってみると、国内的には五五年の日本共産党の第六回全国協議会における極左冒険主義の自己批判と国際的にはソ連共産党の第二〇回大会におけるスターリン批判とによってひらかれたこの時代は、日本のマルクス主義が、思想的、理論的苦闘のなかから日本共産党の歴史的な新しい綱領(六一年第八回党大会)をかちとることができた時代であると同時に、日本のマルクス主義にたいして内外から激しい批判と攻撃が集中した時代であった。


 一面「マルクス主義批判の季節」と名づけることさえできるような特質をもったこの時期は、私たちにとっても大きた理論的、思想的試練の時期であった。

 前著『戦後革命論争史』上・下巻で不十分ながら戦後の日本マルクス主義における革命理論史の整理と総括をおこなった私たちは、こんどは論争をあとから整理する立場でなく、マルクス主義にたいしてつぎつぎと提起されてくる新しい問題に取り組み、新しい批判にたいする論争を実践する立場に身を置くこととなった。

 率直にいってそれは、生活の現実がほぼ歴史的回答を与えた時点で過去の論争史を書くことよりもはるかにむずかしい仕事であった。私たちは一つのテーマと取り組むたびに、日本の現実にたいする知識の不足とマルクス主義理論の把握の浅さに直面せざるをえなかったし、マルクス主義理論の他の、たとえば近代政治学や近代社会学などの未知の分野をもはじめて勉強することを迫られたし、また修正主義に走った、かっては信頼していた先輩や友人たちと激しい論争をも行なわねばならたかったし、そしてそのなかで自己の思想的な弱さや理論的誤りにも新しく気づかざるをえなかった。

 私たちはそのなかから、労働者階級の立場に立つイデオロギー闘争の重要な任務ときびしい責任とを改めて学ぶことができた。私たちがこの時期のイデオロギー闘争の分野で、もしも労働者階級の立場を大きくはずれることなく、その闘争の前進にたとえ若干でも貢献することができたとすれば、それはこの期問に歴史的な安保闘争をたたかい、今また原子力潜水艦寄港反対、日韓軍事同盟反対をはじめとする国民的な平和と独立と民主主義のための闘争をたたかいつつある、日本の労働者階級を中心とする勤労人民の偉大な闘争による励ましと、その前衛政党たる日本共産党の指導によるものである。


 その後中央委員となった両氏が、一定の活動期間を経て、また、この間の国際共産主義運動内にあらわれた、たとえばソ連・フルシチョフ修正主義問題、部分核停条約問題をめぐってのソ同盟共産党からの介入と干渉、中国の文化大革命と毛沢東・中国共産党からの日本共産党への干渉、チェコスロバキアにたいするソ連軍等の侵犯等の、烈しく揺り動く情勢を経験したのちに、日本の将来に責任を持つ政策的見地を打ち出そうという問題意識からの「報告」が本書であったわけです。

 日本国内の政治情勢は、いわゆる「70年安保闘争」があり、大学を中心とした「学園紛争」があり、そして72年には、米政府に「領土化」されていた沖縄の返還協定が結ばれています。また、この年の総選挙では、衆議院に42議席を獲得するという日本共産党の大躍進がありました。

 理論的には、60年代前半に、党綱領路線とのかかわりからの「構造改革批判」、「社会主義協会向坂派批判」「トロッキズム批判」「極左冒険主義批判」等がありました。
 日本共産党が参画する政権構想としての民主連合政府綱領も発表されました。
 忘れてはいけない問題として、「新日和見主義批判」問題がありました。

 こうした国内における政治情勢の発展と、そこにしっかりと根を下ろした日本共産党の「成長」を反映して、つまりは、いかなる外国からの干渉等を退けての確固とした自主独立路線を貫く立場からの「理論的整理と政策化」の課題を明確化したものが、先の1975年『前衛』11月号の報告文書であったわけです。

 ここで上田氏は、日本共産党としてもはじめてといえる「スターリン批判」についての総括的見解を表明していると思います。「56年批判」から約20年が経過しています。
 今度は「個人的な」理論活動としてではなく、共産党の重席を負う幹部としての立場での報告としてです。

 この間、共産党の幹部間で、このスターリン問題について、どのような論議が交わされ、どのような結論を見たのかは定かでありません。党内全体では、私の入党が1966年12月ですが、このテーマはまったく風化していたように思います。ですから、一般の党員の方たちが「スターリン批判」問題を、問題として認識したのかは、疑問です。「それってなあに」という感じだったのではないかと思います。
 しかし、共産党としての「結論」が、75年という時点で、党幹部である上田氏の言明を通じて、わたしたちの知るところとなったのです。

 これが、「なるほどそうか」と思った理由の一つです。


 私は、当時4月のいっせい地方選挙に日本共産党から立候補し、当選することが出来ました。3月に最初の子が誕生するという「めまぐるしい」状況下での選挙戦をたたかい、そのまま、議会質問や討論の準備におわれ、三日に一度は「徹夜」しなければ間に合わないという多忙を極めた日々を送っていました。

 そおした時期であった75年10月にだされた文書が『前衛』であったのです。

 そのときのわたしは、「われわれは当時、いわゆるスターリン批判に際しても清算主義的態度をとらず、誤りの重大性とともに、スターリンがソ連共産党書記長であった時期にかちとられた歴史的事業の積極性を正しく評価する態度をとりました。スターリンが指導者であった時代のソ連の歴史についていえば、この態度はいまでも正しいことはうたがいありません。」との「総括」については、「そんなものかな」といった印象で受け止めていたと思います。

 つまり「スターリン批判」問題には疎かったのです。この問題よりも、むしろその前段に書かれてあった、次の文書の方に注目しました。
 それは、
 「(自主的研究の)第一の課題は、戦前、戦後の国際共産主義運動の歴史の真実の問題です。この歴史は、帝国主義との対決、なかんずく反共宣伝との闘争を大義名分として、特定の党を神聖化する真実に反した教科書的通史が世界中でまかりとおってきました。しかし、人民解放の大儀は、この分野においても、もっとも原則的な態度で歴史の真実を追究することをわれわれに要請しています。われわれは戦前、戦後の国際共産主義運動をあらためて自主的、批判的に研究し、解明し、そこからの教訓を明確にしなければなりません。

 「そうでなければいけない!そのとおりだ!」と感心したものです。

 しかしながら、わたしが「ソ連型社会主義は社会主義とは違う」と思うようになったこのころから、この論文でも指摘するように、「同時に、その後あきらかになった幾多の諸事実からみて、スターリンの誤りは、当時考えられた以上に深刻かつ大規模なものであることがあきらかになってき」たのでした。

 ですから、
 「スターリン時代のソ連ならびに国際共産主義運動についても、従来の公式や通念にとらわれずに、より広い範囲の問題点を再研究することが必要となっています。」としたことは正しいとしても、「その程度でいいのか」との疑問はもっともつべきだったと思います。

 当時わたしが、「そんなものか」と読み流してしまった、「スターリン批判に際しても清算主義的態度をとらず、誤りの重大性とともに、スターリンがソ連共産党書記長であった時期にかちとられた歴史的事業の積極性を正しく評価する態度をとりました。スターリンが指導者であった時代のソ連の歴史についていえば、この態度はいまでも正しいことはうたがいありません」のここにじつは最大の問題があったのでした。

 「フルシチョフ秘密報告」を受け止めての「五つの疑問」を私は提起しました。当時はこのような疑問すら浮かばなかったのは、わたしの不明を恥じるところなのですが、わたしは、スターリンの誤り、「粛清」を含めた誤りの根本原因は、ソ連型社会主義そのものの体制にあったと、いまは確信しています。当時は、そこがうっすらとした「疑問」でしかなかったのです。

 つまり、「スターリンがソ連共産党書記長であった時期にかちとられた歴史的事業の積極性を正しく評価する態度をと」ったこと、ここに重大な「誤り」があったのです。

 もちろんわたしは、スターリンの異常で凶暴、凶悪な「粛清」が、社会主義体制そのものを原因としているといった社会主義=反民主主義=「大粛清」といった短絡した社会主義体制論を採るものではありません。
 しかし、それでは、社会主義ソ連邦が、なぜこうした重大な誤りを繰り返し起こすのかの説明がつきません。それは、ほんとうの社会主義社会ではなかったからなのだとの説明が必要であったのですが、そこまで踏み込むほど、わたしの知識水準はすすんでいなかったのです。

 スターリンの「粛清」は、ある意味ではスターリン個人とその取り巻きの犯罪といった面があります。異常な大量殺人でしたが、これを、例えばポルポトの大量殺人と同じだというような、革命に付き物の大量殺人だといった短絡した反共攻撃=謬論に結びつけるものではないのですが、「社会主義体制内の個人の誤り」では、絶対にないことだけはたしかな問題でした。

 したがって、その解明は、根本的なところからおこなわれるべきであり、つまりは、1917年の革命から、複雑な経緯をたどってたどりついた「一国社会主義建設論」のあらためての是非をふくめての掘り下げがなければならなかったと思ったのです。

 「それは社会主義的民主主義の侵犯の問題だけでなく、スターリンの名とむすびついたかれの一連の理論と指導におよぶ必要があります。なぜならスターリンの誤りとその影響、その政治的、経済的、思想的根源、今日における悪しき遺産を明確にすることは、国際共産主義運動の不団結をつくり出した根源としての大国主義の歴史的背景をも明確にすることになるから」だけでは、きわめて不十分であったと考えるのです。

 上田氏の報告文書は、このスターリンの誤りのあと、
(2)コミンテルン、プロフィテルンについての歴史的研究
(3)ソ・中対立とそれぞれの誤り
(4)大国主義的干渉と国際共産主義運動の団結の回復
となっており、それぞれについて、興味深い問題提起がなされています。
 こうした問題提起には、当時「わくわく」した気持をもちながら読んだものです。

 これが「そうだったのか」と思った二つ目の理由です。



第七節 不十分に終わったスターリン批判

(1)56年当時には「難しかった」社会主義体制批判
 スターリン批判、あるいはスターリン主義批判は、ソ連崩壊後はずいぶん出ていますが、正面から批判的見地を軸にして研究したり分析した本は、そう多くはないようです。だいたいは1970年代に入ってから出版されたものがほとんどのようです。私たちは、「本屋さん」にならんだ「本」を手に入れるしか方法がありませんから、その範囲での話ですが。

 そのなかには、一部ですが、レーニンの時代までさかのぼって、ロシア革命の性格や、その限界に言及するものもありました。

 ですから、私が「秘密報告(1956年)」の時点で、「五つの疑問」を持つべきであったといいましたが、当時の日本の状況下では、「17年ロシア革命から一国社会主義建設、そしてスターリン主義にもとづくソ連社会の『完成』」そのものに疑問を呈して、社会主義なのかそうではないのかという根本的な角度からの問題設定をおこなうことは、なかなか難しかったようです。
 むしろ、進歩的知識人のなかにおけるソ連邦に対する評価や、スターリンの果たした役割に対する評価は、「伝説」、あるいは「神格化」に近いものでしたから、そうした問題提起は、論外であり問題外であったのでしょう。
 ある意味では、わたしの意見は、結果論にすぎないのかも知れません。

(2)しかし60〜70年代にかけてなら出来たはず
 しかし、56年「秘密報告」当時に、そうした根本的なところから社会主義体制論を洗い直し、また組み立て直すことが出来なかったとしても、その後の世界の政治状況の変化をとらえての、根本的な見直しは、出来たのではないかと思うのです。
 60年代から70年代初頭の世界情勢の進展、たとえばソ連邦の経済システムの失墜や東欧社会主義国に対する強制的支配、それは、チェコスロバキア(当時)への侵略と暴力的介入支配というかたちで現れましたが、このときに、「社会主義として許されない行為である」式の批判を越えて、ソ連邦の非社会主義的性格の暴露が、もっとなされていてよかったでしょう。

 毛沢東の文化大革命に対する日本共産党の批判的見地は、今日にでも重要論文として残されていますが、日本のジャーナリズムなかでも卓越したものでした。しかし、それでも、日本共産党として中国は社会主義国家であるとの認識を、変えるものではありませんでした。つまり、これだけの大事件が、次々と発生した時点においてもなお、既存の社会主義体制論を、日本共産党は、基本的には変えなかったのです。

 75年・上田報告は、1976年党13回臨時大会(自由と民主主義の宣言等)を前にしてのものでした。
 この時期日本共産党は、理論・政策面において大きな「脱皮」をはかっています。
 その「勢い」を反映しての上田・報告であったと思われます。しかし、その「脱皮」も、いまのわたしから見ると、きわめて不十分であったと思えるものなのです。

(3)社会主義体制礼賛・美化論ではなかったか?
 すでに何回か指摘したように、日本共産党は、「ソ連型社会主義は、マルクスやエンゲルスがえがいてきたところの『社会主義体制の一つの形態』である」との認識を、もちつづけてきました。
 スターリンらの重大な誤りが天下周知となった段階でも、「スターリンがソ連共産党書記長であった時期にかちとられた、歴史的事業の積極性を、正しく評価する態度をと」っていたのでした。

 そして、その「歴史的事業」が、じつは事実とはほど遠い「架空」のものであったことがわかった後にも(それは、60年代から70年代にかけて)、「社会主義大国」の覇権主義批判は積極的におこなうものの、基本的な社会主義体制論は変えることなく、すませてきました。そうしたなかで、やがて、東欧とソ連邦崩壊を迎えたのです。

 1975年上田報告にある「スターリンの時代における、かちとられた歴史的事業」とは、いったいなにを指すのでしょうか。当時の時点にたっても、そのいくつかは、すでに色あせた、「東側」からの宣伝により「つくられた事業」だったのではないでしょうか。

 たとえば、1960年前後の時代における、「東側勢力」の宣伝ポイントは、地球上の社会体制は、社会主義と資本主義に二分され、資本主義は帝国主義的野心にもえた悪の権化であり(戦争を起こしたり、経済進出を強制的におこなったり、他国を従属化したりといった「悪」は、みな資本主義陣営の「業」なのだ)、社会主義陣営はその逆で、社会正義の立場に立ち、戦争に反対し、また、人民の生産的意欲も健全に育ち、いまやその経済力・生産性は資本主義国に追いつき一部はすでに追い越す勢いとなった、というものでした。

 当時は、「ソビエト」が、人工衛星を打ち上げたことをもって、その象徴的出来事とされたものです。また、中国では、毛沢東による人民公社方式を軸とする「社会主義経済」政策が失敗し、大飢饉が起こる中で、数百万人規模での餓死者を出すという状況下にあり、毛沢東が失脚するといった事態を迎えていました。
 しかし、日本国内では、そうした中国国内の重大問題については、ほとんど認識されずにいました。
 同時期には、むしろ、北朝鮮=朝鮮民主主義人民共和国が、チョンリマ運動を通じて、飛躍的に工業発展を遂げているといった姿が、これも事実ではなかったのですが、盛んに紹介されたりしました。チョンリマとは、朝鮮半島に伝わる伝説の千里を走る馬・千里馬のことで、南朝鮮・韓国は軍政のもと人民は搾取・収奪され、苦しみにあえいでいるが、北朝鮮は、すべての人々が幸福を追求し、それにふさわしい生産性の向上が、このチョンリマ運動によってはかられているというものでした。

 このように、安易に、じっさいの「社会主義国家」の実相を、自らの目で確かめることなしに、その国々の政府当局や共産党・労働党の発表した大会文書等を鵜呑みにしての「社会主義体制優位論」を、日本共産党は、採用していたのでした。

 また、これは、私たちの心に暗い影を落としたのですが、ソ連が水爆実験を開始しました。
 やがては、中国も、そのソ連や、アメリカと対抗するためとして、核実験を行うにまでなるのですが、こうした東西両陣営における軍拡競争、核軍拡構想に対しても、東側陣営のそれは評価されるべきとの主張が、日本共産党のなかからもでてくるほど、既存する社会主義陣営に対する見方・評価は、偏重しており、「甘かった」のです。

 その「甘さ」が、スターリン書記長時代には、誤りもあったが、「『歴史的事業』の数々もあったのだ」といった、認識論を生み出したのです。

(4)歴史的事業と思われていたもの
 既存する社会主義体制美化論の基盤は、やはり「マルクス・レーニン主義」の信奉にあったと思うのですが、その軸が、ソ連邦を社会主義体制の「支配国」と見る見方でした。そのソ連邦の育ての父親は、スターリンその人であったのです。

 スターリンの神格化と不可分の、一国社会主義建設の成功、大祖国戦争の勝利、「人工衛星を打ち上げるにまで発展した」科学技術力と経済力の発展基盤づくり、これらがみな「歴史的事業」の中身だったのでしょう。

 「経済力の発展」、資本主義国より「豊か」になろうとしているという問題設定は、70年代に入り「事実」として破綻していました。つまり、ほとんどの社会主義国、とくにソ連の経済生産性は、「近い将来共産主義になる」と自己宣伝はしていましたが、実体は逆で、技術革新は遅れる一方で工業生産性は落ち込み、生活物資は不足するし、非科学的農業生産のために農産物そのものが不足し、ただ軍需生産だけがのびるという、最悪の道を歩んでいたのです。

 しかも1964年にブルジネフ政権がうまれ、それから80年代の前半ゴルバチョフ政権に替わるまでの間、スターリン主義が「復権」し、ソルジェーニツィンが『収容所群島』でえがく暗闇の世界が「復活」していたのです。
 これが、ソ連邦の本当の姿だったのです。

 冷静な目を持てばこのような、旧ソ連の社会体制を全体的に掘り下げたところからの分析、評価こそ重要でした。わたしが言うところの「社会主義体制観の根本的見直し」が、60年代から70年代にかけて十分に行われてしかるべきであったのです。

(5)誤り
 日本共産党は、ソ連共産党に対しては、その干渉を糾弾し、あらためることを求めて、熾烈な闘争を繰り広げてきました。今日では、秘密文書が明らかにされたこともあり、ソ連共産党が意識的に「軍資金」などを用立てしながら、日本共産党内の幹部たち(複数の)を「内通者=スパイ」にしてきた事実も分かっています。

 野坂参三もそうでしたが、志賀義雄、あるいは神山茂夫といった国会議員になったものも含めて、こうした人物が「スパイ」として、ソ連共産党に定期・不定期に「文書報告」等をくりかえしおこなっていたのです。
 そおした当時の模様を、不破氏は、『日本共産党にたいする干渉と内通の記録』(新日本出版社1993年9月)を通じて明らかにしています。

 こうした政治状況、経済状況にあった旧ソ連を、それでも「社会主義体制である」として、いつまでも理論的に整理できなかったことは、わたしは誤りに属する問題であったと思っています。

(6)体制論の変化
 もちろん、このソ連を、社会主義の見本としたり、日本共産党が追究するところの社会主義のモデルとしたりするようなことはまったくありませんでしたが、「それぞれの国の諸条件のなかで生まれた『社会主義の一つ』である」との認識を持ち続けていたことは、私にはたいへん残念なことでした。

 日本共産党が『社会主義体制論』についてふみこんで、既存の社会主義体制をどのように評価し直すか、その論立てに取り組むようになったのは、私は、第19回党大会からではないかと思います。もちろんその以前の中央委員会総会の決定等から「見直し」は始まっていますが、要は、東欧社会主義の瓦解(1989年頃)、ソ連崩壊(1991年)をうけての見直し作業であったわけです。

 この19回党大会から昨年2000年の第22回党大会までの時期に、ようやく、「社会主義を目指した革命は起きたが、地球上に社会主義がうまれたことは、また、出来たことはない」という認識に到達したのです。
 社会主義をスローガンとしてかかげての革命は起きた、あるいは成功したが、社会主義政策を実現化させたところはないのだ」という認識です。

 このような認識に到達すれば、こんどは、それでは本当の社会主義・共産主義とは何なのかが問われることのなります。いままでは、ソ連型社会主義の問題点を指摘していれば、その問題に答えたことになっていました。ソ連型社会主義が、実はマルクスやエンゲルスが構想したところの社会体制とは違うものであったというならば、やはり、マルクスやエンゲルスが語ったところの社会主義・共産主義をあらためて示す必要があります。
 また、それはレーニン主義とも明確に違うものであるはずです。

(7)二冊の本
 さて、ここで二冊の「本」を紹介しておきます。

 日本共産党が直接出版したもので、スターリン批判全般を取り扱った本は、いまだに出たことはないのではと思います。これは、日本共産党の「やり方」なのかも知れませんが、マルクスやエンゲルスの文献にたいする批評も、レーニンの文献にたいする批評も、またそれぞれにたいする解説も、共産党の見解として発表することをしていません。
 以前、マルクス=レーニン主義の時代には、こうした個人の文献からの引用も、党の見解として発表していたことがあったように思います。

 そして、古典の解釈上の問題が生じていると思われる事柄については、党幹部の論文や、講義を通じて発表するという方法を採っているようです。

 共産党員であることを公表している方で、スターリン批判を取り上げた本としては、一つは柳田謙十郎氏の『スターリン主義研究』があります。1983年2月28日第一刷が、鞄中出版から発刊されています。これは、哲学者としての柳田氏が1979年9月26日に、「僕が死んでから発表してほしい」との「条件」を付して出版担当者に手渡したものです(「出版されるまでの経緯」)。
 その後も手直しはしたようですが、文字通りの「遺稿」となったものです。
 この「本」は、「共産党公認」による著作ではありません。

 もうひとつは、不破哲三氏の『スターリンと大国主義』です。これは、いわば「公認」のものといえます。
 先に紹介した「なぜならスターリンの誤りとその影響、その政治的、経済的、思想的根源、今日における悪しき遺産を明確にすることは国際共産主義運動の不団結をつくり出した根源としての大国主義の歴史的背景をも明確にすることになるから(上田報告75年)」との主旨をうけての執筆で、しばらく『赤旗』に連載ののちに1982年3月に出版されています。

 この二つの本を「比較検討」するような読み方は、私はあまり意味のないことだと思います。誰もしていませんが。

 両著者ともに、双方の執筆について、知らなかったようですし、したがって、ともに相手を意識してものをいっているわけではありません。むしろ、ほぼ同時期に、二人の共産党員が、別な「思惑・考え」をもって、スターリン批判をおこなったことに注目した方がいいと思います。

 なお、不破氏の本はすぐにどこでも手に入りますが、柳田氏の本は、出版部数も少なかったのか、まず手に入りません。私は、新刊本のとき赤羽のいわゆる「民主書店」で手に入れましたが、すぐになくしてしまい、神田神保町の古本屋さんで見つけたのを思い出して、買いに行ったらもうなくなっていた、そのようなことがありました。
 その後も、古本屋さんでは見たことがありませんから、まず手に入りません。

 ですからいま私の手元にあるのは、「本」ではなく、本全部を複写してもらったものです。

 不破氏の『赤旗』連載は1月から2月のことでした。わたしは、この問題について注目し続けていたものでしたが、当初は、「なぜいま連載なの?」といった感じで読んだものです。ただし、中身はさすがに骨太の「スターリン主義批判」となっていました。
 「スターリン批判/フルシチョフ秘密報告」から35年たってからの出版になります。
 あと2〜3年後には、ゴルバチョフ政権が誕生する、そおいう時期の出版でした。

 こうした問題に興味のある方にとっては、必読の本であると思います。また、不破氏の本としては、1990年・『科学的社会主義における民主主義の探求』も、いっしょにお読みになることをおすすめします。



第7回大会「政治報告」から
マルクス・レーニン主義とはなに?


 第8節は、日本共産党が、党分裂を克服し、その再生の出発点となった第7回大会と、党綱領を決めることになった第8回大会という、二つの画期的意味を持つ大会のなかで、「マルクス・レーニン主義」が、どのように位置づけられることになったのかを探ります。

 第7回大会は1958年に、8回大会は1961年に開かれています。

 この節を読むことで、「マルクス・レーニン主義」とは何かが、よくわかるものと思います。


1.最初のページ
 日本共産党の第7回党大会決定報告集(『前衛』1958.145 以下「7報告」と呼ぶ)と、同8回大会特集(『前衛1961.187 以下「8特集」と呼ぶ)から、「マルクス・レーニン主義」とは、なんであったのかを、徹底的に解明したいと思います。

 なお、本大会特集号は、増刷されていて、赤旗祭り会場・本屋さんなどで、いつでも入手可能です。

 「7報告」の最初のページには、大会会場の写真が載っています。舞台正面の「7回大会」の文字の下に、5枚の写真が表示されています。向かって左からマルクス、エンゲルス、レーニン、片山潜、徳田球一の5枚の写真です。

 ついで、政治報告を行う野坂参三の写真が、左手には、綱領問題の報告を行う宮本顕治常任幹部会員。

2. 開会の辞から
 開会の辞は、中央委員会第一書記の野坂参三でした。
 第6回答大会から、今7回大会までに、10年7ヶ月がたっていました。志半ばで倒れた同志のための黙祷が呼びかけられます。黙祷の最中に読み上げられる同志は、日本人だけではありません。当時は兄弟党と呼ぶ関係にあった、ソ連共産党のスターリン同志を筆頭に、ブルガリア共産党のディミトロフ同志、チェコスロバキア共産党のゴトワルド、ザポトツキー両同志、ポーランド共産党のピエルート同志、中国共産党の任粥時同志、フランス共産党のカシャン同志、イタリア共産党のピットリオ同志、ほかという具合です。

 日本人では、徳田球一同志、白川晴一同志、岸本茂雄同志、宮本百合子同志、ほかでした。

 「数多くの同志諸君が獄中につながれながら、不屈の闘いをつづけて」いるという報告もされます。このへんは、戦後の共産党のたたかいの困難さがにじみ出ています。

 大会に提起された4点の任務は、@過去11年間の国際、国内情勢の変化の把握、分析、そして総括をすること。A政治綱領をつくりあげる。B党建設と党生活に関するレーニン主義的基準の上にたっての、規約を改正する。C 中央委員会をつくる。

 ここに出てくる組織上の「レーニン主義的基準」とはなんでしょうか。このような言葉の使い方が、当時はされていました。その意味は、だんだんと分かります。

3.政治報告 野坂参三
 本論の目的は、あくまでも「マルクス・レーニン主義」の解明にあるので、その部分に限って、取り上げていきます。

 (1)最近の国際情勢
 まず「最近の国際情勢」から。
 冒頭で、「現在の世界情勢の主要な特徴は、ロシアの十月社会主義大革命からはじまった資本主義から社会主義への移行期である」として、「世界情勢の動向は、二つの対立している社会体制すなわち、社会主義体制と資本主義体制との競争の経過と結果によって決定されている。」としました。

 私は、この頃の情勢分析の基調となった、二つの体制の対立論は、東西冷戦構造論と裏腹の関係にある考え方ではないのかと思います。この「冷戦構造論」は、主に西側から流された情勢分析論でしたが、その緊張関係を強調することで、西側陣営は、軍事同盟を強化し、関係諸国を支配し、軍事大国化への道を正当化しました。同様に東側陣営は、ソ連邦を軸とした社会主義陣営の団結を強調し、軍事大国となることの必然性を説いたのでした。

 この頃は、ユーゴスラビアのチトーが掲げる社会主義理論は、修正主義理論であるという攻撃が、主に「モスクワ」から為されて、日本共産党もそのキャンペーンに参加していました。しかし、このチートーの主張のなかには、資本主義か旧ソ連社会主義かという二極構造で世界をとらえさせて、社会主義とは旧ソ連のことだとする「モスクワ・ヘゲモニー」に対する批判的見解があったのです。社会主義社会にもいろいろあるのだとの考え方がありました。

 私は、チトーが、それでは社会主義を、また、当時のマルクス・レーニン主義を正しく理解していた人物であるとは見ていませんが、この「柔軟な社会主義建設論」は傾注に値するものがあると思っています。しかし、こうした思想は、右翼的日和見主義理論ということで、国際共産主義運動から除外してきたのでした。

 (2)陳腐化した「社会主義大革命」
 もう陳腐化したと思われる「ロシア社会主義大革命」などという表現も、ソ連邦社会主義を美化するための、スターリン流の「ロシア革命」に対する形容詞ですが、何でも「大きければ良い」というものではないのです。「資本主義から社会主義への移行期」であるとの表現も、世界中が、ソ連邦社会主義国家のような国になっていくのだという考え方を、かたちを変えて言っているにすぎません。
 史的唯物論的発想で言及した「言葉」ではないのです。

 (3)人工衛星
 変化の第一としてあげた「ソビエト連邦を先頭とする社会主義陣営が、アメリカを先頭とする帝国主義陣営にたいして優位を占めるようになった」ことの証として、世界初の人工衛星打ち上げを実例としてあげていることは、たいへんおもしろいところです。
 生産力の発展の速度、重要な科学技術の分野等では、すでに帝国主義陣営をしのいでいるとまで言っていますが、実際はどうだったのでしょうか。

 皮肉にも、60年代後半から70年代にかけて、資本主義陣営の技術革新は飛躍を遂げて、新たな生産性向上の段階に突入していくのですが、ソ連邦の技術革新は停滞をきわめて、「もうすぐ共産主義社会に到達する」とまで喧伝してはいたものの、事態はまったく逆で、あって、経済破綻への道をまっしぐらに進むことになったのでした。その経済破綻の原因は、国家予算の25%を占める軍事費の増大にありました。

 こうした社会種陣営の本当の姿、実態は、ほかならぬ野坂参三あたりは、十分に知っていたはずですが、社会主義陣営のいわば隠れた部分について、彼は、日本人民に対して一言も、漏らそうとはしませんでした。

 どの国でも人工衛星を打ち上げる目的は、宇宙の平和利用のためではなく、主に軍事利用のためでした。それは、ソ連邦においても、中国においてもかわりありません。ミサイルの発射性能を引き上げて、各弾頭を積載し、いつでもおまえの国を攻撃できるのだぞという構えを、世界に誇示するための第一手段が、人工衛星の打ち上げなのです。商業衛星の活用は、その副産物として生まれたにすぎません。もっとも、今日では、その平和利用、商業利用が真剣に追求される時代になってはきましたが。

 (4)優位
 「このような社会主義陣営の優位は、共産主義をめざすソ連の経済建設の偉大な成功、中国革命の勝利、東ヨーロッパの人民民主主義諸国の社会主義建設の発展によってかちとられたものである。とりわけ、六億の人口をもつ中国で革命が勝利し、社会主義建設に成功し、日ましにその力をましていることは、国際情勢を変化させる大きな要因となっている。」

 当時中国は、49年革命後に一時期とった国家資本主義的政策が、朝鮮戦争への参加、人民解放軍派遣のなかで、挫折し、かつ破綻して、急激に軍事色の濃い政治運営が続き、戦争後のいわゆる「農業生産合作社」で一部は成功したものの基本的には失敗、そして58年中共第8回大会の「社会主義総路線」提起による社会主義宣言、人民公社99%組織化にみられる「農業の集団化政策」の実施、その失敗と飢饉をきっかけとした食料難による1500万人から4000満員に及ぶとされる餓死者の出現、といった状況にありました。

 その中国を、日本共産党は、社会主義として発展する国と描いたのです。当時の日本共産党が、こと社会主義諸国に対して、いかに「見る目」が備わっていなかったか、この一事をみても明らかです。

 (5)社会主義諸国論
 「これらの諸国は、社会主義の世界体制を形づくり、相互のあいだの協力と団結をかためて、国際情勢を平和と進歩の方向に発展させる原動力となっている。社会主義陣営の協力と団結、ならびに一貫したその平和政策は、帝国主義の武力によるおどかしと新戦争の準備をくいとめて世界の平和をまもり、被圧迫民族の解放を保障し、国際労働運動の偉大な前進を助ける、もっとも現実的な力である。」

 資本主義陣営は、帝国主義化し、戦争政策を人民に押しつけ、それを持って、圧政の限りを尽くしている。一方社会主義陣営は、協力と団結を美徳として、一路反戦平和を追求し、民族解放の先頭に立ち、共産主義社会への道をまっしぐらにつきすすんでいる。これは、資本主義悪論であり社会主義正義論ですが、その二つの陣営論を基盤としての情勢認識が、錯誤の上に成り立ったもので、正確ではないばかりか、日本人民に対し、間違った社会主義国家像を押しつけることになったとしたら、その責任は重大だと思います。

 じっさいに、「7報告」以降、機関紙アカハタ等を通じて、日本共産党は、ソ連邦や中国、はては北朝鮮までを、社会主義国家として美化し、天まで持ち上げる扱いをしています。アカハタによる社会主義美化キャーンペーンです。

 (6)57年モスクワ共同宣言・平和の呼びかけ
      (1957年11月・共産党・労働者党モスクワ会議)
 この「共同宣言」については、「7報告」のなかで、中央委員会常任幹部会員 志賀義雄による「モスクワ宣言についての中央委員会の報告」が行われています。
 日本共産党の世界情勢論は、この「宣言」の影響を受けていました。そして世界の共産党・労働者党は、「マルクス・レーニン主義」の旗の下に団結しようと呼びかけたのでした。また、「宣言」と「呼びかけ」を「わが党の行動の指針とするとともに、全国民にたいしてこの二つの宣言の思想を徹底的に浸透させ、平和の事業に全国民を結集するために奮闘しなければならない(16n)」とまで、位置づけを明確にしています。

 (7)二 国内情勢のところでは、ほぼ「マルクス・レーニン主義」の用語は登場しません。
 これは大変重要な意味のあるところです。
 日本共産党は、この大会で正式に党を統一します。そして、自主独立の立場をうちたてていきます。  したがって、国内情勢の分析は、「自力」で、熱心な討論を通じて深めていきます。
 国民各階層の現状と、諸矛盾のありようが具体的に検討されています。その矛盾を根本的解決する手だてとして、民主主義革命の遂行という発想を生み出します。これは、当時は当然視されていた、社会主義革命の実行論にたたなかったという意味があります。


 (8) 第二 当面の党と労働者階級の諸任務では、「労働者階級が、党の指導のもとで、統一戦線の真の推進者となり、その中心勢力とならなければならない。しかし、そのためには、党が、マルクス・レーニン主義によって労働者を教育し、思想的に獲得して……(21n)」とか、「資本主義諸国の労働者階級と人民が社会主義の思想にひきつけられていることを、もっとも恐れている。……共産主義運動とマルクス・レーニン主義にたいして思想的攻撃を集中し、労働者階級と人民を武装解除することに……(24n)」、あるいは「わが党は、敵にたいする断固とした、組織性のある思想闘争によって、わが党の思想・理論活動を創造的に発展させ、マルクス・レーニン主義をまもることを、当面の闘争における重大な任務としなければならない」などとの言い方で、マルクス・レーニン主義を登場させています。

 (9)国際共産主義運動
 また、「世界の労働者階級、勤労者、すべての進歩的な人びと、全世界の自由と平和を愛する勢力の団結のカナメとなるものは、世界の共産党・労働者党の団結である。わが党は、各国の共産党・労働者党とのあいだに、プロレタリア国際主義の原則にもとづく相互の信頼をつよめ、兄弟党の闘争を支持する。」として、国際共産主義運動における日本共産党の位置づけを明記しています。

 つまり、マルクス・レーニン主義を「党是」として位置づける、世界中の共産党・労働者党を「兄弟党」としてみて、その団結を訴えているわけです。「マルクス・レーニン主義」が、ここでも軸に座っていることに注目してください。

 (10)青年運動
 青年の希望をかなえるための、青年運動の構築に言及したところでも、「青年をマルクス・レーニン主義の思想で教育し、社会民主主義の思想を克服しなければならない(45n)」として、民青同盟(民主青年同盟)を「先進的な青年」とし、マルクス・レーニン主義で教育することを「党の任務」と位置づけています。

 (11)思想
 「帝国主義の反動的思想とその文化にたいして最後まで徹底的にたたかい、勝利しうるのは、マルクス・レーニン主義の思想であり、社会主義の文化であることを忘れてはならない。れわれは、マルクス・レーニン主義の古典、社会主義・人民民主主義諸国の思想的、文化的達成、わが国におけるその成果を労働者階級をはじめとする勤労人民のあいだに普及し、いっそう多くの知識人をわれわれの側に獲得する努力をつよめる必要がある(46n)」。
 ここまでくると、なにやらある種の宗教的教義を語っているかのようです。

 こうした論調は、さらに続き、「第六回大会以降の諸問題」のなかでは、「党はマルクス・レーニン主義の思想理論で党を武装することの重要性を軽視し(49n)」と、反省しています。 ほかならぬこのマルクス・レーニン主義の「総本山」であるスターリンと、その「追従者」としての役回りで策動した毛沢東によって、「51年綱領」が押しつけられ、日本国内における日本共産党の極左冒険主義的行動を呼び起こしたのですが、そうしたことを知っているのは、報告者である野坂参三であり、その取り巻きであったごく少数の人物たちでした。

 野坂は、自らが党分裂を仕掛けた張本人のクセして、「1950年の分裂は、党の政治的思想的水準が低く、理論が軽視され、党の思想建設が、重視されていなかったところからおこっている。労働者階級をはじめとする人民大衆と結合し、マルクス・レーニン主義理論の理論とそれにもとづく正しい戦略戦術によって固く団結することこそ党の統一を確保するカナメである」と「第五の教訓(57n)」としてあげ、説教しているのです。

 もちろんこの「野坂報告」は、彼の個人的信条を吐露したものではなく、党幹部団が了承した「原稿」を基調として発言したものですが、いまこの「報告」を読むと、あらためて、日本共産党の事大主義的傾向の深さを痛感させられます。

 (12)当面する党建設上の諸問題(60n)
 この項は、一言で言えば、マルクス・レーニン主義で覆われています。この用語が、もしなかったならば、成り立たないところです。つまり、党建設の軸に、マルクス・レーニン主義による武装が呼びかけられているのです。
 もちろん、このマルクス・レーニン主義を「原理」として、日本共産党は、「日本の現実に即した」、理論的発展、創造的発展をさせなければならないとはしていますが。
 結局は、日本共産党をマルクス・レーニン主義の党として発展させようという発想でした。

 野坂参三による開会の辞と「政治報告」のなかの、マルクス・レーニン主義を見てきました。
 次のページでは、党の綱領案のなかにマルクス・レーニン主義が、どのように位置づけられたのか、それは、今日も未だに議論の続く、社会主義・共産主義社会論との関連を探求することにもなります。