| 宮顕系対不破系人脈の接合と非接合考 |

| 1955年の六全協で日共党中央に登壇するやことごとく党内闘争に勝利し独裁体制を敷くことに成功した宮顕派、それを後継した不破派との間の対立につき、それを過大評価する評者と過小評価する評者とに分かれているように見受けられる。れんだいこは過小評価組なので考察を控えていたが、れんだいこの主宰する掲示板「左往来人生学院」に過大評価組の見解が立ち現れるに至り、この見解をベースにして議論が展開する気配となった。そこで、れんだいこは、本サイトでこの問題を考察することにした。認識のすり合わせ、共有化を願う。 2004.5.8日 れんだいこ拝 |
| 宮地氏の論考「不破哲三の第2回・宮本顕治批判〔秘密報告〕」がこの問題に取り組んでいる。それによると、 〔第1回・秘密報告〕でのべたように、1970年代、ソ連・東欧の絶望的停滞が明らかになるにつれて、その原因探求と新しい路線模索としてのユーロコミュニズムが台頭してきた。その探求は、スターリン批判を突き抜けて、その誤り・4000万人粛清犯罪の根源であるレーニン路線の批判に向っていた。レーニンとスターリンとの連続性・非連続性のテーマである。宮本氏や私も、イタリア・フランス・スペイン共産党代表団とひんぱんに交流し、会議を持ち、相互訪問報告も聞いた。宮本氏は、自ら、その傾向に急接近し、何度もの共同コミュニケ・共同声明発表により、一時は、ユーロ・ジャポネコミュニズムとも言われるほどの状態になった。その時点の最接近度シンボルが、1976年7月第13回臨時大会における『自由と民主主義の宣言』内容である。この宣言によって、日本国民・マスコミは、日本共産党がユーロコミュニズム型共産党に脱皮することを期待し、共産党人気が一段と高まった。 反面、重大な問題点は、ユーロ・ジャポネコミュニズムに呼応する形で、日本共産党本部内の幹部動向と学者党員・出版労連関係党員の動向が、急激に活発化してきたことであった。上田耕一郎同志は、常任幹部会員・赤旗編集局長の立場から、その傾向を取り込んだ論文をいくつか発表した。学者党員では、田口富久治教授・藤井一行教授・中野徹三教授らが先頭になり、ユーロコミュニズム動向の紹介、スターリン批判のさらなる探求を展開し、ついには、民主集中制の一定の見直しなどを提起するに至った。 本質的にスターリン主義者である宮本氏は、ヨーロッパ3党との会談を繰り返す内に、その傾向に、きわめて危険な兆候を感じ取った。ヨーロッパのすべの共産党は、ポルトガル共産党を筆頭として、すでに1970年前半に、「マルクス・レーニンのプロレタリア独裁理論は誤りだった」として、公然と、その放棄宣言をしていた。それに止まらず、Democratic
Centralismの放棄も含めて、レーニン理論・路線の全否定に進む傾向があることを、彼は察知した。それらの反レーニン主義的動向を見分ける点では、宮本氏は、天才的な予知・察知能力を持っていた。 ユーロ・ジャポネコミュニズム内の上耕、学者党員、出版関係党員の動向を放置すれば、それは、必ずや、民主集中制の放棄とレーニン路線の全否定に突き進むことは明らかだった。スターリン主義者宮本氏は、それが、自分の党内権威失墜と転落に行きつくことに恐れ戦いた。その頃すでに、宮本氏と最高指導者私的分派「ごますり」「茶坊主」たちは、党本部内や、共産党系大衆団体グループ内で、表面的な権威はともかく、実質的な少数派に転落しつつあった。なぜなら、彼の硬直した民主集中制の規律強化路線や、大衆団体グループにたいするスターリン式ベルト理論の指令方式は、もはや時代錯誤であるとして、支持されず、軽蔑されつつあったからである。 実質的な少数派となった予知能力者宮本氏は、ついに日本共産党の逆旋回クーデターを決断したのである。その経過や、4連続粛清事件の内容は、〔第1回秘密報告〕の通りである。ただ、そのクーデター手口は、陰険で、ずるがしこい面が多々ある。 『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件 『「戦後革命論争史」に関する上田耕一郎「自己批判書」』クーデターとする根拠 私は、宮本氏が党本部内で、「ずる顕」と言われることを知っていた。党本部外や党外では、通常「宮顕」と呼ぶ。しかし、党本部勤務員・赤旗記者・国会議員秘書ら800人は、陰口として「ずる顕」と言う者も多い。「ずる顕」とは、「ずるがしこい宮顕」「表裏のある、ずるい宮顕」という蔑称である。宮本氏と直接接触した者は、それぞれが宮本氏の二面的体質について、なんらかの個人的体験を持っている。そこで、私(不破)の個人的「ずる顕」体験をまとめると、以下になる。。 第一、過去に一度でも、宮本氏を批判したり、意見が対立した幹部にたいして、宮本氏は、表で誉め、高く評価しても、裏側の心情として、批判・対立体験を絶対に忘れず、いつまでも猜疑心を捨てない。彼らを党内外排除するチャンスが生まれたとき、常任幹部会内や彼らの査問委員会にたいして、そのデータを、驚くほどの記憶力でまくしたてる。彼の執念深い報復心は、党本部内でとりわけ有名である。しかも、その排除・除名理由に、多くの事実歪曲やでっち上げレッテルをつけ、粛清者の宮本氏側が100%正しく、排除・除名された側が100%悪いとの印象を党内外に与えるという、きわめて陰湿な手法を使う。 第二、宮本秘書団の「ごますり」「茶坊主」の密告のみを取り上げて、幹部判断を左右し、人事配置をし、党内外排除の粛清をする。過去の過酷な少数派転落体験によって、子飼いの宮本秘書団しか信用できないというトラウマ(心的外傷)を癒し得ないのは、気の毒な最高権力者ではある。それでいて、彼は、マスコミにたいして、「意見のちがいで排除したことは一度もない」と、真っ赤なウソを何度もついて平然としている。「よくぞぬけぬけとそんなウソがつけるよ」というのが、その真相を熟知している党本部勤務員・赤旗記者・国会議員秘書ら800人のうちのかなりが抱く「ずる顕」観である。 第三、批判・異論幹部の査問や党内外排除という汚れ仕事は、他人にやらせ、自分はきれいごとだけやる。裏では、細部まで点検し、「自己批判書」の書き直しを命令し、事実上の査問委員長として振舞う。その汚れ役は、小林栄三同志を「代々木のベリヤ」とすれば、それ以前までは袴田里美を「代々木のエジョフ」として、便利使いしていた。もっとも、この表裏任務分担は、レーニンと秘密政治警察指導者ジェルジンスキーとの密着した関係以来、14の一党独裁国前衛党のすべてにおいて、見られた光景であって、日本共産党最高権力者宮本氏の独創ではない。 私が、もっとも強烈に「ずる顕」資質を認識したのは、上田・不破査問と「自己批判書」公表事件だった。次に、それをのべる。 宮本氏が、私を幹部会委員長にしたのは、1982年7月27日から8月1日までの第16回大会だった。私たち兄弟の「自己批判書」を常任幹部会が承認したのは、同年12月であり、12月9日には、宮本議長が『日本共産党の六十年』を発表していた。その間4カ月がある。彼が、2人の「自己批判書」を『前衛』で公表させたのが、1983年8月だった。承認から公表までに、8カ月間ある。この1年間に何が起きたのか。 この時期、宮本氏と最高指導者私的分派による逆旋回クーデター・4連続粛清事件のうち、第1ステップとしてのネオ・マル粛清は、1978年から始まっていたが、1983年の第2ステップ・民主文学4月号問題事件、1984年の第3ステップ・平和委員会原水協への一大粛清事件は、まだ表面化していなかった。しかし、常任幹部会内では、文学・反核平和運動分野において、その中央グループが、共産党中央からの指令に素直に従わず、抵抗する傾向、および、その根底に共産党からの自主・自立を目指そうとする傾向が報告され、問題視されており、それを、双葉の内に叩き潰すべきという意見が出ていた。 それには、10年前の事件が、宮本氏や常任幹部会員たちの頭にあった。1972年、民青中央委員会内共産党グループは、ゲバ民体験や沖縄返還問題闘争を経て、自分たち独自の大衆運動に自信を持ち、同じ傾向を表面化させた。ゲバ民とは、新左翼系学生とたたかうため、ヘルメット、ゲバ棒で武装した1万人のゲバルト民青部隊の略称である。そもそも、1万人の武装・動員・宿泊資金は、全額、共産党が拠出していたのである。その生意気な、青二才らの反抗にたいして、党中央は、600人査問・100人の1年間権利停止処分により、民青を党中央忠誠派に総入れ替えするという対民青クーデターを成功させた。民青は、当時の20万人から、現在在籍数2万人・同盟費納入率全国平均40%で実質同盟員8000人に落ち込んでいる。この党内犯罪については、私(不破)の個人責任もある。私は、民青年齢引き下げ方針の事後説得に出向き、彼らの批判・反論によって立ち往生させられたという屈辱的な体験をしていた。その点から、彼らにたいする報復心も手伝って、全力をあげて取り組んだからである。 『新日和見主義「分派」事件』その性格と「赤旗」記事 幹部会委員長・副委員長という私たち兄弟にたいする査問は、ある日、突然始まった。査問は、別々の査問部屋で開始された。当時、「上耕が座敷牢」と書いたマスコミもあったが、私も同じ目に会っていたのである。査問の詳しい経過を書いても、仕方がないので、私の「自己批判書」に基づいて、その不条理性を告発する。 第一の不条理、査問と自己批判が必要だとする論理 査問の表向きの理由は、『日本共産党の六十年』を、同年12月9日に、宮本議長が発表するので、その内容と上田・不破の26年前の『戦後革命論争史』内容との整合性を図る必要性がある。それには、当時の2人の思想・理論点検と民主集中制の規律違反点検、および、その自己批判が必要ということであった。著書が、なお影響力を持ち、反党分子らによって、利用される危険があるとも言った。 たしかに、『論争史』は好評で、1964年絶版までの8年間に、上巻7刷・下巻8刷と驚異的な売れ行きだった。しかし、26年前の出版であり、宮本氏との取引き契約で18年前に絶版にさせられていた。その経過からみて、著書の今日的影響力などあるわけがない。2人は、査問され、自己批判する必要などないと抵抗した。そもそも、絶版した本の内容・出版行為について、その18年後に自己批判書を書くなど、前代未聞で、およそナンセンスであると抗弁した。しかし、宮本氏は、No.1であり、常任幹部会をすでに、私的分派・側近グループで占めていた。彼の査問命令は、絶対的だった。 第二の不条理、「自己批判書」全文の『前衛』公表が必要だとする論理 仮に、26年前の執筆内容・出版行為に問題点があるにしても、その「自己批判書」全文を、わざわざ『前衛』に公表して、党内外のさらし者にする必要がどこにあるのか。これは、No.1によるNo.2・3の誌上・公開処刑の性格を持ち、かつ、規約による規律違反処分をともなわない生贄儀式ではないのか。しかも、1983年12月に常任幹部会が「自己批判書」を承認しているのに、なぜ公表までに8カ月間も必要としたのか。公表の論理は「利用される危険を未然に防ぐ」ということだが、これは、宮本氏の詭弁でしかない。彼は、ユーロ・ジャポネコミュニズムの影響により、党本部内や共産党系大衆団体グループ内で、実質的な少数派に転落しつつあった。彼は、何に怯えていたのか。この公表によって、どんな目的を果そうとしたのか。彼は、1982・83年にかけて、日本共産党の逆旋回クーデターをし、まず、党中央役員百数十人・党本部勤務員・赤旗記者・国会議員秘書800人をユーロ・ジャポネコミュニズムから絶縁させる決断をした。その目的完遂のため、彼らに脅迫と恫喝を加えるシンボリックで、衝撃的な生贄を必要とした。それには、2人の「自己批判書」公表こそ最適だと、彼が判断したとしか考えられない。 第三の不条理、『前衛』における「自己批判書」公表の順序 『論争史』表紙にあるように、著者は上田耕一郎一人であり、私の名前はない。「はしがき」末尾に「畏友不破哲三の全面的協力」「(21章中)4章の分担執筆」とあるだけである。ところが、『前衛』の公表順序は、「不破哲三の自己批判書」(P.229〜234)、「上田耕一郎の自己批判書」(P.235〜240)となっている。なぜ、17章も執筆した兄を先に載せないのか。私が、党内地位No.2で、兄がNo.3だから、その順序にするなど、まったく恣意的である。この逆立ち順序は、『論争史』の自己批判が必要だとする表向きの論理が、宮本氏の真っ赤なウソ、取って付けた屁理屈であり、真の理由は別にあったことを証明している。 第四の不条理、査問の中心テーマ(1)「党内問題を党外の出版物で論じた誤り」 『論争史』は、1955年六全協における「武装闘争は極左冒険主義の誤り」決定と、1956年2月フルシチョフのスターリン批判という2大衝撃を、日本のマルクス主義者として、どう受け止めるべきかという動機から出発している。その2つが日本国内に与えた影響からみて、それを論ずることが「党内問題」という枠にはまらないことは常識である。もちろん、そのテーマは、共産党の「党内問題」にかなり触れることは当然としても、それをもって、『論争史』全体を「党内問題」に矮小化し、すり替えて、規律違反とするのは、宮本氏が、批判・異論者を党内外排除する上で、常套手段とする得意の詭弁テクニックである。彼は、2つの必殺技を持っている。それは、批判対象者・党内外排除対象者の問題点を、「党内問題」に矮小化するか、それとも、「分派活動」とでっち上げる高等技能である。 著書内容の3編21章についても、〔目次〕全文や(注)を見れば分かるように、2つの衝撃や戦後左翼運動史を、社会党を含む日本の左翼陣営、マルクス主義者、それ以外の広範な知識人が論じており、雑誌『中央公論』『世界』も積極的に取り上げていた。それらはまさに国民的テーマだった。これを「党内問題」と歪曲規定することは、100%誤りである。それこそ、「ずる顕」氏がもっとも得意とする詭弁術である。『論争史』が、「党内問題」を含むとしても、それは、「日本左翼、マルクス主義者、国民全体がかかわりを持つ左翼・マルクス主義問題」と正確に認めれば、宮本氏と私的分派による査問の論理は完全に破綻する。 第五の不条理、査問の中心テーマ(2)「自由主義、分散主義、分派主義の誤り」 『論争史』上下の執筆・出版時期の1956・57年は、1955年六全協と1958年第7回大会「党章」草案採択可否の間の一大混乱期だった。〔第1回・秘密報告〕でものべたが、1958年第7回大会の「党章」草案の討論・採択に向けて、各分派が流動的であり、数十のグループがうごめいていたのが実態である。なかでも、スターリンの「宮本らは分派」裁定に屈服し、屈辱的な点在党員組織隔離措置の3年半を経て、ようやく、指導部復帰を果した宮本氏は、もっとも強烈、かつ、陰湿な分派活動を展開していた。徳田・野坂ら旧主流派にたいする彼の報復心は、自己に忠誠を誓う多数派分派をいかに形成するかという作業に熱中することで表されていた。 宮本氏が、第7回大会「党章」採択までに、新しい党中央派の最高指導者として、中央委員の75%、大会代議員の60%を占めるようになった理由は、4つある。 (1)、スースロフ・毛沢東・野坂参三らの命令に基づき、六全協前の1955年1月、志田重男と宮本氏一人だけが、分派的な秘密取引き契約をした。それは、宮本氏を、常任幹部会責任者として復帰させることと引き換えに、ソ中両党・野坂・志田らの武装闘争責任を追及せず、「極左冒険主義」という抽象的誤り規定にとどめ、その実態を一切公表しないという秘密契約である。 『武装闘争責任論の盲点』六全協人事の謎 (2)、六全協後、幸運なことに、志田・椎野の女性問題、武装闘争資金多額流用問題が発覚し、2人が逃亡したことである。その絶好のチャンスを逃さず、宮本氏は、野坂第一書記を「愛される共産党」アイドルに祭り上げるとともに、党の実権を手に入れた。 (3)、「党章」草案の綱領部分を、現綱領と同じ二段階革命路線に決定し、それをあたかも、決定ずみの「党章」であるかのように、『赤旗』や他雑誌を使って、大宣伝した。 (4)、その裏側で、宮本氏は、「宮本部屋」という彼公認の分派拡大工作組織を作り、多田留治・原田長司・亀山幸三などを中心に、数十グループの中で、もっとも意識的に、かつ、強力に「宮本部屋」の拡大運動を展開させた。(1)(2)(3)をバックにしているだけに、旧主流派の幹部たちは、雪崩をうって、「宮本部屋」大分派に、風見鶏さながらの鞍替えをした。 この同時期における宮本氏の明々白々な分派活動、その拡大運動に比べて、私たち兄弟は分派活動などしていない。そもそも、「自由主義、分散主義、分派主義」とは何のことか。「自由主義、分散主義」とは、党中央の指導・統制に従おうとしない思想傾向を指す。「分派主義」とは、分派の存在・活動を容認するような思想傾向のことであり、分派活動の実践そのものではない。たしかに、兄は、「自己批判書」で認めているように、石堂清倫らのグループに所属していた。それは、社会主義革命路線を支持する理論・研究グループのレベルであり、『論争史』出版経緯にあるように、10数回の研究・討論会をするという段階にとどまっていた。また、石堂清倫は、よく知られているように、宮本氏と違って、組織的分派活動やその拡大工作をするタイプではなかった。 私(不破)は、そのグループに入っていないし、『論争史』の討論会に一度も参加していない。他のいかなるグループにも入ったことがない。その私が、一体、なぜ「分派主義の誤り」を、査問委員会によって追求され、自己批判しなければならないのか。『論争史』執筆段階で、21章中の4章を分担し、グループに入っていた兄と原稿の討論・読み合わせをしたことが、間接的な分派主義になるとでもいうのか。1972年新日和見主義分派事件のときは、私も民青の連中に、2人分派・3人分派のレッテルを貼り付け、査問・規律違反処分をした。しかし、兄弟が「分派主義の誤りを犯した」とされた時期は、1956・57年であり、宮本氏が明確な分派活動そのものを展開していた最中だった。そのとき、26歳と29歳の無名の兄弟が、自宅で討論・執筆していた行為を、2人分派とし、そこには、分派容認の思想があったというのか。宮本氏は、同時期の自分の分派活動を棚上げしておいて、私たち兄弟に「分派主義」という思想傾向があったなどと、よく言えたものである。それこそ、「ずる顕」性の真骨頂を示すものである。 私は、査問によって、「自己批判書」約6700字中、「自由主義、分散主義、分派主義の誤り」という文言を、5回も書かされた。それは、事実上の査問委員長である宮本氏が、私の自己批判が不充分であると、突っ返し、何度も書き直しを命令することに、やむなく屈服した結果である。この内容は、党中央が『赤旗・主張』(1983年9月25日)で弁明するように、私が自主的に自己批判した内容ではない。 これらは、カフカの『城』に迷い込んだような、不条理に満ちた前衛党中枢世界における出来事だったと言えよう。主人公の測量師Kは、伯爵の城の敷地に入ったとき以来、まったく不条理な出来事に次々と遭遇した。測量師Kの体験と幹部会委員長である私(不破)の体験とは、同質のものであった。 6、「ずる顕」氏の二面性への怒りと面従腹背・二枚舌姿勢の決断 宮本氏は、1964年、私たち兄弟を、党中央理論幹部に抜擢し、次々と党内地位をアップさせた。理論活動とその発表の場は、党内での出世につれて、論文・講演・演説など無限に広がった。彼が、そのチャンスを与えてくれ、理論活動内容を高く評価してくれたことを感謝している。兄弟は、彼の論文執筆指示とそのポイント指摘を受け、彼の思想・理論を忠実に文章化することに全力を上げてきた。そして、『論争史』にあるような構造改革論を、思想的背景に押しやったままで、その棚卸しをしようと試みたこともなかった。 しかし、1982年の査問・「自己批判書」公表事件は、彼が、『論争史』出版以後の26年間、かつ、絶版後の18年間、一貫して、私たちの思想・理論傾向にたいする猜疑心を持ち続けていたことを証明した。表向きは高い評価と重用をし、裏側で疑いの眼を向け続けていたという「ずる顕」氏の二面性にたいして、いいようもない絶望感と強烈な怒りを抱いた。査問と「自己批判書」公表の不条理性の数々を考えても、宮本氏と宮本秘書団を中核とする最高指導者私的分派の存在を、とうてい許すことができないと決断した。宮本氏を含めた彼らを党本部内から一掃しなければ、日本共産党は、ますます、彼らに私物化された党派に変質して行くだけであろう。 私たち兄弟に残された選択肢は、3つだった。 〔第1選択肢〕、査問委員たちが暗示するように、宮本氏を絶対的権威と崇めて、彼らの私的分派グループの一員になる。今後の日常的言動によって、たえず宮本氏に絶対忠誠を表明する。 〔第2選択肢〕、ユーロ・ジャポネコミュニズム支持=民主集中制見直し傾向は、まだばらばらでまとまっていないが、雰囲気的多数派になってきた。その雰囲気に期待をかけて、宮本氏と最高指導者私的分派に反逆する。査問と「自己批判書」公表命令にたいして、開き直って拒否し、彼らの分派活動の実態を党本部内で暴き、告発する。それによって、雰囲気的多数派を、宮本秘書団を中核とする最高指導者私的分派に対抗し得るような意識的分派にまで高めてたたかう。 〔第3選択肢〕、彼我の力関係から見て、今回は、彼らの言うままに、「自己批判書」内容を何度でも書き直し、彼らのレッテル文言を命令通りに、何カ所も書き込む。「自己批判書」公表も了解する。その裏側で、怒りを秘めて、いつの日にか、宮本氏を引退させ、彼の私的分派を解体させるまで、面従腹背・二枚舌の姿勢を取り続ける。 兄弟にとって、〔第1選択肢〕を採ることは、とうていできなかった。「ごますり」「茶坊主」と党本部内で言われるようには、なりたくなかった。 〔第2選択肢〕で、万一たたかっても、意識的なカウンター分派(対抗勢力)を作り上げる前に、兄弟が返り討ちに会い、党内外排除される公算が大きかった。分派活動の大ベテランである宮本氏は、相手を返り討ちにする戦闘技術の面でも、天才的だった。私たちは、宮本氏に登用されて以来、一貫して、党中央派でぬくぬくと育っており、「代々木のプリンス」としての思想・理論活動の経験はあっても、激烈・陰湿な分派抗争において、仁義なきたたかいをする資質に欠けていた。 〔第3選択肢〕が、もっとも現実的だった。スターリン時代、マレンコフ・フルシチョフら側近グループだけでなく、スターリンとの直接接触があった芸術家たちも、二枚舌の姿勢を採った。ブルガーコフ、マヤコフスキー、ゴーリキー、ショスタコーヴィチ、エイゼンシテインらである。その中で、スターリンは、ゴーリキーを暗殺した。ゴーリキーが、二枚舌の姿勢をとりつつも、ついにスターリンの犯罪告発を決断し、ロマン・ロラン、ジイドに連絡をとろうとしていたことを、NKVDが察知したからである。彼らは、面従腹背・二枚舌の姿勢を採る以外に、生き延びる道がなかった。誰も、その姿勢を責めることはできないであろう。 『「革命」作家ゴーリキーと「囚人」作家勝野金政』スターリンによるゴーリキー暗殺データ それに、私たちは、まだ、党中央理論幹部として、理論・政策活動をしたかった。また、査問・「自己批判書」公表という屈辱を我慢しさえすれば、幹部会委員長・副委員長という椅子の座り心地は、悪くはなかった。それにしても、いつまで、面従腹背・二枚舌の姿勢を続けるのかという見通しは立たなかった。宮本氏は、まだ73歳で、健康だった。とりあえず、〔第3選択肢〕の決断をし、その日が来るまで、何年でも、彼らへの報復心を緩めず、隠忍自重をする決意をしたのである。この屈辱感に基づく強烈な報復心がなければ、下記で報告するように、1997年宮本氏の引退強要、第21・22回大会における宮本秘書団を中核とする最高指導者私的分派を、電光石火のごとく解体することはできなかったであろう。宮本氏の報復心もすごいが、私の報復心の強さと報復遂行力もまんざら捨てたものでもない。 報復という言葉を耳にするだけで、それは、マルクス・レーニン主義の倫理に反する思想と、眉をしかめる党員も多いだろう。報復それ自体を全否定することは正しくない。正義の報復もある。私たちが遂行したような、党内犯罪や組織悪にたいする正義の報復は、許されてしかるべきである。そもそも、14の一党独裁国のマルクス主義前衛党における最高権力者の交代時点においては、新しい最高権力者が、旧独裁者とその私的分派・側近グループにたいして、銃殺、強制収容所送りを含む肉体的抹殺や党内外排除という報復をしてきたことは、ソ連・東欧崩壊後に暴露されたデータで証明されている。 なぜなら、レーニンの前衛党理論は、絶対的真理の認識者・体現者が、一国一前衛党であり、その最高機関であり、さらにその最高権力者という最終結論に到達する。最高権力者は、組織統制権だけでなく、マルクス主義理論と民主集中制規律の解釈権も一手に独占する。最高権力者の交代とは、前衛党の異端審問官が入れ替わることであり、新しい異端審問官は、旧最高権力者グループの全員にたいして、異端のレッテルを貼り付け、報復の追放をするのが、常識だった。 異論を唱える者にたいする一神教の異端審問は、中世以来、つねに報復裁判だった。レーニンが、カウツキー批判の著書題名に『背教者』という異端審問的レッテルを貼りつけたのは、マルクス・レーニン主義自体もヨーロッパ一神教の流れを受け継いでいるからとも言える。ちなみに、一連のネオ・マル粛清事件も、私たち兄弟の事件を含めて、前衛党による異端審問・報復裁判であった。ネオ・マルクス主義とは何か。それは、主として、学者党員や知識人党員たちが、時代・情勢の変化に対応して、マルクス主義の立場に立ちつつも、その一部、または、かなりを見直し、解釈し直すべきという新しい理論・運動傾向である。 それは、マルクス主義・民主集中制の解釈権を一手に独占して放さない前衛党最高指導者にたいする、この上ない反逆となる。宮本氏は、共産党の最高指導者になるとともに、ドストエフスキーが描いたような大審問官になった。解釈の変更権、訳語の変更権も、宮本氏一人にのみある。日本共産党の大異端審問官は、自分の独占的解釈権を勝手に踏みにじった学者党員や知識人党員たちを、ネオ・マル粛清という異端審問裁判にかけて、報復した。彼にとって、田口富久治教授、藤井一行教授、中野徹三教授、水田洋教授、石堂清倫ら5人、上田耕一郎・不破哲三兄弟、加藤哲郎教授、後房雄教授、高橋彦博教授らは、自分にのみ認められたマルクス主義の解釈権を侵害した、許されざる者だったのである。彼ら異端にたいして、『前衛』『赤旗』『赤旗評論特集版』という場において、異端審問の判決を下し、『背教者』たちを弾劾するのは、宮本氏が抱く当然の大審問官的思考スタイルから出たものである。これが、ネオ・マル粛清の本質である。 『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』『カラマーゾフの兄弟』の大審問官 5、「宮廷革命」=分派の平和的解体作業と新体制への転化 1997年第21回大会〜2000年第22回大会 〔小目次〕 チャンスは、なかなか訪れなかった。しかし、面従腹背・二枚舌姿勢決意の12年後に、決断を迫ることが発生した。 1、1994年第20回大会 この大会に向けて、宮本議長85歳老齢化による、宮本退陣要求が党内外から噴出した。ほとんどのマスコミが、宮本退陣の論説を出した。85歳になっても、マルクス主義前衛党の最高権力を手放そうとしない彼の執念・権力への執着心は、見事とも言える。私(不破)は、彼の意向を受けて、「(宮本氏は)余人をもっては代えがたい人」とマスコミに弁明したので、彼はおおいに喜んだ。 しかし、一方、第20回大会は、4つの重大な誤りを持つイデオロギー大会となった。これは、宮本氏の老害と私的分派「満月の歌」絶頂期の弊害を、象徴的にあらわに示すことになった。その誤り内容は、〔第1回・秘密報告〕でのべた。その項目だけ再確認しておく。 第一、綱領部分改定で、従来の「社会主義国」規定を、(1)「社会主義をめざす国ぐに」と(2)「社会主義をめざす道にふみだした国ぐに」と2つに腑分けし、性格をすりかえた。 第二、また、「冷戦は崩壊していない」と大キャンペーンを行った。 第三、もう一つ、「丸山真男批判」大キャンペーンも展開した。 第四、党規約改定で、(旧)規約前文(三)に「誹謗、中傷に類するものは党内討議に無縁である」とする文言を入れた。 『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕第20回大会における4つの重大な誤り内容 この大会における誤りの数々を契機として、党本部内で、宮本氏の理論的老害と宮本秘書団の「ごますり」「茶坊主」たちの弊害には、もはや我慢できない、それらを一挙に除去すべしという意見が、ひそかにささやかれるようになった。批判意見の根底には、このままでは、共産党そのものがイデオロギー的に内部崩壊してしまうとする危機感があった。なぜなら、ほとんどのマスコミや党内外の知識人たちは、宮本氏の4つの誤りにたいして、嘲笑・冷笑を浴びせ、共産党全体は、ついに頭がおかしくなったかと軽蔑したからである。共産党中央委員会が、党内外から、これほど馬鹿にされたのは、前代未聞のことだった。これは、いわゆる反共攻撃を受けるよりも、はるかに恐ろしい反応だった。 それ以前に、1989年から91年にかけてのソ連・東欧のいっせい崩壊と中国の天安門事件は、党本部幹部たちにとって衝撃的だった。宮本氏の4つの重大な誤りは、85歳の彼なりに考えた日本共産党のドミノ的崩壊防止策だった。宮本退陣・私的分派解体を主張し始めた党本部幹部も、別の視点から、それが、連鎖崩壊を防ぐ緊急避難の党防衛作戦の一つと判断したのである。その引退・解体作戦の開始には、一刻の猶予も許されなかった。しかも、党勢力は、PHNのすべての指標において、1980年をピークとし、すでに14年間も、一貫した減退を食い止められないでいた。 1994年頃には、ユーロコミュニズムもばらばらになり、求心力を失ってきた。その運動は、ソ連・東欧崩壊の前段階において、それらとは異なる共産党の再生が可能かもしれないという熱気に支えられていた。ところが、10カ国のマルクス主義前衛党も、一党独裁国家の崩壊とともに、消滅した。崩壊したソ連・東欧から、ありとあらゆる前衛党犯罪のデータが流れ込み、暴露され、告発された。そこには、レーニンによる数十万人殺人犯罪の事実も、日を追うごとに、明らかになってきた。中国の天安門事件は、中国共産党も、民主主義運動に敵対し、それを弾圧する左翼反動政党であることを、全世界の前で、証明した。 資本主義ヨーロッパにおいては、共産党の再生期待どころか、もはや、共産党を名乗る政党そのものの存在価値に決定的な疑問符が付いたのである。かくして、ヨーロッパにおけるコミンテルン型共産主義運動は、終焉を迎えた。それとともに、ヨーロッパの共産党と国民は、民主主義的中央集権制の放棄だけでなく、マルクス・レーニンそれ自体も廃棄した。共産主義の妖怪は、その生誕地において、死滅した。ソ連・東欧の一党独裁型マルクス主義前衛党は、自己の崩壊だけでなく、その崩壊・前衛党犯罪情報によって、ヨーロッパのほとんどの資本主義国共産党を、ドミノ的な一家心中の道連れに引きずり込んだのである。 ユーロ・ジャポネコミュニズムと言われるような同一レベルになっていただけに、日本共産党も、崩壊・終焉時の爆風を受けて、連鎖倒産の泥沼に落ちる危険性は高かった。危険予知能力者宮本氏は、そのため、必死になって、「(ソ連・東欧の崩壊を聞いて)腰を抜かす党員がいる」と叱咤激励したり、「(党中央を信じて)安心立命の境地に立て」と宗教用語も繰り出し、全党員にたいして、檄を飛ばしたほどであった。そのような1994年前後の内外情勢だけに、宮本老害と私的分派の弊害を、一刻も早く取り除く必要性を、党本部内幹部の多くが、痛感し始めた。崩壊・終焉の蟻地獄に引きずり込まれないために、私(不破)たち非公然グループは、日本共産党の画期的なサバイバル作戦を創作し、開始すべきということで、決意を新たにした。 『コミンテルン型共産主義運動の現状』ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り 『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した自国民の推計』数十万人殺人犯罪 宮本退陣・私的分派解体を希求する同志たちが増えるにつれて、彼らと秘密裏に、個別またはグループで打ち合わせをする段階に到達した。ただ、85歳で、病気がいくつか出てきたといっても、彼は、なお意気軒昂だった。宮本氏は、ユーロ・ジャポネコミュニズムからの逆旋回クーデターを成功させたが、我々が「宮廷革命」逆クーデターに総決起するには、なお時期尚早だった。というのも、彼が病気で倒れない内は、宮本秘書団私的分派による党本部内の密告システムは、正常に作動していた。また、明白な「ごますり」「茶坊主」たちの下には、数十人の党内出世を熱望する、かくれ密告者集団が、聞き耳を立てていたからである。分派支配組織においては、密告の質量こそ、党内出世の階段を登っていく最良の切符である。よって、党本部内での秘密打ち合わせはできなかった。それらは、1972年新日和見主義分派の連中がしたのと同じように、喫茶店・居酒屋・各自宅で開かれた。革命情勢成熟の第1段階に入ったと言える。 2、1997年9月第21回大会前 宮本氏が脳梗塞で倒れた。命には別条がなかったが、代々木病院からの報告で、議長としての党活動再開は、88歳の老齢で不可能と判明した。ついに、チャンスが到来した。病状診断の第1報は、幹部会委員長の私に届いた。私は、ただちに、党本部内の緘口令を引き、宮本秘書団・OBらへの情報伝達ルートを遮断させた。 私(不破)たちは、まず、宮本氏引退強要と最高指導者私的分派解体を目的とする秘密グループを、非公然に結成した。参加したメンバーの中には、これでは、不破No.2分派になる危険があると言う者もいた。しかし、宮本秘書団を中核とする私的分派・側近グループは、最高指導者No.1私的分派であり、その意識的に組織された、強力な分派を解体するには、一個人ではとうてい不可能である。それには、特殊なカウンター分派を結成して、解体作業を進めることが、絶対必要条件であった。目には目、歯には歯、最高指導者私的分派には対抗分派しかない。ただ、この秘密グループは、宮本退陣・私的分派解体という目的に限定し、それを達成したら、グループを解散すること、さらに、グループ結成と退陣・解体作業の事実経過に関して、「宮廷革命」成功後も、その秘密を誰にも漏らさないことなどを誓約し合った。これを今日、明らかにし、〔第2回・秘密報告〕で発表できるのは、フルシチョフ同様、新たに日本共産党最高指導者となった私にのみ許された特権である。「宮廷革命」逆クーデターの極秘作戦は、2つだった。 第一、宮本氏引退説得・強要作戦 88歳の宮本氏にたいして、脳梗塞の病人だから、議長を引退するよう、穏便に説得をする。引退を納得しない場合は、彼の私的分派活動の実態を告発し、それが重大な規律違反に該当することを通告し、あくまで引退を強要するという方針にした。彼は、なかなか引退を認めなかった。それでも、強要的な説得を重ねる中で、引退後も、名誉議長として遇することで、了解してもらった。ベッドで寝ている脳梗塞病人の宮本氏に引退を迫るのは、道義的に問題があった。 しかし、当の宮本氏自身が、100歳で病床・老衰の野坂参三名誉議長に、ソ連共産党・NKVDの「野坂ファイル」から発掘した絶対的証拠を突き付けて、(1)無実の山本懸蔵を密告し、銃殺させたこと、(2)ソ連赤軍情報局工作員だったことを自白させたのと同じ性質の行為ではあった。そのとき、野坂参三は、除名理由とそのデータを枕頭で通告されたのにたいして、100歳で話すこともできず、うなずくだけだった。「野坂ファイル」というソ連製の物的証拠があるからには、彼の弁明発言を聞けなくとも、除名は正しかった。「ソ連の崩壊をもろ手を挙げて歓迎する」としてきたが、スターリン時代の秘密政治警察NKVD製のファイル内容は、証拠能力があり、除名判決の証拠物件として採用してもかまわない。 野坂名誉議長除名後の1994年第20回大会は、宮本私的分派の「満月の歌」絶頂期だったが、彼の除名にともなって、宮本氏は、名誉議長ポストを廃止していた。彼は、私的分派結成・拡張の張本人であり、私たち兄弟を不条理な査問にかけ、「自己批判書」公表により党内外のさらし者にしたという、許されざる者である。本来、彼は、査問され、除名されてしかるべき重大な規律違反を犯している。それにもかかわらず、その廃止ポストをわざわざ復活させて、宮本氏をその椅子に座らせるのだから、私たちも、彼には寛大で、人間的な処遇をしたのである。もちろん、その措置の真の狙いは、最高指導者私的分派の解体も穏便に進め、党内外に「宮廷革命」の疑惑を抱かせないためのカムフラージュであった。 第21回大会における引退後の党内地位は、宮本氏処遇の特例として、第19回大会までのシステムを一時復活させ、名誉議長・名誉幹部会員・顧問という3つのシステムに分別した。その後、「宮廷革命」第2段階の2000年第22回大会では、そのシステムを改変し、全員一律の名誉役員制度とし、92歳の宮本氏も、たんなる69人の名誉役員の一人にした。その狙いは、宮本氏の党内影響力を根絶することであった。これが、第2作戦である。水に落ちた犬は打て、引退させた者はその影響力を断て、被除名者は反党分子とし社会的抹殺をし抜くまで手を緩めるなというのは、レーニン型共産党の鉄則である。 引退させるだけでは不充分である。さらに、宮本氏の痕跡を抹消する第3作戦として、2003年1月、『日本共産党の八十年』を出版した。その目的は、宮本氏と宮本秘書団私的分派の宇野三郎同志が合作・歪曲してきた、宮本氏自画自賛の「宮本史観党史」を、全面的に書き直し、評価変えを行うことだった。『日本共産党の七十年・上下』は、2段組み920ページ、『七十年・党史年表』397ページで、合わせて1317ページある。『八〇年』は、詳細な年表全面削除で、1段組み326ページになり、1ページ字数は、80%弱にした。全体では、326/1317×80%≒20%となり、1/5に縮小した。年表を除いた党史記述部分は、326/920×80%≒28%に簡略化した。当然のことながら、宮本氏自画自賛個所を、大幅にカットした。 14カ国のマルクス主義前衛党においても、新しい最高権力者が、自己の権力を誇示・正当化するために、その都度、党史を全面的に書き改めるのは、常識的な手法だった。宮本権力・私的分派を切り捨て、離陸した、新しい不破権力の正当性を党内外に証明するには、『八〇年』党史が、是非とも必要だった。オーウェルが『1984年』において、真理省による歴史改ざんシーンで書いたように、「過去を支配する者は、未来まで支配する」。その意味で、私(不破)が、党史を全面改定することは、きわめて重要な意義を持つ。 『武装闘争責任論の盲点』末尾に『日本共産党の七十年』と『八〇年』の比較データ 『オーウェルにおける革命権力と共産党』『1984年』 もちろん、私たちの秘密グループは、フルシチョフのスターリン批判のように、宮本氏の業績・人柄を全否定するような愚かな真似はしない。彼が、私たち兄弟を大抜擢してくれた恩義に応えて、彼の業績で利用できる側面については、高く評価し続ける必要がある。今後、宮本氏の評価については、是々非々の対応をすることにしてある。それは、スターリンからブレジネフに至る一党独裁権力のように、レーニン神話を作り上げ、それによって自己の権力保持を図る作戦とは異なる。スターリンは、ライバルのトロツキー、ブハーリンを蹴落とすために、自分こそレーニンの一番弟子であるとし、ことさらに、レーニン讃美を行い、神話をねつ造した。ブレジネフは、長期にわたる停滞を隠すために、スターリン製レーニン神話の依存症になった。 宮本引退・私的分派解体後という現在の私(不破)には、ライバルはいない。かつ、宮本神話をねつ造しなければならないような、党内状況にはない。私は、査問・「自己批判書」公表事件の屈辱と苦難を乗り越えて、ついに、日本共産党の全権力を、この手に掌握した。心配があるとすれば、23年間にわたる党勢力PHNの一貫した減退を止められないこと、そして、2000年総選挙・2001年参院選・2003年統一地方選と、3連続惨敗が続いていることである。 第二、宮本秘書団を中核とする宮本私的分派・側近グループの解体作戦 難題は、むしろこちらの方だった。緘口令にもかかわらず、宮本氏脳梗塞の病状が漏れ出した。それにつれて、宮本秘書団・OBらの中にも、動揺が広まった。彼が、議長職務に復帰不可能と分かってくるにつれて、風見鶏のごとく、私たちのグループに接近しようとする者も現れた。しかし、彼らにしても、誰一人として、自ら進んで、私的分派活動の実態を報告・自白しようとする者は出なかった。なぜなら、その分派活動内容は、最高指導者宮本氏も含めて、即座に査問・除名に相当するレベルの規律違反の性質を持っていたからである。 私たち非公然グループは、第20回大会後の3年間をかけて、各調査データをすり合せ、「ごますり」「茶坊主」たちを、分派行為の規律違反内容を含めて、完璧なまでにリストアップしていった。その下には、数十人の密告・党内出世主義者集団もいた。宮本氏の引退を勝ち取れさえすれば、彼らを次々と査問することも可能だった。しかし、そのやり方をすれば、当然、私的分派張本人である宮本氏査問・除名に行きつき、10数人の宮本秘書団私的分派も除名を含む党内外排除をしなければならない。それは、党内外の大混乱とさらなる疑心暗鬼を引き起こし、ひいては、私たち常任幹部会員トップグループの連帯責任を追求される危険があった。よって、解体方針としては、強引な査問・党内外排除の手段を避けることにした。彼らを、宮本議長の引退と同じく、常任幹部会員・幹部会員という現党内地位から穏便に引退させることができれば、党内外の誰も、うるさいマスコミも、共産党番記者といえども、「宮廷革命」逆クーデターに気付くことはない。革命の平和的移行形態である。 平和的に、かつ、党内外に絶対さとられないような解体をするには、何が上策か。「ごますり」「茶坊主」たちは、結束が堅かった。毎年、正月には、宮本邸に年賀詣で集うレベルになっていた。分派活動について、すねに傷を持つだけに、表向きの調査(=査問)くらいでは、誰も自白しないであろうことは分かっていた。そこで2つの方針にした。(1)、宮本秘書団私的分派メンバーを、分裂させて支配する。宮本秘書団の内、誰か一人を、不破グループに取り込む。分派活動の全貌に関して彼を自白に追い込み、その自白データに基づいて、他の全員を説得と査問・除名の脅迫によって、自主的な引退の形にして、取り繕う。(2)、第21回大会で、一度に解体・引退させると目立ちすぎる。そこで、第22回大会における引退リストと区分して、二段階解体作戦を採ることにした。 3、「代々木のベリヤ」こと小林栄三・2段階特進常任幹部会員 一点突破全面解体作戦のキーパーソンとして、小林栄三常任幹部会員に白羽の矢を立てた。小林栄三中央委員が、一躍有名になったのは、1978年前後数年間における『犬は吠えても歴史は進む』の立花隆批判と袴田里美批判・除名の大キャンペーンにおける論文発表によってだった。この対マスコミ・対立花大論戦において、彼は、あまたの常任幹部会員・幹部会員をさしおいて、宮本秘書団OBのたんなる一中央委員の地位であるにもかかわらず、宮本氏の指令に基づいて、宮本・小林合作の、ウソと詭弁で塗り固めた論文を『文化評論』などに発表した。袴田除名以前の党内において、彼は、宮本絶対擁護・袴田役職全面剥奪の1977年第14回大会を裏側で成功させた立役者となった。宮本氏は、愛すべき宮本秘書団OBの彼を、論功行賞として、その大会において、2段階特進の常任幹部会員に大抜擢した。 『スパイ査問問題意見書』 『第1部2』暴行行為の存在、程度、性質の真相 立花隆『日本共産党の研究』関係『年表』一部、加藤哲郎『書評』 共産党『袴田自己批判・批判』「3論文」と「党史」 宮本氏は、それ以後、彼に、宮本氏の裏側で粛清任務を分担してきた袴田の職務を引き継がせ、党本部勤務員・赤旗記者・国会議員秘書にたいする査問・党内外排除の汚れ役をやらせた。彼は、宮本秘書団OBだけに、宮本氏に絶対忠誠を誓い、いななる粛清任務の遂行も無条件に、冷酷に行った。袴田と違って、飼い主の手を噛む犬になる心配はなかった。彼の粛清業績は、先に報告した通りである。彼には、「ごますり」「茶坊主」だけでなく、「代々木のベリヤ」と言われるだけの理由があった。 宮本氏が出す粛清指令は、絶対的だった。彼の恣意的命令にはかなり無理があり、それを遂行する小林同志の粛清手口は、規律違反を含む強引なやり方となった。被粛清者や関係者から、それにたいする批判や抗議が多数上がっていた。それらは、宮本氏と彼による私的分派的な重大な規律違反の物的証拠となった。私たちは、その裏取り捜査もした。 私たち非公然グループは、彼を個別に呼び出し、その規律違反証拠を突き付けた。その上で、小林栄三常任幹部会員に、不破グループへの変節・協力を説得し、かつ、脅迫した。彼が拒否すれば、分派活動の件で、この場から、監禁査問に移行し、他の分派メンバーとの連絡を遮断すると通告した。裏取り捜査の証拠もあった。その手口は、彼が、宮本指令の粛清任務でいつも使っていたやり方だった。彼は、宮本秘書団私的分派の中で、もっとも早く中央委員・常任幹部会員に抜擢された一人だった。それだけに、最高指導者私的分派の全貌に関して、個別メンバーの分派活動規律違反行為について、一番詳細に自白し得る立場にあった。 同時に、一方で、懐柔手段として、秘密の取引き契約も提起した。宮本氏は、名誉議長への引退を了解した。宮本秘書団を中核とする最高指導者私的分派・側近グループは、一人残らず、常任幹部会員・幹部会員から引退させ、解体する方針である。小林同志が、党再生の「宮廷革命」逆クーデターに協力し、私的分派の全貌データを自白しさえすれば、彼の規律違反行為を免罪にし、彼を引き続き、常任幹部会員に留任させる、という取引き契約だった。彼は、顔をひきつらせて、他のメンバーを売ることはできないと抵抗した。しかし、宮本氏にたいするベッド上の引退説得と同じく、彼を、監禁査問状態において、強要的な説得を続ける中で、ついに彼は落ちた。そして、秘密取引き契約に応じ、すべてを告白した。 これは、司法取引き契約の一種である。アメリカでは、FBIが、麻薬犯罪の摘発捜査などで、この手法をよく使っている。相手の犯罪を免責にすることと引き換えに、他者の犯罪実態とリストを自白させるという合法的な取引きである。政治とは、妥協である。妥協の具体的形態は、文書・テープなどの物的証拠を一切残さない、秘密取引き契約である。とりわけ、人事問題が、各派間の取引き契約として行われることは、14の一党独裁型マルクス主義前衛党の歴史データによって、証明された事実である。この〔第2回・秘密報告〕でも、これで、3回の秘密取引き契約について報告したことになる。 第一回、1955年、六全協人事の謎である。スースロフ・毛沢東・野坂参三・志田重男側が、取引き契約を、点在党員組織隔離措置中の宮本氏に申し出た。契約内容は、3つだった。(1)、スターリンが「宮本らは分派」と裁定した、宮本氏の国際派分派活動を免罪にする。五全協の数日前、彼が、志田重男に提出した宮本「自己批判書」を公表せず、焼却する。(2)、それとともに、彼を、六全協において、常任幹部会責任者の地位に抜擢する。(3)、その条件と引き換えに、宮本氏は、武装闘争について、ソ中両党と彼らの責任追求をしない。「極左冒険主義」という抽象的な誤り規定にとどめ、武装闘争の具体的内容・ソ中両党から日本共産党への武装闘争指令を隠蔽し抜く。六全協やその後、党内からの武装闘争批判を押さえる側に立つ。宮本氏は、その秘密取引き契約に応じた。六全協の裏側の性格は、石堂清倫らが喝破しているように、彼らと宮本氏個人との手打ち式だった。 第二回、1964年、私たち兄弟の党中央理論幹部への抜擢と、『戦後革命論争史』の絶版との取引き契約である。この経過は、すでに報告した。宮本氏側が申し出て、私たちは、その取引きに応じた。そして、現在の兄弟の党内地位がある。その契約を結んだことは、党中央専従になる以上、やむをえなかったし、それについて後悔もしていない。それによって、魂を宮本氏に売ったわけではないからである。 第三回、1997年第21回大会前、今度は、私たち非公然グループ側が、小林栄三常任幹部会員に、秘密取引き契約を申し出た。これは、共産党式司法取引きの性質を持った。彼が犯した分派活動規律違反の免罪、常任幹部会員としての地位保全と引き換えに、最高指導者私的分派活動の全貌と、分派メンバーの規律違反行為の情報をすべて提供することである。彼は、その取引きに応じた。 最高指導者私的分派は、強力で、結束が堅かった。彼らを、いっせいに査問しても、誰一人として、分派活動実態を自白しなかったであろう。私たちは、彼らを追求する具体的な内部密告データを、ついに入手した。それに基づいて、一人一人を呼び出した。小林栄三レポートがあるだけに、彼らは、そこに書かれた事例をまるで否定できなかった。ただ、私たちは、革命の平和的移行形態を望んでいた。そこで、彼らにたいしても、小林同志と同じような共産党式司法取引きを申し出た。しかし、彼への処遇と異なるのは、免罪と引き換えにするのが、常任幹部会員・幹部会員としての地位保全ではなく、引退という平和的措置である。もちろん、なかには、抵抗する者もいた。結局、内部密告データを前にして、全員が落ちた。1997年第21回大会と2000年第22回大会に分けた二段階解体も、無事、完璧な成功を収めた。まさに、マスコミにもさとられないほどの、合法的、かつ平和的な「宮廷革命」逆クーデターだった。 二段階解体の方針といっても、複雑である。(1)いきなり引退させる者、(2)まず格下げしておいてから、次大会で引退させる者、(3)第22回大会で引退させる者などを区別した。吉岡吉典参議院議員は、宮本氏が参議院議員団に配備したメンバーで、共産党議員団長だった。6年間の任期中に、議員辞職させるには、大義名分がなく、無理だった。2004年の任期満了で引退させる。完全留任は、上田均財務・業務局長一人だけにした。彼は、私たちに鞍替えして、絶対忠誠を誓ったからである。 (表4) 宮本私的分派・側近グループ解体措置
ただ、小林栄三同志について、思わぬ誤算が発生した。秘密契約の仁義を守って、彼を常任幹部会員として留任させるとともに、その裏側任務として、引き続き「代々木のベリヤ」的仕事を担当させた。1998年、書記局の指令に基づいて、彼は、兵本達吉国会議員秘書を査問した。兵本氏が、「宮本独裁30年」と書いた年賀状を党本部内の数人に出し、受け取った者が書記局に密告したという事件である。そんな内容の年賀状を出すのは、頭がおかしいのではないかとして、兵本氏を、強制的に、代々木病院で精神鑑定させた。代々木病院の共産党員・精神科医師は、彼には、なんの精神異常もないとの診断を下した。その後、彼を、北朝鮮拉致事件をめぐる問題でも査問をし、除名をした。もちろん、表向きの除名理由は、彼が、議員秘書を定年退職した後の就職先を、公安警察に頼んだという規律違反としてある。 敬称についての変更を一言のべる。従来、被除名者・被除籍者には、〇〇氏とつけず、呼び捨てにしてきた。兵本達吉からは、初めて、兵本氏と敬称をつけるよう変更した。その狙いは、それによって、共産党が、市民道徳を尊重する、人間的な政党であることをアピールすることである。 ところが、除名された兵本氏が、雑誌『文芸春秋』で、査問委員の小林同志の言動を暴露した。その内容とは、査問中、兵本氏が、いいかげんなでっち上げをやるなと、小林査問委員を逆に怒鳴りつけた。すると、査問する側が、泣き出して、小便をズボン内に漏らした、というのである。共産党の査問は、必ず複数の査問委員が行う。常任幹部会は、ただちに、同席していたもう一人の査問委員に、その真偽を確かめた。小林常任幹部会員にも聞いた。兵本氏が暴露したことは、事実だった。 一体、何が起ったのか。査問委員が、規律違反容疑者を査問中に、相手から怒鳴られて、泣き出したり、小便を漏らすなどは、日本共産党始まって以来の前代未聞の党内不祥事である。査問委員2人を怒鳴りつけた兵本氏もけしからん。しかし、小林常任幹部会員もだらしない。慎重に事情聴取し、分析した結果、どうも彼は、うつ病、ないしは、自律神経失調症になっていると考えられた。ひるがえってみるに、「代々木のベリヤ」と言われるほどの党本部内粛清任務を遂行することは、査問委員側にも、強烈なストレスがたまる。しかも、最高指導者私的分派における宮本氏と彼との関係は、対等平等の同志的なものとかけ離れていた。分派内では、党内出世・その地位保全を餌とした支配・隷従という前近代的関係であった。彼は、『犬は吠えても歴史は進む』大キャンペーンで、宮本氏の片棒を担いで以来、20年以上も、その任務遂行と宮本氏との隷従的な関係を続けてきた。 不条理な査問を受けた党員は、私(不破)もそうだが、一生忘れられないような心の傷を負う。一方、あこぎで、合理的理由のない査問をする側も、相手の怒りと屈辱感という逆放射線を全身に浴びて、目に見えないトラウマ(心的外傷)を負う。被査問者の一回だけにたいして、不条理な査問を繰り返す査問委員は、その回数分だけの心的外傷を受ける。それは、査問回数が増えるにつれて、拡大再生産される。ソルジェニーツィンは、『収容所群島』において、「粛清者は粛清される」と喝破した。粛清のなされ方は、エジョフ・ベリヤのように、逮捕・銃殺だけとはかぎらない。「代々木のエジョフ」袴田里美のように、党の全役職を剥奪された上で、除名されるともかぎらない。心が病むという、なされ方もある。ただ、「代々木のベリヤ」と言われた同志に起きた不祥事が、その発現現象だったかどうかは、誰にも分からない。 私たちは、この党内不祥事を受けて、彼の処遇をいろいろ検討した。彼の利用価値は2つあった。(1)、宮本秘書団私的分派・側近グループの全貌をこちら側に密告すること。(2)、その司法取引き・論功行賞として、常任幹部会員に留任させるとともに、引き続き「代々木のベリヤ」的任務を遂行することにあった。(1)の利用価値は、私的分派のほぼ完全解体の成功によって、消滅した。この症状では、(2)の利用価値も喪失する。使用価値を失った幹部は、消えてもらうしかない。それと、党本部勤務員・赤旗記者・国会議員秘書ら800人の中には、私たちの「宮廷革命」に賛同する裏側で、なぜ「代々木のベリヤ」を真っ先に引退させないのか、という不満・批判がくすぶっていた。その意見を採り入れる形にして、小林栄三同志を、2000年第22回大会で引退させることにした。 私たちは、72歳の彼を、宮本氏と同じ、名誉役員とした。引退とは、専従解任のことでもある。翌2001年、彼は死去した。彼が、その1年間、何に悩み、どんなことを考えたのか、誰も知らない。小林栄三常任幹部会員は、宮本秘書団・OBの中心にいた。その彼が、宮本氏と私的分派メンバーを裏切り、私たちの非公然グループに密告してくれなければ、「宮廷革命」逆クーデターは、あれほど平和的な移行形態で、スムーズには成功しなかったであろう。彼の冥福を祈る。 1997年の第21回大会は、宮本氏の引退と引き換えに、新体制への転化を高らかに宣言した。1982年の上田・不破査問と「自己批判書」公表事件における怒りと屈辱体験にたいする報復は、15年間の雌伏を経て、ついに成し遂げられた。正しい報復心は、苦難を乗り切るバネになり、必要である。これからは、私がトップである。もはや、面従腹背・二枚舌の姿勢を採る必要もなくなった。それをかなぐり捨てる。 第21回大会は、42年ぶりの規約全面改定を行った。規約は満場一致で採択された。そこでは、民主集中制の組織原則を堅持した。この時期、党員も多数がインターネットに加入するようになり、「さざ波通信」や「 |