| 日共不破の人民的議会主義論の犯罪的役割考 |

| (れんだいこのショートメッセージ) | |||||||||
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| 【「共産主義者の宣言」から汲み取るべき政策考】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「共産主義者の宣言」の指針するプロレタリア運動の選挙政策について確認する。現下の社共運動が如何に逸脱しているか、現下の新左翼運動が如何に逸脱しているかを晒してみたい。手前味噌ながら「『共産主義者の宣言』考」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_sengen.htm)をテキストとする。 1948年、国際的組織として結成された共産主義同盟同盟の綱領として発表された「共産主義者の宣言」は、各国各地の共産主義者に次のような態度を採るよう指針させた。 「第1章、ブルジョアとプロレタリアート」の項で次のように述べている。
次のようにも述べている。
次のようにも述べている。
「第2章、本文2、プロレタリアと共産主義者」の項で次のように述べている。
次のようにも述べている。
次のようにも述べている。
次のようにも述べている。
次のようにも述べている。
次のようにも述べている。
「第4章、種々の抵抗党に対する共産主義者の立場」の項で次のように述べている。
次のようにも述べている。
次のようにも述べている。
次のようにも述べている。
次のようにも述べている。
次のようにも述べている。
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| 【「共産主義者の宣言」から何を学ぶべきか考】 |
| 以上見てきたような「『共産主義者の宣言』から汲み取るべき政策」から、我々は何を学ぶべきだろうか。れんだいこは何を語ろうとしているのか。賢明な者には既に解説不要だろう。 肝要なところのみ述べれば、今や共産主義者は自前の党派結成を当たり前としているからしてそれは歴史的事情として受け止めるものの、問題は、真性の左派運動は不断に共同戦線を求め、縁の下の力持ちとなって汗を流す運動を組織すべきであるということであろう。それらの諸活動を通じて活動家の能力と党的能力を高めていくような運動を目指すべきではなかろうか、ということになる。 それを思えば、日共の独善主義路線が如何に「共産主義者の宣言の指針」から外れていることか。逆に、権威主義、排他主義、統制主義、お山の大将主義を押し出していることか。それらは全ては邪道と心得るべきではなかろうか。今現在の問題で云えば、日共の野党内分裂主義による結果としての自公体制補完戦術こそ最も唾棄される手法ではなかろうか。我々は、口先では「ホンモノの野党」を饒舌し、実践的に権力安定に奉仕するかような遣り方に憤然と抗議すべきではなかろうか。 この間の日共の選挙戦術は社会党を喰ってきただけのことではないのか。その社会党が極端に細った為に共倒れしてしまい、お陰でこの間右派勢力を肥大させている。つまり、この間の日共の議会闘争は、右派勢力増進剤の役目を果たしたのではないのか、という視点が欲しい。これを偶然の所為と見るのか意図的故意とみなすべきか、意図的と凝視するのがれんだいこ史観である。 とはいえ、それを指をくわえて見過ごしたその他左派政党のお粗末さも言語道断であろう。未だそういう日共にとって代わる運動を創出しえていないではないか。つらつら思うにまず手始めに左派圏内に覆う狭量主義を切開せよ。認め合うところは認め合い批判しあうところはしあうという最低限の公理の確認から再スタートせねばなるまい。そして目指すべきは共同戦線であり、その切磋琢磨の中から新時代造りのエネルギーが生まれるとみるべきではないのか。果実は未来に託す、それで良いではないか。 2005.9.3日 れんだいこ拝 |
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(私論.私見)