補足(14) 先行社会主義国家に共通する不公正党内選挙制度考(中央委員選出制度の悪企み)
満場一致制の由来考

 (最新見直し2006.5.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ) 
 日共が徳球系から宮顕系へ宮廷革命で移行して以来、この党の中央委員選出制度はより劣悪化している。それをスターリニズム批判の観点からするには及ばない。もっと一般的に権力者の封建的王朝的ご都合主義の賜物と看做せばよい。彼らは公明正大ができず、腹に一物の不正の悪巧みを持つ者特有の不公正制度を好んで導入する。本サイトで、その実態を検証してみたい。

 2005.6.12日 れんだいこ拝


【先行社会主義国家に共通する不公正党内選挙制度の証言考】
 「先行社会主義国家の不公正党内選挙制度」には驚きあきれるばかりである。旧ソビエトも北朝鮮も恐らく中国も然りである。これを真似て日本共産党内の選挙制度も選挙の意味を為さない代議員選出制を導入している。これを例証する貴重な実例証言が有るのでこれを見ておく。

 れんだいこのインターネット畏兄・木村愛二氏の「憎まれ口」の「1.連載:元共産党「二重秘密党員」の遺言」の「(その1) 仮初にも「民主主義」を言うのなら」より関連箇所を抜粋して転載する。

 以下、具体的な数字を示して、日本共産党の「代議員選出方法」のおかしさを、さらに詳しく説明する。

 おおざっぱに言うと、地区党大会の代議員は100名ほどである。地区委員は50名ほどである。代議員の内の50名を、本来は執行部側であるはずの地区委員が占めていたら、どういうことになるかというと、これは簡単である。執行部の地区委員会の提案に、それを作成した地区委員が反対するわけがない。地元では特に専従の地区委員のことを、「胃袋を機関に預けている人」などと言うのである。地区委員プラス平党員の代議員がわずかでも賛成すれば、シャンシャン大会となる。

 事実、私一人の「保留」で、ほとんどシャンシャン大会に終わった。これは、その後の私の「除籍」への伏線となるのだが、その話は、これまたのちに詳しく述べる。

 異議を無視された私は、腹が収まらないので無理をして、この地区党大会のメイン・イヴェント、都党大会の代議員に立候補してみた。地区委員会が用意した定員通りの立候補者以外の立候補は、これまた、開闢以来の事件のようであったが、私には3分の1の票が集まった。もちろん落選ではあるが、この3分の1を一般党員の代議員数で考えると、3分の2になる。過半数なのである。

 休憩時間には、見知らぬ党員が私の側に寄ってきて「勇気がありますね」と囁いた。

 以上が、今、唯一の野党などと言われる日本共産党の、一番底辺の「民主主義」の制度的な実情なのである。民主主義は制度である。この原則を無視する組織に、社会改革を語る資格があるのだろうか。「日暮れて道遠し」の感、なきにしもあらずである。


 
(その2) ファシズムと紙一重の『一枚岩』」より関連箇所を抜粋して転載する。

 前回の地区党大会の経験の続きである。

 地区党大会の採決で、私一人が「保留」に手を上げたのは、開闢以来のできごとだったらしいが、この採決の仕方も、これまた一般人どころか、一般党員のほとんどが知らない仕掛けになっていた。ここで仮に名付けると、「国際共産主義的手法」によるものだったのである。

 とはいっても、コミンテルンだのコミンフォルムだのという、舌を噛みそうな名前の赤い雲の上の組織の歴史を、わざわざ紐解くまでのことはない。

 第1の特徴は、議案の「挙手採決」を議長が提案すると、総会屋顔負けの熟練で間髪を入れず「異議なし!」の声が響き、即座に、そのように執り行なわれることである。これは、あまり珍しい現象ではないが、やはり「民主主義的」とは言い難い。

 第2の特徴は、その後の「挙手採決」の順序である。「反対」「保留」「棄権」「賛成」の順で議長が挙手を求めて、最後の「賛成」の手が挙がった途端に、議長が大声で、「圧倒的多数により可決」と宣言し、ここぞとばかりの万雷の拍手となって終るのである。

 この手法は一般には見られないし、上記の「国際共産主義的手法」の核心にふれる現象だから、その論評は、そう簡単ではない。

 まずは世間常識を確認するが、普通の世間の挙手採決では、「賛成」「反対」「保留」「棄権」の順で議長が挙手を求めて、その度毎に議事運営委員などが挙げた手の数を集計する。場合によっては全部の集計の記載が終わるまで休憩を取ったりして、再開後に議長が結果を報告する。

 議長が「ただ今から採決の結果を発表します」などと言い、静かに数字を読み上げ、最後に、「よって可決」とか、「よって否決」とか宣言する。すると、賛成か反対か、どちらでも、自分の意見が通った方が拍手したりするのである。

 それでも、「万雷の拍手」という光景は、あまり見掛けない。普通の世間では、負けた方への想いやりも必要だからである。

 勝った方が負けた方に、「負けて悔しい花一文目!」などと野次ったりする習慣は、聞いたことはないが、そうやると少しは明るくなるかもしれない。呵々。

 さて、私が、たったの一人で「保留」に手を挙げた時、会場は、シーンと静まり返った。それ以前の誰も手を挙げない「反対」挙手ゼロの時にも、普通の世間の会議よりは静かだったのだが、その静かさがさらに深くなって、皆が息を止めたような雰囲気になった。

 これは、実に不気味な雰囲気なのである。特に、たったの一人で手を挙げた本人の私にしてみれば、まるで縛り上げられてギロチンの前に立たされているような気分になった。 200人ほどがギッシリと会場を埋めているのに、まさに針一本落ちても響くほどの静けさなのである。このような状況で本人が覚える圧迫感は、実際に経験してみなければ分からないだろう。実に恐ろしい孤立感なのである。

 ただし、私には、一定の経験があり、覚悟があり、ある程度のことは予期していたから、心臓が止まることはなかった。「経験」というのは、たったの一回の民放労連大会での経験と、その後の経過である。

 日本民間放送労働組合、略称「民放労連」は、当然のことながら、戦後の民放設立以後に結成されている。それも、戦後日本の初期の労働組合全国組織の大分裂以後、朝鮮戦争以後のことであるから、総評=社会党の、いわゆる55年体制の枠外で成長し、政党支持自由の方針を掲げていた。1960年安保改定反対闘争以後には、同じくその時期に党勢を急速に延ばした日本共産党の影響を受ける組合員が増えた。

 国際交流の盛んな時期には、ソ連や中国に行く組合幹部が多くて、「あちら」の風習を取り入れる傾向が出た。その一つに、上記の「挙手採決」に関する「国際共産主義的手法」があったのである。

 私は、現役で民放労連日本テレビ労働組合(これが正式名称)の執行委員だったころには、必ず代議員として民放労連の大会に出席していたから、記憶に間違いはないと思うのだが、その時期に、たったの一度だけ、上記の「挙手採決」に関する「国際共産主義的手法」が採用されたことがあるのだ。

 細部までは記憶していないが、おそらく議長団の中に、上記の手法を現地で見て感激した代議員が入っていたのであろう。

 その時にも、非常に異様な雰囲気になった。しかし、その後、民放労連の内部で、「あれはファッショ的」という評価になり、以後、一度も復活しなかった「はず」である。この「はず」の正確な検証はしていないが、まず間違いないと思う。

 いわゆる「左翼」を、いわゆる「右翼」のファッシズムと一緒にするとは、けしからんと感じる人もいるに違いない。ところが、日本ではファッショという言葉が、イタリアのムッソリーニと一緒に記憶されているものの、実は、古くは労働組合の名称にも入っていたのである。和イ辞典で「ファッシズム(イタリアの国粋主義・国家社会主義)」などと説明しているイタリア語の「ファッシズモ」の語源は、ファッシオ(fascio)であり、本来は「束」「結束」「固まり」「一団」の意味なのである。

 だから、左だろうと右だろうと、過度の「結束」、たとえば「一枚岩の団結」などを強要する組織は、言葉、または概念の本来の意味で、間違いなしに「ファッショ的」なのである。すでに崩壊した「本家」のソ連がそうだった。

 もともとソ連の真似事の「挙手採決」などに理論的根拠があるはずもない。日本共産党は、末期のソ連共産党を「修正主義」、中国共産党を「教条主義」と批判していた。それなのに、本家の崩壊後も後生大事に儀式の真似事だけは続けるというのなら、さらに古い「本家」の中国では過去の遺物の「元号」を、未だに強要し続ける骨董趣味の天皇制と、いったい、どこが違うのか。日本共産党も、民放労連に見習って、即刻、上記のような異様な「結束」を強要する悪習を廃止すべきである。


 れんだいこが習ってきたマルクス主義というのは、ブルジョア民主主義よりもより実質的な民主主義を目指すものとしてのプロレタリア民主主義創出をイデーとしているが、どこでどうとち狂ったか、その後のマルクス主義は真反対の方向へマルクス主義の名をかぶせてリードしているように見える。

 その後のマルクス主義は、といっても元祖マルクスにも多少その気配があるのだが、プロレタリア独裁論の名を借りることによりブルジョア民主主義の民主主義よりも随分歴史後退的な封建的王朝的なものへと転換させてしまっている。我々は、この不正を指弾せねばならない。同時に、その弊害を防ぐ為に、身の回りに於いて例えミニチュアな模型なりとも、須らくプロレタリア民主主義制を先取りしそれを同心円的に拡張せしめていかねばならない。

 「先行社会主義国家及び資本主義国内の共産党に共通する党内不公正選挙制度」は、プロレタリア独裁論の幼稚染みた弄びでしかない。いわゆる「民主集中制」という呪文によってこれを仕掛けるのであるが、仮に「民主集中制」を認めたとしても、その字句通りに運用されていない。実態は、一握りの党中央幹部集中制でしかなく、「民主集中制」の「民主」は欺瞞的に胡椒をふりかけされているに過ぎない。

 日共は、「先行社会主義国家に共通する不公正党内選挙制度」を更に改悪しているような思えるからなお始末が悪い。その実態はこうである。

  党大会代議員は、各都道府県委員会より選出される。選挙人には、事前に党中央のお墨付きを得た代議員候補が推薦名簿として提出される。候補者の一覧が縦書きに印刷された紙が手渡され、それぞれの候補者の下に割り当て人数分に応じて○をつけていくことになる。つまり、一人が定員数一杯の投票権を持つ信任投票ということになる。これは史上、「大選挙区完全連記制」と云われるものである。

 「さざなみ通信」の1999.6.22日付の「吉野傍」氏の「歴史上存在した中で最も多数派に有利な反動的選挙制度」は、次のように指摘している。
 アメリカでこのような選挙制度をとっていたのは、かつての南部の諸州であり、投票権を得た黒人をただの一人も当選させないために、白人の人種差別主義者が採用したもので、あまりにも非民主的であるとして、その後廃止されて、小選挙区制に変えられました。つまり、党内の選挙制度は、小選挙区制よりも反動的な選挙制度をとっているのです。

 大選挙区完全連記制」を簡単に説明すると次のようになります。たとえば、定数が5の大選挙区があるとすると、それぞれの党が5人までの候補者の書かれた名簿を提出することができます。そして有権者はそれぞれ5票を持ち、それらをそれぞれ別の候補者に投票します。この選挙制度ですと、ある党(仮にA党としておきます)が51%の得票をとれる力があるとき、A党の支持者は自分が持っている5票をすべて、A党の候補者5人に1票づつ入れますから、このA党が全議席をとれることになります。仮にB党が49%の支持を得ていても、B党はただの1議席もとれません。

 これは、2大政党が存在する場合の計算ですが、もし3大政党があるとすると、計算上、34%の得票率があれば、全議席を1つの党が独占することができます。小選挙区制は、よく4割の得票で6割の議席、と言われていますが、大選挙区完全連記制はそれ以上に多数派が独占可能なのです。

 南部の白人人種主義者は、黒人を一人も当選させないために、このような選挙制度を導入しました。この制度のもとでは、白人が有権者の50%以上いるかぎり、黒人は絶対に1議席もとれないからです。小選挙区制だと、地域によっては黒人が住民の多数を占める選挙区ができるので、黒人もかろうじて議席をとれますが、大選挙区制だと、全体としての黒人の人口比が50%をどうしても割るので、結局、白人がすべての議席をとってしまうのです。

 つまり、日共が導入している「大選挙区完全連記制」の問題は、名簿外の党中央反対派の立候補が為される余地があるのか、それを潜り抜けた場合に当選する可能性や如何にというところに有る。これを検証する。

 そもそもこの都道府県党会議の代議員になるためには次の関門を潜らねばならない。まず、地区党会議の代議員になるために支部総会で立候補して当選しなければならない。その際の選挙でも事前承認済みの代議員候補に競り勝たねばならない。目出度く地区党会議代議員になったとする。彼は、地区党会議でも立候補して事前承認済みの代議員候補に競り勝たねばならない。目出度く都道府県党会議代議員になったとする。彼は、都道府県党会議でも立候補して事前承認済みの代議員候補に競り勝たねばならない。

 つまり、支部総会、地区党会議、都道府県党会議の3つの会議で、党中央の押し付ける予定代議員と競り勝ってはじめて党大会代議員になることができるのである。この過程で、反党中央派党員は、あれこれと難癖をつけられて、例えば、反党活動の疑いがあるとかの規約違反理由をこじつけて代議員資格を奪われる可能性がある。実際、東大院生支部ではかって、そのような理屈で都道府県党会議代議員の資格を奪われるという史実が刻まれている。要するに、多段階かつ推薦なる二重三重の縛りがかけられていることが分かる。かくて、党大会は満場一致大会となるのもむべなるかなという次第になる。

 反党中央派党員が党大会の代議員に成り得る可能性や如何に。誰かこれを試算してみれば良い。れんだいこは数式が苦手なので分からないので文学的に表現するが、ラクダが針の穴を通るに似ている天文学的困難さを伴っているであろう。これがはたして選挙という名に値するだろうか。ほんの単に形式だけのことではなかろうか。プロレタリア民主主義というのは、ブルジョア民主主義よりもかくも悪質な制度なのであろうか。

 にも拘わらず、今日でも日共党中央は、概要「我が党では、すべての指導機関は選挙で選ばれる」という「党内民主主義」を自賛しつつ、政府自民党の選挙制度改悪に反対論をぶっている。政府自民党の選挙制度改悪は事実としても、それを云うなら手前の党がまず模範例を示しておく必要があるのではないのか。手前のところがもっと悪辣な制度を敷いているのに「政府自民党の選挙制度改悪反対」とはこれ如何に、と受け止められるのが自然だろう。

 思えば、れんだいこの日共に対する燻りはこういうところから発しているように思われる。一事万事で、他の例を検証しても同じようなことが云える。だがしかし、この党中央を愛する者が居る。党と党中央とは別物という基準に立たねばならないだろうに。

 2005.6.12日 れんだいこ拝

 「吉野傍」氏は、「さざなみ通信」の1999.6.22日付投稿「少数意見を反映させるシステムを>へそまがりさんの提起に答えて」で次のように述べている。

 どうも、へそまがりさん、レスさせていただきます。前回のへそまがりさんの投稿は短すぎて、何を言いたいのかよくわかりませんでしたが、今回のはよくわかりました。

 党員なら誰でも知っているように、各級機関・大会での選挙(役員選挙ないし代議員選挙)では、執行部(LC)が次期役員ないし代議員予定者の名簿を定数いっぱいに作成し、それを投票にかけるというシステムをとっています。この選挙制度は、「大選挙区完全連記制」といって、歴史上存在した中で最も多数派に有利な反動的選挙制度です。

 アメリカでこのような選挙制度をとっていたのは、かつての南部の諸州であり、投票権を得た黒人をただの一人も当選させないために、白人の人種差別主義者が採用したもので、あまりにも非民主的であるとして、その後廃止されて、小選挙区制に変えられました。つまり、党内の選挙制度は、小選挙区制よりも反動的な選挙制度をとっているのです。

 「大選挙区完全連記制」を簡単に説明すると次のようになります。たとえば、定数が5の大選挙区があるとすると、それぞれの党が5人までの候補者の書かれた名簿を提出することができます。そして有権者はそれぞれ5票を持ち、それらをそれぞれ別の候補者に投票します。この選挙制度ですと、ある党(仮にA党としておきます)が51%の得票をとれる力があるとき、A党の支持者は自分が持っている5票をすべて、A党の候補者5人に1票づつ入れますから、このA党が全議席をとれることになります。仮にB党が49%の支持を得ていても、B党はただの1議席もとれません。

 これは、2大政党が存在する場合の計算ですが、もし3大政党があるとすると、計算上、34%の得票率があれば、全議席を1つの党が独占することができます。

 小選挙区制は、よく4割の得票で6割の議席、と言われていますが、大選挙区完全連記制はそれ以上に多数派が独占可能なのです。南部の白人人種主義者は、黒人を一人も当選させないために、このような選挙制度を導入しました。この制度のもとでは、白人が有権者の50%以上いるかぎり、黒人は絶対に1議席もとれないからです。小選挙区制だと、地域によっては黒人が住民の多数を占める選挙区ができるので、黒人もかろうじて議席をとれますが、大選挙区制だと、全体としての黒人の人口比が50%をどうしても割るので、結局、白人がすべての議席をとってしまうのです。

 そして、民主集中制を標榜する日本共産党は、党内のあらゆる選挙において、多数派が全議席をとれる大選挙区完全連記制をとっています。たとえば、次期大会の代議員選挙があるとしましょう。ある県での定数が30とします(つまり、その県から大会に30人の代議員を送ることができる)。すると、代議員を選ぶ県の党大会で県委員会は、30の定数いっぱいの大会代議員候補者名簿を提出し、それを選挙にかけます。有権者たる県大会代議員は、それぞれ30の票を持ち、それを各候補者に1票づつ投じます。もちろん、30票すべてを投票しなくてもかまいません。気に入らない候補者がいれば、その分棄権してもかまいません(党内では、この棄権票を考慮して、党内の選挙制度を「不完全連記制」などと呼んでいますが、これは「完全連記制」とまったく同じシステムです)。

 さて、その県大会で、推薦名簿とは別に少数派の対立候補が出たとしましょう。しかし、その人は、有権者の過半数の支持を得ていないと絶対に当選できません。たとえば、有権者の数が100人だとすると、51人の支持を得ていないと少数派は1人の当選も出せないのです。もし党内選挙が比例代表制なら、少数派は4人の支持を得ていれば議席を獲得できますが(100÷30=3・333…)、完全連記制だと、たとえ4人の少数派支持者がいたとしても、多数派の候補者はすべて96票を獲得し、少数派の候補者は4票しか獲得しないことになり、圧倒的な差で落選します。

 しかも、党内の選挙は多段階の選挙であり、それぞれの段階において、この大選挙区完全連記制が行なわれますから、最後の党大会にくるころには、ただの1人も少数意見の持ち主は代議員の中にはいないことになります。

 何という反動的な選挙制度でしょう。どうりで、最後の党大会では必ず満場一致になるはずです。少数意見を持った党員が、3割いようが4割いようが、とにかく過半数に達しないかぎり、1議席もとれないのです。

 では、この選挙制度をどのように改良するべきでしょうか? いくつか方法があります。まず考えられるのは、指導部の名簿提出制を廃止し、完全な自由立候補制にすることです。指導部のお墨付きがなければ、大選挙区完全連記制のもとでも、多少は、少数意見の持ち主も当選する可能性が出てくるでしょう。

 しかし、指導部や代議員への立候補がままならぬ現状があるもとで、名簿制を完全に廃止すれば、定数すら埋まらない可能性もあります。また、形式的には名簿を廃止しても、裏で事実上の名簿がつくられ、指導部推薦の候補者かどうかがわかるようになっていれば、やはり、多数派が全議席をとることになるでしょう。そこで次の方法が考えられます。

 つまり、指導部が提出する代議員名簿に入る候補者数を定数よりも少ない数に限定するよう制度化することです。たとえば、指導部の提出する代議員名簿の候補者数は定数の6割を越えてはならない、という一文を規約に入れることです。こうすれば、残りの4割に少数意見の持ち主が食い込める可能性が出てきます。この6割―4割という数字には一定の根拠があります。つまり、多数派には多数を占める権利を与えつつ、少数派には一定の割合で議席を占める権利を与えるということです。指導部内の男性優位をなくすために一部の先進諸国の政党でとられているいわゆるクォーター制も、どちらか一方の性が指導部の6割を越えてはならないとされています。

 以上は、大選挙区完全連記制が存続するもとでの改良です。次に考えられるのは、選挙制度そのものを変えることです。いちばん民主的なのは、分派を容認した上で、比例代表制にすることです。すなわち、各派(多数派を含む)が拘束名簿を提出し、それぞれの名簿が獲得した票数に応じて代議員ないし役員の議席を割り当てるのです。これがいちばん民主的であり、共産党が国政で要求しているのもこれです。共産党は、国政では比例代表制を主張しながら、党内では、最も反動的な選挙制度をとっているのです(国家の体制と党内の体制とは違う、という例の言い訳については、別の機会に反論しましょう。ここで一言だけ言っておけば、共産主義を標榜する党の内部体制のほうがブルジョア国家の体制よりも民主主義的であるべきでしょう)。

 それはさておき、この根本的改革案は、分派の容認という前提条件をともないますので、おそらく党内の抵抗が強いでしょう。そこで、分派を容認することなく、一定の少数意見が代議員や役員選挙に反映する制度を考える必要があります。その1つは、制限連記制にすることです。完全連記制の場合は、定数と同じ数の票を有権者が持ちますので、全議席を多数派がとってしまいますが、制限連記制ですと、たとえば定数5に対して2票を有権者が持つというようになり、議席の配分はかなり比例代表に近くなります。戦後、日本は一時的にこの制度をとっていたこともあり、そのときの議席配分はだいたい比例代表的でした。実際の運用にあたっては、党内選挙では定数が多いので、定数の半分の票を有権者が持つと規定するようにすれば、いいでしょう。

 あるいは、もっと大胆に、日本の地方選挙のように、大選挙区1票制という制度も考えられます。つまり、定数が30だろうが40だろうが、有権者は特定の1人にだけ投票するというシステムです。しかし、この制度は、党内選挙のように、選出定数と有権者数との間にあまり差がないような場合には(定数30に対して有権者100人とか)、得票数ゼロという候補者が続出することになり、うまく機能しないでしょう。そこで考えられるもう一つの選挙制度は、累積投票制にすることです。累積投票制とは、すべての有権者が定数と同数の票を持ち(ここまでは、大選挙区完全連記制と同じ)、この自分の票を特定の候補者に複数入れることができるというものです。たとえば、定数5であれば5票をもち、その5票をある候補者に全部投票することができるのです。あるいは、3票をAという候補者に、2票をBという候補者に投票することも可能です。この制度だと、ほぼ比例代表的な結果を得ることができます。

 たとえば、定数5に有権者が10人いるとしましょう。有権者10人のうち、A党支持者が6人、B党支持者が4人いるとし、A党は、全議席をとるために5人立候補し、B党は、2人だけ立候補するとします。大選挙区完全連記制のもとでは、A党が全議席をとってしまいます。なぜなら、A党の候補者はそれぞれ6票づつとり、B党の候補者は4票づつしかとらないからです(B党の支持者は、自分の持っている5票のうち、2票はB党の候補者にそれぞれ入れますが、残り3票はA党に入れるわけにはいかないので、棄権票になります)。

 しかし、累積投票制だと、A党の支持者は引き続き、そのすべての票を1票づつ5人のA党候補者に入れますが、B党の支持者は、自分の持っている5票をすべてB党の候補者に集中させることができます。すると、B党の候補者は、うまく票の配分が実現されると仮定すると、B党支持者の全票数(4×5=20)を2で割った数、すなわち10票づつ獲得し、見事2議席をとることができます。もしB党が3人たてたとしたら、それぞれ7票、7票、6票の得票となり、2人当選、1人同点となります。B党が3人たてると、下手すると過半数とられるので、A党は、候補者を絞って、たとえば4人だけの立候補にします。すると、4人でA党支持者の全票数(6×5=30)を分けるわけですから、8票2人、7票2人となります。つまり、2人当選、2人同点となります。A党が4人に立候補を絞ると、B党は、2議席もとれなくなる可能性が出てくるので、やはりB党は、その支持者数に応じた立候補者数に絞るでしょう。つまり、この場合は2人です。すると、さっき計算したように、この2人のB党候補者はそれぞれ10票づつとることになり、見事2人当選となります。こうして全体として、A党3人当選、B党2人当選となり、この議席配分率は、得票率と完全に一致しています。

 以上見たように、分派を容認しないでも、さまざまな形で、少数意見を大会の構成や指導部の構成に反映させる方法はいくらでもあります。要は、現在の指導部が少数意見の反映を望んでいるかどうかです(当然、社会主義政党としては望むべきですが)。

 私としては、とりあえず、最も手っ取り早い改善策として、指導部推薦の名簿に記載される候補者の数を、定数より何割か少なくするという改革案を主張したいと思います。これがいちばんすぐに実行可能であり、そしてわかりやすいものだからです。しかしながら、現在の官僚主義的指導部のもとでは、どんな穏便な改善策も、一顧だにされないでしょう。


 

 「吉野傍」氏は、「さざなみ通信」の2000.9.24日付投稿「党大会の形骸化と中央権力の強化」で次のように述べている。

 今回の党規約改定案がいかにひどい代物かについては、この間のインターネット上での熱心な討論によって明らかになりつつあります。9月21日付の私自身の投稿も規約改定案の問題点の解明に一定の役割を果たせたと思います。

 その後、さらに規約改定案を検討した結果、党大会に関する条項の中に看過できない重大な変更点があることがわかりました。すでにいくつかの問題点は、JCPウォッチでの久遠寺氏の投稿で明らかにされていますが(とくに、新規約案において、大会への議案提出権が中央委員会に独占されるようになっていることは、党大会の形骸化をより徹底するものであり、重大な改悪点です)、それに加えて、次のような重大な問題があります。

 現行規約では、党大会に関して第25条に「党大会は、全党の意志が代表されるようにしなくてはならない」という規定があります。これはきわめて重要な規定です。というのは、この規定は、党内の代議員選挙における比例代表制を主張する規約上の根拠になりうるものだからです。現在の選挙制度は、私が99年6月22日の投稿で明らかにしたように、比例代表選挙とは最も遠い「大選挙区完全連記制」(小選挙区制よりもはるかに多数派が全議席を独占できるシステム)をとっています。この選挙制度は明らかに、現行規約が規定する「党大会は、全党の意志が代表されるようにしなくてはならない」を蹂躙しています。それゆえ、現行規約条項にのっとるならば、当然、現在の選挙制度を改革する必要があるわけです。

 ところがです。今回の規約改定案を見ると、なんと、「党大会は、全党の意志が代表されるようにしなくてはならない」という文章がまるまる削られているのです。つまり、新規約案によれば、党大会は全党の意志を代表しなくてもいいということになっているのです。共産党は、政府に対しては、国民全体の意志が代表されるよう要求しているにもかかわらず、自分の党の規約からは、民主主義のイロハである「全体の意志の代表」という規定すら削ろうとしているわけです。

 さらに、「意志の代表」という点に関しては、党内選挙に関する規定でも改悪されています。この点は、JCPウォッチでの久遠寺氏の投稿でも指摘されていますが、やはり重要な問題なので、ここで改めて指摘しておきます。

 現行規約の第19条には、次のように書かれています。

「党の各級指導機関、党大会と各級党会議で選出される。選挙は、選挙人の意志が十分表明されるようにしなければならない」

 この規定は、実は、「党大会は、全党の意志が代表されるようにしなくてはならない」という規定と相互補完的なものであり、党内の選挙が形式的な選挙であってはならず、民主主義の実質を伴った選挙たるべきことを規定した重要な条項です。ところが、新規約案によると、「選挙は、選挙人の意志が十分表明されるようにしなければならない」という規定があっさり削除されているのです。この削除はけっして偶然ではありません。「党大会は、全党の意志が代表されるようにしなくてはならない」という規定を削除したのとセットであり、選挙を名実ともに完全に形式的なものにしようとする党指導部の決意が示されています。いちおう形ばかり選挙さえしておけばあたかも党内民主主義が保障されているかのような装いをとるために、選挙の実質を保障する規定が念入りに削除されているのです。

 実態を規約上の理念に近づける努力をするのではなく、実際の非民主主義的現状に規約の文言を合わせようとする――この姿勢はまさに、憲法9条を改悪することで反動的現実に憲法上の理念を合わせようとする反動勢力と同じ水準であると言っても過言ではないでしょう。

 個々の党員の意見表明権を念入りに禁止したことと並んで、この改悪は、まさに今回の規約改定案の真の意図を、疑う余地なく示していると言えるのではないでしょうか。


【満場一致制の由来考】
 ジャン・ジャック・ルソーは、著書「社会契約論」の中で告ぎ゛のように述べている。
 「集会に調和が支配していればいるほど、つまり、様々な意見が満場一致に近ければ近いほど、一般意志もまた、それだけ支配的である」。
 「これと正反対の場合でも、全員一致がよみがえる。それは隷属状態に陥った市民達が、もはや、自由も意志も持たなくなった時である。その時には、恐怖と諂(へつら)いのために、投票は喝采にかわってしまう。人々はもはや討議せず、盲目的に崇(あが)めるか、呪(のろ)うかである」。

 ルソーの指摘の「二種の満場一致」のうち、宮顕党中央の下で繰り広げられる満場一致はどちらのそれであるか、云うまでもなかろう。

 2006.5.21日 れんだいこ拝




(私論.私見)