補足(10) 宮顕式党勢拡大運動の虚構とスパイ登用の実例
 党勢拡大運動そのものは、政党である以上普遍的な衝動である。しかし、宮顕式党勢拡大運動となると少し意味合いが違う。これを通じて、@・党を宮顕私党的に私物化させたこと、A・党内闘争の道具として利用し続けてきたという面が濃厚で、普遍的衝動としての党勢拡大運動の面から考察することは正しくない。むしろ、如何に邪悪な衝動で党勢拡大運動を政治主義的に利用してきたのかを見なければならない。

 どういう意味か。それは次のような観点を添えることでよりはっきりする。宮顕総路線はこれを理論から見ると噴飯ものであった。大きな構図は、@・サ条約後も日本の対米従属しているという規定、A・それ故に当面の革命は民族独立式民主主義革命であるという規定、B・日本の民主主義革命は議会闘争を中心として達成されるという規定、C・左派的突出に対しては、これを撹乱者として鎮圧していくという規定、D・党員はこれらの右派的諸規定に服し、党中央に絶対的には拝跪すべしという意味合いでの党内民主集中制を遵守すべし、で構成されている。

 何の事は無い、要するに社会主義革命を課題として突きつけることを意図的に避け、ピンぼけ規定で左派戦線を騙しつづけ眠り込まそうという代物でしかない。更に、これを本来の左派レールに乗せようとする者が出てくれば当局権力と一体になってあるいは背後からあるいは横腹から叩き続けるという側面を持つ。かような理論の是非を討議し続ければ次第に形成利あらずとなるであろう。では、宮顕一派は如何なるマジックでこれを正当化し乗り切ったのか。ここに党勢拡大運動の特殊な意義・意味がある。要するに党勢は拡大しているのだという物質的根拠を創り出すことにより、宮顕総路線の正当性を外から暴力的に付与していった、ということである。しかし、党勢拡大運動は駄弁左派の泣き所で、日共の党勢拡大運動が正成長し続けている間中痛い現実となった。

 この場合、党勢拡大運動は、議員数、党員数、機関紙数という三つの拡大指標を梃子にしていた。党中央は、この三分野での太鼓を叩き続け、その結果としての成長指標を訴えることにより、宮顕総路線が党内的に支持されている証とした。従って、この三指標が正成長している限り党中央の言い分が通り、しかして安泰となり、かくて党内反対派の意見はか細いものにならざるを得なかった。史実は、こうした党勢拡大運動を表見的には成功させてきたので、宮顕系党中央は以来30有余年我が世の春を謳歌することとなった。


 ところで、党勢拡大運動の三つの指標にはそれぞれ独自意義付けがあったように思われる。議員数指標は、宮顕総路線に対する世論支持という形で理論の正しさの裏付けとなった。党員数指標は、当初の頃の意味は徳球党中央時代とを隔絶させる新陳代謝的意味があり、ほぼこれを成し遂げて以降はやはり宮顕総路線に対する世論支持という形で理論の正しさの裏付けとなった。機関紙指標は、これは経営の才覚という意味で宮顕の真骨頂が現れている。従前は大衆闘争の実践を主としていたが、宮顕は機関紙拡大を独自の追及課題として設定し、まさに商業新聞拡販の論理でこれに熱中してきた。機関紙拡大はイコール財源問題であるから、これは宮顕の卓見であるかも知れぬ。

 こうして、宮顕独特の党建設方式が導入され、ある時期まではこれが成功してきた。(議員数指標)略、(議員数指標)党員数は1980年代の半ばに「50万人に近い」と云われる時期を迎えている。(機関紙指標)機関紙赤旗は1980年ごろピークに達し約300万部。

 しかし、この構図が崩れるときがやってきた。具体的データの取り寄せはこれからすることになるが、丁度バブルがはじけた頃少なくとも90年代後半よりもはや覆うべくも無い衰退現象を見せることになった。宮顕―不破―志位と三大続いてきた変態党中央はこれを認めず、その都度ご都合主義的に使えそうなデータを持ち出すという詭弁で乗り切りし始めている。今後、この詭弁がどこまで通用するか。事態は更にあらゆる指標を悪くしていくだろう。それでも弄する詭弁が見ものになってきている。

 さて、宮顕総路線の正当性を付与するものとして党勢拡大運動があてがわれ、その党勢拡大運動が失敗に帰したとなると、党中央の存立根拠が一切失われたということになる。これが目下の日共情勢である。しかしながら、この間の党内政策において、幹部級はなべて当局内通派、残る一般党員の大勢もこれまた変調系無気力盲従分子のみとなって居るという関係で、この日共情勢が分からない。党内反対派が組織される風でもない。僅かに「さざなみ通信」が生み出されているが、この辺りが精一杯の抵抗であるように見える。

 党勢拡大運動の通史を以下検証するが、俯瞰図として以上のような構図を持ちたい。

 2003.7.31日 れんだいこ拝


 1958.7.21日よりの第7回党大会で、宮顕は書記長に就任して党の実権を握った。以来、赤旗の拡大と党員の獲得を強調し、それを党運動の至上課題にさせた。特に、赤旗については、拡大、配布、集金のどれが欠けても絶対駄目と党員にはっぱをかけ、常任委員会の会議でも常にその部数の伸び具合を問題にしてきた。

 11.20日「第3中総」を開いている。この会議で、党中央は、「党生活の確立と党勢拡大の運動」の決議を行い、一般の党員に対して、「@.細胞会議を定期的に開く、A.全党員がアカハタを読む、B.党費と党機関誌代を完納する」という三つの目標(党生活3原則)を掲げた。大衆闘争の実践と全く切り離して「党勢拡大」と「中央への団結の維持」に熱中していく宮顕独特の党建設方式が、この「第3中総」において確定され、組織的に発足した。 アカハタ日曜版の発行が決定されている。
 1959.8.7日アカハタに、党中央より「党を拡大強化するために全党の同志に送る手紙」呼びかけが発表された。全細胞が党勢拡大計画を立ててそれを中央委員会宛ての返信として提出するよう指示していた。党中央が大衆的前衛等を目指す党勢拡大・党員倍加運動に乗り出し、その歴史的出発点になった。保険の勧誘まがいの「返事を出す手紙カンパニア」が組織された。

 春日.内藤らはこの方針に反対した。まじめな批判的党員が嫌気がさして機関を離れたり、無活動に陥っていくものが増えていった。反対派勢力の排除と抑圧、新しい純粋無垢の支持層をつくることにより党内基盤の強化に役だった。いずれにせよ、中央の権威をその方針の正しさと指導の正しさによって確立するのではなく、上からの組織的統制の強化と中央に対する下部の絶対服従と無条件忠誠の強要によって確保しようとする反マルクス主義的な方法であった。

(私論.私観)「宮顕式党勢拡大運動の狙い」について

 宮顕は、この時以来「党勢拡大運動」を格別重視していくことになるが、ある部分党勢拡大の上で貢献した。しかし、宮顕の意図するところは、この運動を通しての「徳球に影響を受けたことの無い新規党員の加盟促進」であり、宮顕系の主流派基盤の加速化としてもたらされたものであったと見るほうが正確かと思われる。

 1960年安保闘争後、ブント全学連が挫折と混迷を深めたのに対し、共産党中央にはそうした陰は微塵も無く、ひたすら党勢拡大を目指していくことになった。袴田の「私の戦後史」によれば、「60年安保前」には、党員4万名足らず、アカハタ本紙4万部だったものが、闘争が峠を越した9月の時点で、党員8万名、アカハタ本紙10万部近くに倍増させていたとある。以降、この党勢倍増運動に拍車がかかっていくことになる。このことが際立った特徴となった。

 1961.8.25日第8回党大会で、宮顕派は、「61年宮顕綱領」の採択、春日(庄)派の追い出しに成功し、党内基盤を強化した。この時「党勢拡大2カ年計画」を発表している。

 12.18−20日「第2中総」において、参議院選挙をめざす当面の任務の採択、8回大会の党勢拡大2カ年計画に基づき、9回大会までに10万党員を37万に増やす目標を定め、中間目標として62年中に15万に増やすことにする。
 1960年代の後半から狂気としかいえないような党勢拡大運動が間断なく展開された。宮顕は、「大衆運動は社会民主主義者でもやる。党勢拡大は党独自の課題である」と位置付け、「大衆運動と党勢拡大の2本足の活動」を指針した。

 こうして、党中央からl拡大月間が発表される。すべての党組織はそれ自体を自己目的とした拡大運動に突入せねばならず、「常にどんなときでも拡大を忘れるなという意味で『24時間党員』という言葉が生み出された」。時に深夜にも及ぶ地区活動者会議が開かれ、党員は地区党幹部に決意表明をさせられた。期限と目標を申告させられ、それは後に厳しく点検、追及された。その為、機関紙拡大の責任数値をクリヤーするための立て替え払いが発生し、名目だけの達成でのお茶濁しが横行した。

 党勢拡大運動は、「賽の河原の石積み」のごとくになり多くの党員が疲労消耗耗した。その結果、地区機関の追及に耐えかねて、学業半ばにして姿を消した者、ようとして行方が知れなくなってしまった者、自立的な日常生活ができなくなってしまった者、「自律神経失調症」という病気にかかる者(常任の職業病といわれた)が発生した。多くの細胞(支部)が壊れていった。

 こうした党勢拡大運動を長年続けた結果、党活動が拡大と選挙だけに矮小化され、「常に忙しく、自分の頭でものを考えない党員」が作られていった。大衆運動がほとんどできない党になってしまった。党勢拡大運動はこういう事態を作り出すことに大きく貢献した。






【党勢拡大運動の実態】(川上通信員 『破綻した「計画的な党勢拡大路線」』さざ波通信32号より)

 党勢拡大運動はまことに厳しい「活動」であった。職場、地域、学園で普通に活動している党員であれば、定期的に一定の党員を増やし、新聞を拡大することを継続的しかもほぼ無限定に続けることはもともと困難なことである。「計画的な党勢拡大」は「これ」をやるという路線であった。

 ふつう党員は、それぞれのところでかかえる大衆運動をやっているから、あるところまでは拡大が進む。これが一定のところまで進むとそれ以上は拡大ができない壁に突き当たる。ところが、これを許さないというのが「計画的な党勢拡大路線」である。ある程度の拡大が進むと壁に突き当たるのは当然であり、もう少し大衆運動をやるなどして周りの人々とのつながりをひろげなければならない、と思うようになることも当然である。しかし、これを党中央は「壁論」とか「段階論」などといって厳しく批判した。


 拡大運動(月間)の時には、地区の会議で支部毎に目標を決めさせる。しかし、現実にはなかなか進まないので、さらに期限を細分化した節(ふし)を設ける。地区機関の専従活動家が地区内の支部(細胞)を分担して担当し、支部会議にも出席して拡大の意義を説き、こと細かに目標を設定する。拡大月間の期限が近づくと毎日地区機関へ行くなり、電話なりで拡大の成果を報告する。地区の担当専従は厳しく点検する。これを日報体制といった。

 いま考えると、マインドコントロールに近いものがなければ、あのような活動はできないと思うが、当時の心理状態はそんなところであった。ときには活動者会議ということで、深夜に招集されることもめずらしくはなかった。新聞を取ってくれそうな人が周りにいない場合には町中で歩いている、何の面識もない人に呼びかけるような拡大運動もあった。「計画的な党勢拡大路線」を始めたころの「革命運動に必要なところに必要な党をつくる」という党建設の基本はもはや忘れ去られていた。


 また、いまの「しんぶん赤旗」の読者には想像もつかないだろうが、「○○県△△地区目標達成!!」といった記事が一面トップに載ったものであった。読者に「こんな記事を読者に読ませるの?」と言われたことがよくあったが、このような記事が「党活動欄」おさまるようになったのはかなり後のことであった。

 いくら努力してもなお期限内に目標が達成できない場合がある。そうすると、達成できなかった県党や地区党は拡大月間を独自に延長して党員を叱咤激励することになる。これが時としてたいへん長期にわたることがある。私の経験では、一年のうち半年近くを「拡大月間」として過ごさなければならないときもあった。これに国政選挙、地方選挙、補欠選挙が加わるので党員が職場、地域、学園で周りの人々といっしょにそれぞれの課題で活動することが時間的にも、精神的にもおよそに不可能になる。こうして「計画的な党勢拡大路線」は党員と周りの人々との生々きとした結びつきを破壊し、大衆闘争や大衆運動を著しく困難にする。「やりすぎれば反対物に転化する」典型的な事例である。


 目標が達成できないときには、「原因を掘り下げ、自らを点検せよ」とばかり、厳しい自己批判を要求される。これは基礎組織の党員に対してだけではない。基礎組織の党員を厳しく点検する地区機関の専従活動家にはもっと厳しい追及が待っている。もともと無理なことをやっているのであるが、「計画的な党勢拡大路線が間違っている」と気づかない限り、目標を達成できなかった自らを厳しく責めることになる。こうして健康を損ね、若くしてリタイアしなければならなかった人を私は何人か見ている。医者に行ってもどこが悪いかはっきりしないので「自律神経失調症」という病名をもらった人が多く、「自律神経失調症は常任(専従)病」と言われたほどであった。私の友人でも、結局、大学を続けられなくなった人も何人かいる。

 さらに、地区機関がどうしても目標を達成するために、拡大もしていないのに「拡大する予定」部数を先に申請(「決意申請」といった)してしまうことさえ行われた時期があった。拡大できなければその代金は支部が負担することになる。私は当時学生支部に所属していた。現在のように配達網ができておらず、配達はおもに手渡しであった。この負担だけではなく、新聞を配達しないことがあり、当然新聞代をもらえない。夏休みなどに支部の党員がアルバイトをしたり、小遣いを削って機関紙代をおさめたこともあった。

 宮本氏が始めた「計画的な党勢拡大路線」は、確かに党を大きくした。しかし、どれほど多くの党員、「拡大運動はできない」けれども真面目な、あるいは有能な党員が党を離れていったことか。特に経営(企業や役所の)支部の壊れ方は際だっていた。経営支部の壊れ方は今日まで一貫して続いている。

 組織路線上でいえば、今日の党はこのようにして大きくなった党である。この党活動の路線は、比喩的に言うと「ザルに水を入れるようなもの」であるから、休むことなく拡大し続けなければならない。したがって、続ければ続けるほど党と周りの人々との生々きした関係は損なわれ、党勢拡大そのものも進まなくなる。

 「計画的な党勢拡大路線」による党勢拡大は、組織路線として一般化できるようなものではないから、党が大きくなる条件がなくなれば進まなくなる。今日のような生やさしい方針では絶対に拡大は進まない。1980年代半ばごろから、すでに拡大が進まなくなったどころか、減少傾向にまったく歯止めがかからなくなった。また、党員の高齢化や消滅寸前の民青同盟やなどの深刻な組織路線上の問題は、ソ連崩壊の政治的影響もあるけれども、「計画的な党勢拡大路線」の破綻であることも明らかである。

 党建設の分野でも、重要な発展かおこなわわました。九九年六月の中央委員会総会では、「総選挙をめざす党躍進の大運動」を提起し、そのなかで、九三年いらい発展させてきた「支部が主役」の立場でこの運動をすすめると同時に、支部と党機関が血をかよわせた循環型の活動の知恵と経験を生かして、国民との交流・結びつきをひろげるようよびかけました。大会は、これらをふまえ、あたらしい規約を新鮮な力として、五十万の党づくりを内容とする五カ年計画をきめ、……。(『八十年史』307頁)

 現在の党員拡大運動は「支部が主人公」などというけれども、極言すれば「実際は新聞配達や、選挙のときの支持拡大、ビラ配り、ポスター貼りの人手がほしい」というところである。また、現在の拡大運動はほとんど地方議員に依存するものとなっている。議員が拡大運動や配達活動に没頭すれば、おのずと議会活動は二の次になり、広汎な住民との結びつきを確保することが困難になる。
 40万人などという党員数は実はまったく架空のもので、党費納入党員は何%か、定期的に支部会議に出席する党員はどれぐらいいるか、職場の組合活動に積極的に参加している党員はどれぐらいいるかを調べれば、おどろくべき低い数字になるに違いない。

 「大衆的『前衛』党」という党建設上の基本的な理念についての論議は別にして、少なくとも、職場や地域で多くの人々と生々きとした結びつきを持ちうる党をつくるためには、何としても破綻した「計画的な党勢拡大路線」を直ちにやめなければならない。「計画的な党勢拡大路線」は党を大きくしたけれども、党を大きくした「その路線」が今日の党勢衰退の原因ともなっていることが、なかなか志位氏にはわからないらしい。志位氏は基礎組織に足を運んで、単なるパフォーマンスではなく、党員大衆の意見をつぶさに聞くことである。
 長年、このような党活動に慣らされた党員は、職場や地域の人々がどのような要求を持っているかにさえ関心がない人が少なくない。ともあれ、現在活動している党員に依拠するよりないのであるから、彼らが職場や地域、学園に目を向け、周りの人々の切実な要求をつかんでいっしょに活動できるように指導、援助することから始めなければならない。職場や地域の人々から疎遠になった支部に活力が存在することはない。逆に、支部や党員が職場や地域の人々と深く結びついたときには必ず生々きと活動するようになる。今回の統一地方選挙でも後退の重要な要因として「党指導部が期待したほど一般党員が動かなかった」ことがあげられるであろう。党幹部は基礎組織に足を運び、なぜ彼らが活動に参加しなかったかをつかまなければならない。

党勢拡大路線は正しいか

1999/6/19 川上慎一、50代


 



【党勢拡大運動とスパイ登用の関係】

 その優秀成績者が機関に登用されていくことになったが、それがスパイ登用の道筋でもあった。


 6全協後の深谷進なるスパイの重用。

 






(私論.私見)