521 宮本顕治論 第6部 査問事件/宮顕逮捕、小畑死亡原因の解明

 (最新見直し2005.8.28日)

投稿 題名
20 宮顕検挙とその虚実について
木村さんへ
21 大泉のその後について
22 事件の大々的報道
23 小畑の遺体の発見と司法解剖鑑定結果について
24 両鑑定書に対する袴田と宮本の対応ぶりについて
(補足) 【(補足)「査問中、食事を供していたのか」について】
(補足) 【(補足)題名/中田鑑定書について】
(補足) 【(補足)題名/ 両鑑定書に対するその他識者の見解について】
(補足) 【日共の本音の弱腰露見される】


 題名/ 宮顕検挙とその虚実について
 第7幕目のワンショット。宮顕は二日後の12.26日、逮捕検挙された。富士見町電停前の喫茶店に入ろうとして、張り込んでいた特高と格闘の挙げ句逮捕された、とされている。逮捕検挙されたのは史実であるが、この時「特高と格闘」したのかどうは分からない。そういう風に脚色されていることが大いに考えられる。

 党史では、次のように記述されている。
 「この摘発の途上で、1933年(昭和8年)12月、東京市委員会にもぐり 込んでいたスパイ荻野増治の手引きで宮本顕治が街頭連絡中を十数人の警官に包囲されて麹町署に検挙された」。

 「日本共産党の65年」73P)は、次のように追記している。
 「党中央は荻野にスパイの疑いを持っていだいていたが、宮本が最後の連絡ということで出かけたところを敵の手に売られたのであった」。

 このような記述によれば、宮顕の検挙は「スパイ荻野の手引き」による、党にとって「査問事件」後の重要な時期での痛い検挙であったように受け止められやすい。が、実際は大きく様子が違うようである。次のようなものであった。

 立花氏の「日本共産党の研究三.112P」を参照する。
 概要「前日アジトにやってきた宮本は、今度は東京市委員会キャップの荻野の査問をすることにしたと木島に告げ、それを『木島が責任を持って東京市委員会でやれ』と命じた。しかし木島は、『東京市委員会にはとてもその力がない』というと、宮本は、『では中央委員会でやるから、ついてはその準備が完了するまで、木島と荻野と連絡をとるようにしてくれ』と頼み、 木島は了承した。

 荻野は宮顕のおぼえがあまりめでたくなかったようで、同じ東京市委員会に居ながら大泉・小畑の査問に当たっては計画段階から外されていた。この間荻野が受け持っていた下部組織で連続検挙があり、それが原因で荻野は木島にその地位を譲らされていたという経過があり、党内から疑いの目で見られていたとのことである。12.24日つまり小畑が死んだ日には木島と街頭連絡の約束があったが、その場所に行ってみると木島は来ていなかった。実際には木島はリンチ事件で忙しくて連絡どころではなかったのだが、そうとは知らぬ荻野は一層不安になった。

 翌25日、逸見と連絡をとると、 逸見は大泉・小畑の査問の大要を話し、これから宮顕に会うようにと指示した。指定された場所に行って宮顕と会うと、宮顕はこれまで荻野に対して『あなた』とか『きみ』とか呼びかけていたのに、この日は始めから『貴様』呼ばわりをした。宮顕は、『大泉と小畑とを査問した結果、党の各機関に多数のスパイが潜入していることが判ったから、今後それらのスパイを徹底的に処断する』と云い、大泉・小畑の除名理由書のプリントを渡して、それを複製する仕事を命じた(この除名理由書の記載内容に興味があるが明らかにされていない −れんだいこ注)。

 さらに、『大泉・小畑がスパイであったことを認めるか』と聞くので、荻野は、 『大泉はスパイだと思うが、小畑はそうは思わない』と答えると、宮本は一瞬『ギクッ』としたようだったが、鼻先で『フン』と笑い、それから、荻野は『東京市委員会から解任され、今度はアジ・プロ部で働いて貰うことになった』と告げて、『そこで貴様をうんと叩き上げてやる』と云った」。

 ここは暫く黙そう。この時宮顕は25才である筈であり、何とも超大物な口ぶりをするこの背景は一体何なんだろう。それと「ギクッとした」というのが何ともリアルな気がする。それはそうだろう、ここまでの解明で明らかにしてきたように、「大泉はスパイだと思うが、小畑はそうは思わない」こそ「小畑査問事件疑惑」の本質に迫った認識であり、当の宮顕だけには絶対漏らしてはいけない考え方であった訳だから。しかし、そこまで読みとれなかったからといって荻野の迂闊さを見るわけにもいかないであろうが。

 宮顕逮捕の様子は次のようなものであった。
 「荻野は、宮顕の口ぶりから、大泉・小畑は査問されて殺されたに違いないと判断し、これから他のスパイ容疑者にも査問が広がり、自分もその一人で殺されることになるかも知れないと考えた。この日の夜一晩考えたあげく、翌26日の朝、警視庁に自首して出た。荻野と宮顕は、前日別れるときに、この日の午後3時に連絡を取ることにしていた。宮顕はそこで荻野と会ったら、木島に任せて査問させようと考えていた節がある。自首した荻野は、この日の連絡を警察に告げた。予定通りやってきた宮顕は乱闘の末逮捕された」。

 宮顕検挙の真相は以上の通りということだ。荻野が宮顕を売ったことは明らかであるが、宮顕の逮捕は単純にスパイに売られたとかいうものではない異色のそれであることが判る。ちなみに、荻野は除名され、その除名広告によれば31年(昭和6年)頃からスパイであったとされた。そうであれば、ほぼ二年間一緒に活動していた同じ東京市委員会の宮顕−袴田−木島ラインを始め他の党幹部はそれまでになぜ売られなかったのかが不自然ではないだろうか。あらゆる視点を宮顕神話から見るからこういう不自然さが見えてこないことになる。

 なお、この宮顕検挙について不審な点がある。宮顕は、松本清張に次のように話しているということだ。何とかして荻野を落とし込めスパイに仕立て上げようとしていることが判る。
 概要「(前にも一度逮捕されそうになったことがあるとして)会合の為に三田のアパートへ行ったら、張り込んでいましてね。手帳を取られたんです。これは駄目だと思ったんで云々。後から思うと、私がやられたのは、通称“高橋亀”こと荻野っていうスパイに売られたのです」(「宮本顕治対談集」238P)。

 この話の珍奇なところは、「手帳を取られて、駄目だと思った」ことにある。ということは、宮顕が手帳を所持していたことと、その手帳には克明なメモがなされていたことを意味する。

 すでに我々は、「査問事件」中大泉の手帳嫌疑を見てきた。宮顕自身が次のように述べているほどの「党の最高指導機関の指導者が、いつ、どこで不審尋問に会うか判らない。この手帳を見たら、非合法活動をやっている共産党員だということがいっぺんにわかってしまう。当人は勿論逮捕されるが、同時に連絡場所にくるものも片っ端からやられる」危険な行為として、当時党員は手帳を持たないというのが鉄則であったはずである。宮顕なら所持しても良いということにはならないであろう。

 それともこの御仁の癖の一つであるが、自分には例外が許され相手には厳しくという常用なのであろうか。そういえば、「空中浮揚」氏も自分は見るだけで信者に水中クンパカさせていたなぁ。


 ところで、この時宮顕が、こうした「疑いの強い」荻野にわざわざ会いに行っている必然性が見えてこない。袴田の話によると、袴田も宮顕も、かねがね荻野は怪しいと気づき、疑い監視していたという。検挙される当日も、宮顕に「危いから、よせ」と止めたが、「いや、今日が最後だ」と言って出かけたと伝えられている。

 
「いや、今日が最後だ」というもの言いが意味深だ。荻野が最後なのか宮顕が最後なのかはっきりしないが暫し黙して考えてみよう、あらかじめ自身の入獄を知っていたとも受け取れる実に謎めいた言葉ではないか。一仕事やり終えたという意味なのか…。袴田は云う。
 「文字通り『最後』の連絡になったわけだが、それにしても、宮本はどういう意味で『これが最後』などと私に云ったのか。考えれば考えるほど、意味深長ではないか」。

 袴田は、後になって気づいた不自然さをこのように伝えている。


 
ついでに付記すると、この時拳銃は所持していなかったようである。公判で、「査問事件」中拳銃所持の理由を問われ、所持の正当性を力説していた論理からすれば、既に怪しいということが噂されていた荻野に会いにいくのに所持しなかった理屈が見えてこない。これを思えば、「査問事件」時の拳銃所持はまさに威嚇のためであったということになろう。宮顕弁明を精査していくとこういう辻褄の合わないことが次から次へ判明してくる。

 
それはともかく、宮顕の逮捕により宮顕が職務分担として引き受けていた「赤旗」編集と東京市委員会の指導は袴田が引き受けることになった。つまり、「赤旗」編集と東京市委員会の指導権は宮顕系列で握って離さなかったということになる。

 なお、この逮捕時の様子を伝えた宮顕の回顧録の内容に重大な疑惑があることも指摘しておかねばならない。宮顕は、昭和15年4.18日公判の冒頭陳述で次のように陳述している。
 「大体私が麹町警察署に検挙された時に、私を調べんとした山懸警部は、鈴木警部等とテーブルを囲んで曰く、『これは共産党をデマる為に格好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる』と言って、非常に満足した様な調子で我々に冷笑を浴びせて居た。然し自分はテロに依る訊問の為警察に於ては陳述を拒否してきた」 (文化評論昭和51年臨時増刊号、「リンチ共産党事件の思い出」87P)。

 これは宮顕自身の公言である。
これに対し、平野謙は貴重な疑惑を呈し、次のように述べている。
 概要「大体私が 麹町警察署に検挙された時は12.26日の筈であり、しかし昭和8年12.24 日に小畑は急死したが、その事実を当局が確認したのは、大泉兼蔵が逃亡した翌昭和9年1月15日直後のことである。宮本顕治の検挙された昭和8年12.26日から1.15日までの二十日間ほどのあいだに、宮本顕治の警察に対する根本態度が確立されたのではなかったか」。

 つまりそういうことになるが、「宮顕の逮捕時に特高が既に小畑のリンチ死を知っていた」との宮顕の公判冒頭陳述は一体どういうことなんだ。これが真相かも知れないし、宮顕が拷問的虚実をデッチ上げんがために脚色した詐術かもしれない。ひょっとして両方の意味があるかもしれない。いずれにせよことは極めて奇っ怪なことになるし、宮顕弁明を精査していくとこういう辻褄の合わないことが次から次へ判明してくる。私が宮顕を胡散臭い人物だということの根拠の一つでもある。

 しかし、世の中にはいろんな見方があるもんだと思う。この特高発言がなされたのは小畑の遺体の検死が行われた直後の1934年(昭和9年)1月17日頃であり、宮顕の取り調べにあたっていた山県警部らは、麹町警察署の拷問部屋で宮顕にむかって「共産党をデマる絶好の材料だから、今後とも党と大衆を切り離すためにつかってやる」とうそぶく、という記事が「ウオッチ」論客の一人である土佐氏より紹介されている。

 この1.17日説の根拠は判らないが、この場合、昭和15年4.18日公判の宮顕の冒頭陳述での「大体私が麹町警察署に検挙された時に、 私を調べんとした山懸警部は云々」発言が確かになされているのかどうか調べればはっきりする。私は、「リンチ共産党事件の思い出」を参照しているだけであるので心細くなってしまう。しかし、平野氏が自分で掲載しておいて 「不自然だ」と言っているのだからあながち嘘ではないと思うけど。どなたかチェックしていただきたいと思う。

 現在私は「宮本公判記録」を手に入れている。平野の指摘する通り、昭和15年4.18日公判の冒頭陳述で、宮顕がさように述べていることが確認された。ということは、宮顕の公判陳述冒頭の「山懸警部は、鈴木警部等とテーブルを囲んで曰く、『これは共産党をデマる為に格好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる』と言って、非常に満足した様な調子で我々に冷笑を浴びせて居た」陳述は極めて奇怪なことになる。事件が露見していない時点で、何故特高がそのようなセリフを吐いたのか、精査せねばならないことになる。

 ちなみに、宮顕は、麹町署に検挙された際に、彼が毛利特高課長、山県為三特高警部らから、失神しそうになるほど拷問をされ、獄中にあって麹町警察と留置場において拷問を受けたと自身が明記している。しかし、このように主張しているのは宮顕であって、山県警部は、「宮本なる人物には一面識もなく、拷問したなどと言い張るのはまことにもって名誉毀損」と憤慨しているとのことである。この発言の真偽もどなたか確認していただけたらありがたい。私でさえ、あまりに重大なことなので、にわかには信じられない。こうして見ると、宮顕の言には異常な脚色があちこちで見て取れることになる。

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 題名/当時の過酷な取調べ状況について
 なお、ここでこの当時の通常の取り調べの水準がどの程度のものであったのかを見ておくことにする。これは「特高警察黒書」(新日本出版社)113Pの一節である。俳優の松本克平氏が自らの体験を語ったものである。松本氏は党員でもなかったがナップの連絡係をしていたようである。そういう者にさえこの程度の拷問がなされるのが普通であったことを例証したいため以下記す。
 概要「私は築地署へ引っ立てられ、激しい拷問を受けた。二人の訊問係りは交互に連続的に機関銃のように尋問する。即答しないと二人のテロ係りが間髪入れず竹刀と藤の太いステッキで私の太股を気違いのように殴りつけた。 反抗心と昂奮で最初はそれほど痛く感じなかった。だがいっぺん叩かれたところは既に内出血している。体をあちこちひっくり返されながらムシロのように2時間も叩かれると同じ箇所を三度四度と叩かれることになる。三度同じ所をやられると頭にキリを突き立てられたように痛く、体がピクピクして意識不明に陥る。唇はカラカラに乾いて声も出ない。私は43度の高熱に浮かされ1週間以上動けなかった。心臓の弱い人ならとっくに心臓麻痺で死んでいただろう」。

 続いて同書は作家の中本たか子氏の手記を載せている。彼女も当時は党員ではなかった。関連するところだけ抽出する。
 概要「鈴木警部がまず私に姓名、 住所から聞き始めた。私は答える必要がないので、口を開かなかった。特高どもは、見る見る顔色を変えて総立ちになった。『なめるなら、なめてみろ!』というなり、私の顔を殴り、髪の毛を手に巻いて引っ張り、足を上げて背中を蹴りつけた。なぐられっぱなしの私は頬がゆがみ、髪の毛はばりばと抜け、背筋の骨が痛む。竹刀を持ってきて私の頭を殴りつけた。三人の男どもはそれぞれに力を込めて、ふんだり、蹴ったり、殴りつけたりして、私を責め続けた。私は意識がくらんできた。(以下凌辱される下りがあるが略)。私は意識を失った。私が意識を取り戻すと、太股をこづき始めた。みるみるうちに、私の太股は赤くなり、はてはどすぐろくなって腫れ上がった。痛さに泣き叫ぶ私を面白そうに眺め、三人の特高は代わる代わる、三時間ぐらいこづき続けた。翌日もまた、同様の拷問を繰り返した。私は立ち上がることも、歩くことも出来なかった」。

 党員でなくてもこれぐらいの拷問がなされていたのであるとすれば、党員か朝鮮人活動家に対してなされた程度が想像されよう。小林多喜二の「1928. 3.15日」の文中はその実態を暴露した名著ではないのか。この当時皆なぶり殺しか気絶するまで激しい拷問がなされ続け、彼らの意に従うまで何日も続けられたというのが当時の関係者の一致して明らかにするところである。

 まして党の最高の地位にある中央委員ならどうなるか判りそうなものではないか。野呂の例を見てみよ う。野呂こそはと言うべきか最後まで調書を取らせなかったが、彼は明らかな肺炎性病弱を見せていたにも関わらず、各署をたらい廻しにされて厳しい取り調べを受けた。獄中で健康状態が急激に悪化し、流動食しか取ることが出来ないため、看守にオートミルを作らせ、移動する時は他の者に担いで貰わなければならぬほどだった。34年2.19日病状があまりに悪化したため、品川署から北品川病院に入院させるため運ばれたところで絶命した。32才の若さであった。

 もう一人、伊藤律の場合を見ておく。次のように記している。
 概要「私は逮捕され、東京・大崎署に連れて行かれてひどい拷問を受けた。部屋のカーテンを下ろして暗くし、頭の毛に麻縄を縛り付けて天井につるし、棍棒で殴った。さらに地面に倒し、靴のかかとで私の頭を踏みつけた。その時血が流れ、その血が目に入って、何も見えなくなった。その傷跡は今でも残っている。彼らの訊問は、まず第一に私の本姓本名を探り出すことだった。私は当時の党の規律に基づいて三日間は何も云わなかった。その日は激しい拷問を受けたため、立って歩くことができず、留置場に担ぎ込まれた」。

 宮顕は、この時の拷問の様子について次のように語っている。
 「特高課長毛利や特高警部の山県、中川らが来て、『世界一の警視庁の拷問を知らないか、知らしてやろうか』、『この間良い樫の棒があったからとってある』と云いながら、椅子の背に後ろ手にくくりつけ、腿を乱打する拷問を繰り返し、失神しそうになると水を掛けた。そして、『岩田や小林のように労農葬をやってもらいたいか』とうそぶきながら拷問を続けたが、私は一言もしゃべらなかった。歩けなくなった私を、看守が抱えて留置場に放りこんだ。12.26日で、監房の高い窓からは雪がしきりに吹き込んだ。一切の夜具もなく、拷問の痛みと寒さのため私は眠ることが出来なかった。

 その後も拷問は続けられたが、彼らは『長期戦でいくか』と言って、夜具も一切くれないで夜寝かせないという持久拷問に移った。外では皇太子誕生ということで提灯行列が続いていた。その頃、面会にきた母親が私の顔を見て『お前は変わったのう』とつぶやいたが、それは、私の顔が拷問ではれあがって、昔の息子の面影とすっかり変わっていたからだった」(宮本「私の50年史」.「日本共産党の65年」73〜74P)。

 私には具体性の乏しい反面脚色性の強い非常に嘘っぽい文章であるように思うが、これ以上は控えることにする。

 この時のことを宮顕はこうも語っている。「追憶談」(週刊読売)で次のように述べている。
 「 (彼の追憶によると)はじめは、猛烈な拷問を加えられたが、そのうち向こうが、『こいにつは何をやっても無駄だ』とあきらめて、持久戦に入った。寒中でも夜具を与えず、寒さで眠らさないような悪どい拷問に出てきた」。
 「それも一年ほどして切り抜けると、府中警察に、足錠、手錠をかけたままの姿で、二ヶ月置かれた」。
 「警察にいる期間は、ほとんど風呂にも入れず、本も全く読ませないで、一年間ただ座らされていた」。

 宮顕は、これを称して「原始野蛮による人間への持久拷問」と言っており、この記者も「信念のない者ならたちまち拘禁ノイローゼにかかり、警察側の思い通りにされてしまったことであろう」と妙な感心の仕方で提灯している。これでは宮顕が受けたそれの方が虐殺拷問よりしんどいみたいに受け止めてしまうではないか。宮顕の場合、他の多くの党員になされた虐殺もありえた即日拷問を、なぜ持久戦にまで持ち込みえたのかその丁々発止の様?を問う方が自然ではないのか。提灯持ちは何人いても役に立たない。

 ちなみに、宮顕が「こいにつは何をやっても無駄だと特高をあきらめさせた」などという話をまともに信じられる者は余ほどおめでたいと言うべきではなかろうか。この当時の取調べは史上極悪の官憲テロルが吹き荒れていた時代である。この当時取調べに屈した者は別にしても抵抗した者は例外なく岩田義道しかり、小林多喜二しかり虐殺された。「共産主義者は殺す一歩手前まで拷問して自白させ、共産党員としては生きていけない裏切り者に仕立て上げる」というのが特高の戦略・戦術であった。宮顕がこのテロルから逃れ出られる機会なぞ万に一つも無い。それをなぜ逃れえたのかを問う方が自然であるということを重ねて強調しておきたい。

 もう一つ加えておく。宮顕が云うように小畑がスパイだとして、ならば官憲側のスパイをリンチ致死させた宮顕に対する拷問はひたすら過酷なものになるのが予見できることではないか。それを「こいにつは何をやっても無駄だと特高をあきらめさせた」とは。冗談が過ぎよう。しかし、宮顕の弁明をそのままに受け取り、鋼鉄の意志を絶賛する者が後を絶たない。それも冗談が過ぎよう。

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 題名/ 赤旗のリンチ事件報告記事について
 宮顕が逮捕されたのが12.26日で、その翌日の12.27日付け赤旗紙面に東京市委員会書記局署名の「中央委員会による片野・古川断罪への革命的挨拶」なる特報が掲載された。次のようにリンチ事件を党内報告している。
 「我が党のポルシェヴィキ的政策を歪曲し、大衆との遊離を企て、少なくとも長期間にわたり、人民革命の旗を阻止し、数十万の勤労大衆を飢餓状態に停止せしめたものは片野古川香川を始めとする一連のスパイどもだ。多くの優れた同志を売り渡し、同志岩田、上田、小林を虐殺に手引きしたのは奴等だ。奴等の為に数百の同志が白テロに肉体を破壊されている。諸君!我が東京市委員会は、同志岩田、上田、小林の名に於いて、数百のテロと苦闘せる同志の名に於いて、断乎階級的裁断を要求するものである。

 ロシア革命に於いて、ポルシェヴィキ党中央委員会に巣食うスパイ・マリノフスキーは、プロレタリアートの憤怒と階級的裁断に依り死刑に処せられた。スパイ片野古川は我が党の破壊を企てたのみならず、コミンテルンにまで天皇制スパイの魔手を伸ばさんとした。俺達は断の一字を以て要求する。革命的憤怒を以て要求する。『死刑だ』!」。
(私論.私見) 

 ここに血祭りに挙げられている片野は大泉であり、古川は小畑のパーティーネームである。この文章が宮顕の手になるのかは不明であるが、この時既に革命的処刑をしていながら、後刻に予告文書を出すというアリバイ的発想は宮顕特有のものである。これを書き上げた後に当局の懐に入ったとも考えらられる。

 2006.5.22日 れんだいこ拝

 題名/ 大泉のその後について

 第8幕目のワンショット。もはや大泉の査問は中止されたも等しかった。12.25日の朝は、秋笹・木島・木俣の3人が二人ずつ交替でピストルを持って監視したようである。「大体二日に亘る取り調べの結果、我々の予期していた通りのスパイの確証を握り、警察のスパイ政策も大体に於いて聞知したので、これ以上大泉を追及する必要も無し、仮に追求しても党にとって必要な事実も新たに出ないと考え」(袴田16回調書)られたのである。

 私は、この点につき少々疑惑がある。この言いまわしに見られる悠長さは何なんだろう。この言い回しもまた、そもそもこのたびの査問が大泉には主たる目的が無く小畑の方にこそあったことを示唆しているのではなかろうかという疑惑である。故意か偶然かは別にして、小畑の殲滅がなされた以上、大泉はこの時点で厄介なお荷物になってしまったのではないかと推測する。

 それかどうか、大泉は、直ぐに放免するわけにもいかずという中途半端な状況に放置された。「ほとぼりが冷めて釈放しても党に被害が無いと云う見極めが付いた頃釈放することにし、それまで暫くどこかに監禁することに方針を決定したのであります」(袴田16回調書)とある。呼び出されていたハウスキーパーの熊沢は、奉仕した相手がスパイであることを知らされ、我が身を恥じた。12.30日頃から専門のピケとして林鐘年がやって来た。

 次のショット。袴田は次のように証言している。

 「監禁中大泉夫婦が自殺を申し出たので、中央委員会で協議の結果、その申し出を採用して自殺せしめる事になったのであります」、「大泉が自殺して死ねば事件の後始末も好都合に運ぶし、それによって党が新たに被害を受けると云う危険もありませぬでしたから、自殺するなら自殺させようと云う気持ちで自殺させることに決定したのであります」、「(熊沢が)大泉に繋がる縁で自殺しようと云うならどうでも勝手にするが良いという気持ちで大泉と共に自殺させる事になったのであります」(袴田16回調書)。

 こうして、大泉夫婦は心中を試みようとし始め、査問者側もそれを期待し、偽装自殺の「遺書」 まで書かせられることとなった。大泉にとって小畑殺害におびえた窮余の一策だったことになる。秋笹らがいろいろ注文付けて書き直させている。この経過につき、袴田は次のように証言している。

 「監禁中大泉夫婦が自殺を申し出たので、中央委員会で協議の結果、その申し出を採用して自殺せしめる事になった」(袴田16回調書)。
 「(熊沢の方はスパイである確証はなかったが−要約)大泉に繋がる縁で自殺しようと言うならどうでも勝手にするが良いという気持ちで、大泉と共に自殺させる事になったのであります」(袴田16回調書)。
 「私は、大泉夫婦に自殺させる場所の選定、その方法等はすべて木島に一任してありました」(袴田16回調書)。

 次のショット。1.9日頃からアジトを他に移すことに決定したようである。こうして、木島が目黒方面に一戸建てを借り受け、その新しいアジトに大泉夫婦の身柄を移すことを取り決めた。1.13日、熊沢が大泉の髭を剃ったり、洋服の塵を払ったりした。1.15日夜、殺害することを取り決め、1.14日夜、目黒の木島宅に移動させた。二階6畳の間に監禁した。木島・横山・林鐘年の3名で監視した。「いよいよ同人等が自殺を決行すると云うのでその前夜一緒に寝かせてやったと云う報告を受けました」(袴田16回調書)。この日の夜大泉と熊沢が逃亡の是非の相談をしていたことを明らかにしている(大泉17回調書)。ところが、熊沢が反対したためいよいよになると実行されなかった。

 翌1.15日午後、大泉は脱走に成功した。その経過はこうであった。袴田は次のように証言している。

 概要「木島も又見張り役として動員されていた林鐘年もアジトを出て居た留守に、大泉は木島のハウスキーパー横山操の監視の隙を窺い逃亡した。本来ならば当日木島は見張り役の林が所用の為外出する事を知って居り、木島自身も外出すれば後は当然横山一人となる事を知りながら外出してこの失態を惹起したのです」(袴田16回調書)。

 という不自然なものであった。この時木島と林はわざわざ大泉に聞こえるように出かけていくことを伝えており、仕組まれた芝居臭さがうかがえよう。この時か前の晩だったか木島のハウスキーパー横山操が大泉等に餞別の玉子丼をつくってご馳走している。

 この後大泉はトイレを口実に足縄を解かせ、結び直しの際に横山に組み付く事になる。横山を押さえ付けながら、大声で「人殺し」と数回叫んだ。熊沢が大泉の口を塞ごうとして逆に噛みつかれ、傷つけられた。おおよ そ30分ほど横山とピストルの争奪戦を繰り広げた。この間熊沢は呆然自失のていで傍観した。こうしているうちに巡査がやって来て横山を逮捕した。この後タクシーを拾って麻布鳥居坂署に駆け込むことになった、という。こうしてみると、大泉のこの一連の脱走劇は仕組まれたような逃げ出し方であるとも言えるであろう。「この失敗によって、木俣鈴子・林鐘年・横山操・大泉兼蔵・熊沢光子等は一網打尽的に検挙」(袴田16回調書)されることになった。


 次のショット。麻布鳥居坂警察署に着いた大泉の行動について、17回調書は次のように明らかにしている。大泉は、署に着くなり概要「自分は警視庁の人間だ。共産党の殺人事件が有る。警視庁特高課長を呼んでくれ」と要求した。 間もなく警視庁から庵谷警部以下数名の者がやって来た。簡単に事件の経過を説明し、小畑の査問死を始めとする諸事実を暴露した。興味深いことは、 予審判事の「被告人はその後警視庁の毛利特高課長に会ったか」という問いに対して、「私はそれきり会いません」と述べている。わざわざの設問のようにも見えるし、実際だったとしたらどういう事情によるのか不明であるが不思議なことである。

 次のショット。1.19日、麻布鳥居坂警察署に於いて警察医中村康が「検診書」(「中村検診書」.昭和9年1.19日付け)を作成している。この「検診書」 を一見して判ることは、小畑の遺体鑑定書に記載された内容に比して暴行的痕跡が妙に少ないことである。手足に縛創性痕跡がそれぞれ位置、径、長さ、特徴別に記されている。大泉は、「その通りか」と問う予審判事に対して 「その通り間違い有りません」と答えている。ただし、補足として概要「傷を受けてから20日以上も経過しており、又秋笹等が傷のアルコール消毒をしてくれたこともあり、そのお医者さんに見て貰った頃には治癒しその後だけが残っていました。その後3年以上経過した今日なおいろいろ後遺症が出ている」と陳述している。秋笹第二審判決文では、「大泉の手足に数カ所の縛創を蒙らしめ」とある。

 そのまま受け取れば、査問によって蒙った暴行は相当程度回復していたため「検診書」に記載されるほどのものでなくなっており、わずかに縛り跡傷が残っていた程度であったということである。大泉の暴行ハイライトシーンである「遂に錐であったか斧の峯の方で私の口の辺りを殴った為に前歯一本、奥歯一本が折れ、又斧の峯で頭を殴られた為か私の顔を伝って落ちるのを覚えました。又私の背中を斧で殴られたので気絶した様に思いますが判然しません」(大泉19回調書)中の前歯・奥歯の毀損についての所見はない。 中村医師が検診しなかったのか、大泉陳述が過剰であったのか判明しない。いずれにしても妙なことである。

 私は次のように推定している。大泉のこの部分の被暴行陳述は大泉が小畑死亡時に失神していたことを説明する下りで述べられていることを考えると、このシーン全体が失神経過を作為するための過剰陳述であったのではないかという可能性が考えられる。ということになると、大泉に対する極端な暴行シーンはこの部分以外には無いことからして、今回の「査問事件」の遂行意図とリンチ的暴行は、小畑にこそ照準が合わされ集中していたのではないのかということになる。そういう観点から調書を読み直していくと、実際宮顕−袴田ライ ンの訊問・暴行が主として小畑に向けられていた様子が見えてくる。逆に逸見のそれはほぼ大泉に向かっており、秋笹・木島のそれは気まぐれに双方に向けられているという構図が見えてくる。


 大泉の「検診書」の記載内容からこのたびの「査問事件」に暴行が極力無かったことを推測させることが可能であろうか。私は次のように考える。そういう見方も理論的には成立するが、実際にはやはり難しい。なぜなら、この後で考察することになるが、小畑の遺体に痕跡されている多数の被暴行的損傷(医学的所見から見て腐敗の進行とは認められない多数の痕跡)と胃袋内に内容物がないという絶食査問とか、これは触れられず見過ごされているところであるが指爪にリンチ跡らしきものがあるとかを考えると、小畑に対する暴行もまた 大泉程度のものであったとみなすことは困難である。むしろ、真相は小畑にリンチが集中していたのではないのか、大泉にも殴る蹴るはなされたであろうがかなり加減されていたのではなかろうか、という可能性が高いということになる。


 題名/ 事件露見、その大々的報道により戦前日共運動が壊滅的打撃を蒙る

 次のショット。大泉の駆け込みによって事件が明白となり、警視庁は直ちに捜査に入ることになった。同時に新聞発表され、各社は「赤色リンチ事件」として大々的に報道することになった。(宮顕はこの当時「白テロ」と認識していたようであるが、どういう位置づけによって「白テロ」としていたのかは解せない)

 昭和9年1.16、17、18日にかけて、朝日新聞を初めとする各紙は一斉に共産党の赤色リンチ事件なるものを報道した。当時の朝日新聞は、1.16日に 「共産党の私刑暴露/裏切り者惨殺さる」という見出しでまず事件の輪郭を伝え、1.17日には「殺された小畑達夫」と「私刑された大泉兼蔵」と「大泉の妻熊沢光子」の顔写真と共に、「加害者秋笹正之輔」と「秋笹の妻木俣鈴子」の顔写真が掲げられ、リンチ事件の首謀者として宮本顕治、秋笹正之輔の名前が挙げられた。

 報道の基調は、「このリンチが党中央部の指導権を握るためインテリ分子が労働者出身の者を排撃したのである」というものであった。この時の袴田の心情が次のように語られている。

 「1.16日各新聞の朝刊に右査問事件が発覚し、党の残酷なリンチ事件として報道されていたので非常に驚きました」(袴田16回調書)。
 「この事件が全国一斉に諸新聞に報道されたのでありますが、そこに表れたものは日本共産党は相次ぐ党員の検挙により、党内には疑心暗鬼が生じ且つ少数のインテリ分子が党中央の指導権を掌握せんとして反対分子を殺害したものであると云うことでありました」(袴田1回公判調書)。。
 「かく日本共産党は醜悪なる陰謀団体であると報道されたのを見たときは、私は例のブルジョワ新聞一流のデマと思っていたのであります」(袴田1回公判調書)。

 袴田がこの報道をデマと思う感性が頂けないが、「我々のやった事は決して個人的な野心からではなく日本共産党を真実プロレタリアートの前衛党とする為の不純分子の排撃であった」(袴田1回公判調書)として認識していた氏の事件が発覚した当日当時の様子が伝わってくる。袴田は、「その日の夕方木島と連絡した際に」前日の午後の大泉逃亡のあらましの報告を受けたという。

 こうして「小畑査問死事件」は、検挙された宮顕の取り調べの際に特高が、 「『これは共産党をデマる為に格好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる』と言って非常に満足した様な調子で我々に冷笑を浴びせて居た」とあるように、そのような意図の下に大々的に喧伝されていくことになり、実際にその後の党運動にはかりしれない衝撃を与え大打撃を蒙らしめることになった。

 これに対し、袴田は、いやそうではないのだ、「日本共産党を真実プロレタリアートの前衛党とする為の不純分子の排撃」闘争であったのだと言う。そう思わねば自身が納得できないほどに深く手を染めたということであろうが、実際は仮称「東京市委員会宮顕グループ」によるどす黒い党中央簒奪劇であったのではなかろうか。


 補足資料。平野謙・氏の「粛清とはなにか」(1957年)は次のように記している(「【かもめ】ふんどし先生クリニック【ワンカップ】の投稿bR596」より)。

 「1933年の暮れのわがリンチ共産党事件は、私自身にとってはひとつの躓(つまづ)きの石だった。党中央に潜入していた小畑なにがしをスパイ容疑で査問委員会にかけている途中、リンチのため死にいたらしめたという当時の新聞発表は、私に電撃的な印象を与えた。当時、私は宮本顕治を文芸評論家としてもつとも高く評価していたが、その宮本ともあろう人が、たとえ切迫した査問委員会の席上だったとはいえ、リンチというような手段に訴えたことを到底私は是認することができなかった。私は新聞発表とともに小畑のスパイであったことをほとんど全く疑わなかった。しかし、それとは別に私はリンチという手段をどうしても是認する気に離れなかったのである。小畑の死がショック死だったことを知ったのは戦後しばらくたってからだった」。

 平野氏のこの指摘は、「当時の新聞発表は、私に電撃的な印象を与えた」、「たとえ切迫した査問委員会の席上だったとはいえ、リンチというような手段に訴えたことを到底私は是認することができなかった」という感性のまともさに値打ちがある。リンチ事件は本来この観点から把握されねばならない。

 つまり、戦前日共党運動に於ける壊滅的悪作用を蒙らしめた事件であったこと、それが宮顕派の仕業であったこと、何ら正当な手続きを踏まない姑息卑怯野蛮無慈悲な遣り口での党内査問により、党の最高指導者である僅か5名のうちの1人の党中央委員がリンチ致死せしめられたことに特質が認められる。これらの不義を告発せねばならない。これが事件総括の基本姿勢となるべきであろう。

 しかし、平野氏には事大主義が終生付き纏う。事件直後は宮顕派党中央による小畑スパイプロパガンダの虚実を疑っておらず、戦後は「小畑の死がショック死だったことを知ったのは戦後しばらくたってからだった」とあるように、又しても宮顕派党中央による小畑ショック死プロパガンダの虚実を疑っていないことに認められる。評論家の眼力としてはあまりにも暗愚であるが、こういう手合いが多過ぎる。

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 題名/ 小畑の遺体の発見と司法解剖鑑定結果について

 第9幕目のワンショット。こうして小畑の遺体が発掘されることになったが、その時の状況について次のように明らかにされている。小林五郎が書いた「特高警察秘録」(昭和27年7月に生活新社から出版)に次のように書かれているということである。

 「玄関の次の部屋の畳を上げて見ると、新しい釘が打ち付けてある。素人が慌てて打ったらしく、曲げて打たれている。ねだを上げたが土を掘るものがない。土は柔らかい。勝手元から木炭用の十能を見つけて少し掘ってみるとシャベルが出てきた。シャベルで三尺程掘ると、むき出しの人間の膝が先ず現れた」。

 当時の新聞報道第一報(1.16日)では、小畑の死因は「絞殺死」(窒息死)と断定されていたとのことである。現場で視認した警察医務官がそのように判断したということであったと思われる。ところが、翌1.17日新聞では、「撲殺」とある。不自然であるが、木俣鈴子が薪割りで小畑の頭部を殴りつけ、それが致命傷になったと書かれている。どういう事情で木俣が実行犯にされたのか定かでないが、ここも胡散臭いところである。翌1.18日新聞は「脳震盪」と更に死因を変更している。この経過は、「絞殺死」(窒息死)ではないとする方向に誘導されていることが分かる。

 この時の小畑の遺体の検診書が残されている。「村上次男及び宮永学而協 同作成に係る小畑達夫に対する死体解剖検査記録並びに鑑定書」(以下、「村上・宮永鑑定書」と略す、昭和9年1.30日検診)がそれである。他に8年後の昭和17年6.3日に古畑種基作成の鑑定書(以下、「古畑鑑定書」と略す)が出されている。両鑑定書の医学的解説をする力は私にはないので、素人の私が判る範囲で大筋のところを整理してみる。

 ところで、「古畑鑑定書」の出された時期が秋笹第二審判決(昭和17年7.18日)直前であることは判るが、その他の被告人判決との絡みとか宮顕の公判の接近との絡みが今一つ解明できない。私の手元に資料がないということであるが、どなたかこのあたりの事情をお伝えしていただければ助かります。それと宮顕お気に入りの鑑定書も出されていると聞いていますので、内容付きで合わせてお伝えしていただければ助かります。(これは「中田鑑定書」であるが末尾に補足した)

 一応ここで私なりに「宮永、村上鑑定書」に目を通して見ることにする。判る範囲で両鑑定書の鑑定評価とそれぞれの特徴を解析することにする。ここをしっかり確認しておかないと、宮顕の弁論はいつも巧妙なので、概要「『宮永、村上鑑定書』は、小畑の死因についても『警察べったり』であり、『でたらめな 鑑定』であるとか、『私たちの反対尋問になんらまともな答えができなかった』 とか云われているものである」という語りを真に受けてしまうことになる。


 
この宮顕論法を踏襲して、宮顕のお茶坊主小林栄三が、「犬は吠えても、歴史は進む」文中で、宮永鑑定人に対して「この宮永は、かって15歳の少年の死体を警察の云うままに50歳の成人男子として鑑定したほど警察べったりの人物であった」と意図的に誹謗しており、その真意はそういう鑑定人によって作成された「村上・宮永鑑定書」の信頼性を毀損せしめようとしていることにあるものと察することができる。

 ところが、小林栄三のこの言説を追及した加周義也氏は、著書「リンチ事件の研究」で、これは1928年8.19日に東京千住で起きた「醤油屋一家殺し事件」を指しており、宮永鑑定人の鑑定に対する誹謗中傷であることを解明している。同書は、宮永鑑定人は「警察べったり」とか「でたらめな鑑定」をした訳ではなかったことを明らかにしている。

 ということは、宮顕やその意向を組む小林栄三らの件の発言は、極めて悪質得手勝手な人格中傷的名誉毀損的な問題発言であることが知られることになる。共産党中央の人士がかような人格レベルの者に牛耳られているということを確認する必要があるであろう。


 宮顕話法にかかっては、批判されている当のものを熟知していなかったらすっかりその気にさせられてしまうという、狡知術的な罠が敷かれているからして、先入観抜きに踏みいらねばならない。「日本共産党の研究三.285P」を参照する。

 やはり聞くと見るとでは大違いであった。鑑定人の宮永学而と村上次男は、東京地方裁判所医務嘱託医師であったようで、同鑑定書は、昭和9年1.30日に非常に精密に小畑の遺体について書き記している。冒頭次のように記されている。

 「今日午前10時30分より、東京帝国大学医学部法医学教室解剖場に於いて、同予審判事裁判所書記渡部正志、検事戸沢重雄立ち会いの上、村上次男執刀、宮永学而補助これを解剖するに、その所見左の如し」。

 補足すれば、執刀者村上博士は、この時の所見に対し、次のように述べている。

 「私は永年にわたる大学生活の中で、警察や外部からの圧力によって、法医学者としての節を曲げたことなど、ただの一度もありません。この件についても、もちろん同じことです。云われるような特高の圧力など、一切ありませんでした」。

村上氏は後年東北大学医学部名誉教授となり、東北地方でのんびり余生を過ごしていた。その頃の述懐である。

 私はこうした医学的且つ専門的な用語を理解する力がないので、「暴行」と「死因」に関する目についた理解し易いところを書き出してみることにする。同鑑定書はまず、小畑の遺体が死後20日以上(実際には24日)を経過しており、遺体に土砂が付着し汚染されており、体表面の一部にはかびが発生しており、皮膚の表皮のみならずその下部の真皮まで露出する等損傷が有り、そういう状態での鑑定であることを冒頭で明記している。つまり、「本屍の解剖の当時は死後変化がかなり顕著に現れていた」(古畑鑑定書)ということであり、暴行的損傷か腐敗的損傷かまでは判りにくい部分もあったということであろう。

 次に、体の頭部より下肢に至る部位ごとの解剖時の状態とその損傷、出血ないし血流の様子別に詳細に鑑定をしている。次に、体の内景鑑定に移り、頭蓋骨及び脳から各内臓器の解剖時の状態とその損傷、出血ないし血流の様子別に詳細に鑑定をしている(恐らく、当の鑑定が日本共産党の中枢幹部の奇異な変死事件であることを踏まえて、後日に問題を生じぬよう余程留意しつつ解剖し鑑定したのではないかと思われるほどの精密なものとなっている。

 そこまで留意しつつ鑑定しても「でたらめな鑑定」 呼ばわりされてしまったが。私のこの言い方が不審であれば、実際に目を通されるよう希望する)。以上を踏まえて、説明の項目にて暴力と死因に関係した内容を抽出し、最後に鑑定の項目で死因を特定するという、おおよそ模範的とも言える学問的手法で鑑定している。

 「宮永、村上鑑定書」の真の意義は、小畑の遺体に実際に接したのはこの両名の鑑定人のみであることによる小畑の遺体の具体的な所見部分にこそある。繰り返すが、余程優秀な医師でもあったのであろうが、後日の争いの元にならぬよう精密を極めた検査をしている。その内容を記したいがとてもではない専門的な分析であるということと、かなり長大なものであることにより紙数が足りなくなる。今日においても、この解剖検査記録のほうは、別に「特高の筋書きに従って」、「ない傷をあるとしたわけではなく」、袴田も「解剖の事実にはあまりウソを書いていない」、「解剖の調書にはどこの部分がどうなっているかということは明白に書いてある」と証言している当のものである。

 従って、詳細は「日本共産党の研究三.285P」に各自で目を通していただくとして、私なりに意外に論議されていないにも関わらず重要と思われる事項を抽出してみる。

 第一点、食物与えず査問
 概要「胃は、小にしてその襞厚く、内に食物残滓を含有せず」とある。

(私論.私見)

 つまり、小畑は腹ぺこ絶食状態に置かれていたことを指摘していることになる。「食事を供せず」の被告人陳述が具体的に裏付けられているということである。

 第二点、指先リンチ
 概要「左右の指爪及び跡爪は著しく深く煎断せられて、爪床面の前側を露出し、左右の拇指(おや指)端にありては淡赤色にして血液を滲潤す。かく状態は普通の場合多く見ざるところなり」とある他、人差し指、中指等にもほぼ同様の出血・変色・深く煎断した爪跡について記載されている。
(私論.私見)

 つまり、「指先リンチ」の可能性があると指摘しているということになる。事件関係者の誰からの陳述にも「指先リンチ」の指摘がなかったことを考えると、このたびの「査問事件」にはまだまだ隠されたリンチの様子があるのではないのかということになる。

 思うに、実際のリンチはもっと凄惨なものではなかったかとさえ思わせられる。仮に「指先リンチ」について陳述が為されていたとしたら、暴行があったいやなかったの応酬は無意味なことになる。こういう大事な陳述が予審判事によって引き出されていない作為をこそ見て取らねばならいように思う。他の部分にも同様な記述が見られるが、例え出血とか異常の有無の記載を転記してみても水掛け論にされてしまうであろうからこれら二点に注意を喚起しておくことにする。

 「宮永、村上鑑定書」はこうしたおおよそ詳細な鑑定に基づき、次のように鑑定した。

 概要「これら出血は、本死の生前の顔面前ひたい部及び頭部に鈍体の強く作用したる証拠とす」。
 「脳内損傷のあれこれは暴力の結果とす」。
 「心臓並びに大血管内の血液は流動性にして急死の像を呈す」。
 「かく暴力は、『脳しんとう』を惹起し、『急性死』に致すに足るものとす」。
 「首の鑑定については、外表所見のみにては判断し難し」。
 「胸部において約あずき大の淡紫色、腹部において約だいず大の淡赤色、変色部あり」。
 「その他背面部、指、下肢等にいずれも出血を伴なうを認める。すなわち、これらの表皮剥離並びに皮下出血もまた本屍の生前の鈍体によりて生じたるものとす」。
 「本屍の生前に布の類、紐の類をもって緊縛したるものと認める」。

 この詳細な「宮永、村上鑑定書」を受けて「古畑鑑定書」は次のように纏めている。

 「被害者小畑達夫の死体顔面前ひたい部、頭部、胸 部、上肢、下肢及びその他に大小多数の皮膚変色部、表皮剥脱、皮下出血、 筋肉間出血、骨膜下の出血等があり、又頭蓋腔内において約鶏卵2倍大、ク ルミ大薄層の硬脳膜下出血、約クルミ大、エン豆大各一個の軟脳膜下出血、 左右同頭蓋カに約クルミ大の部分にだいず大数個、左右○○骨岩様部にあずき大数個の骨質間出血があったよしである。又心臓並びに大血管内の血液は流動性であったと云う」。

 後の絡みでここで補足しておけば、以上のような鑑定所見に対して、宮顕は、「小畑の身体にあったという軽微な損傷というものが事実とすれば、それは大部分彼が逃亡をこころみて頭その他で壁に穴をあけようと努力した自傷行為とみなされる」とコメントしている。この「宮永、村上鑑定書」から「相当な暴行跡」を読みとるのか「軽微な損傷」と読みとるのか、 同じ文面を見て人は判断が違うということになるようである。

 こうなると法医学医師と国語の読解力の講師連合で説明して貰わねばなるまい。それと、仮に宮顕発言に従って小畑が自傷行為をしたとしても、小畑は手縄・足縄・猿ぐつわのままどうやって逃亡しうるのだろう、小畑はそれさえ判らずめくら滅法押入内で暴れたのだろうか。小畑殺害に関与したのみならず、こういう物言いで死人を更に愚弄しようとする宮顕って一体どういう御仁なんだろう。そういう詐術で我々を煙に巻こうとする物言い根性が不埒である、と私は思う。


 「宮永、村上鑑定書」は以上のように所見した上で、「本屍の死因は、頭部に加わりたる暴力による『脳しんとう』と認める」のが相当とした。これが最初の死因鑑定となった。こうして「宮永、村上鑑定書」は小畑の死因を「脳しんとう死」とする判定を法廷に提出するところとなった。

 この「脳しんとう死」をめぐって、袴田の第一審公判法廷で、鑑定人宮永と被告人らが鑑定結果をめぐって争ったようで、袴田は次のように陳述している。

 「デタラメな鑑定をした最初の鑑定人が法廷に出たとき、私が彼にたいして、そのデタラメさを指摘し、追及したときに、彼は最初からひじょうに興奮して共産党員なんかと口をきくものかといわんばかりの態度でした。かんで吐き出すように、一言二言いっただけで、あとはわたしのいうことに返事もしない態度でした」。

 「宮永が私たちの反対尋問になんらまともな答えができなかった」と袴田は記述している。この時の主張の真意は、概要「解剖の事実にはあまりウソを書いていないが、結論部分の『脳しんとう』鑑定が『木に竹をついだようなデタラメな結論』をくだしており、『思想検事や特高警察のいいなりになって書いたもの』であり、殺人罪として起訴しようとする不当なものである」と指摘したかったようである。

 次のワンショット。その後のつなぎの経過は良く判らないが、こうして、袴田ら被告人は、最初の鑑定結果から8年後に、新鑑定人として東京帝国大学医学部教授であり法医学教室主任であった古畑氏を登場せしめることに成功したようである。この古畑氏の登場は被告人側の法廷闘争の結果のそれであるというほど単純ではないと思うが、推測部分になるので差し控えることにする。

 その政治的意味は、殺人罪で起訴されることを結果する「宮永、村上鑑定書」 を到底容認できないという立場からの被告人による新たな鑑定要求が裁判長に受け入れられ、その結果新鑑定人として古畑氏に白羽の矢が当たり、これを裁判長が認めたということにある。(この新鑑定人の登場につき云える事は、「査問事件」に関して暴力は無かった説の者が得手として主張する「暗黒」法廷にしてはなかなか物わかりが良いではないか、と思う。一体どこまでが「暗黒」で司法の「健全さ」になるのだろう。暴力なかった派の人たちは、この辺りを解析して見せて欲しい)。

 話が横滑りするが、「暗黒」に関しては私は次のように思う。戦前の法制度が全て「暗黒」であったとか、江戸時代が厳しい統制社会一色であったとかみなすのは少々漫画過ぎるのではないのか。いずれの当時にあっても「時代の器」の中で人は懸命賢明に仕事をしているのであって、やはりある種その人次第の裁量の部分もあって、「お上」といえども現場においては当時も今も仕事は仕事としてきっちりこなす人もいれば逆の人もおり、情実に弱い人もいれば当局におもねる人もいるというのが実際であって、それらの一切の最終結論が、この場合は予審判事・鑑定人であるが、実効部分について当局奥の院からの最高指示が出された場合、これには従わねばならないという政治的組織的解決傾向にあるというのが歴史の実際ではないかと思う。


 
言いたいことは、宮顕流の片や絶対善対片や絶対悪との対立という「二元的な暗黒」史観は、現場の実際を知らない者の単に御都合主義史観であって、マルクス主義的歴史観はそうは平板なものではないと思う。ところが、宮顕は自身の無罪を引き出すために公式的な暗黒史観を編み出すことを余儀なくされた。この観点が、宮顕の党中央簒奪によってますます強められ、はるか今日まで呪縛されることになった。共産党系のインテリ族による歴史観が薄っぺらな公式的批判主義であることが明白になりつつあるが、その端源がここから発しているとみなすことは牽強付会だろうか、必ずしもそうではないと私は思っている。「リンチ事件」の汚染現象として見直される必要があるのではなかろうか。

 さて、古畑鑑定人は、鑑定に当たってまずは法廷に登場したようでもある。 その際袴田から「共産党、共産党員にたいする先入観によらないで、あなたはあくまで学者として科学的にこれを検討して結論を出してもらいたい」との依頼を受け、それに対し古畑氏は、次のように返答している。

 概要「私のほうになかば向いて、たいへんに紳士らしい態度で聞き、あなたのいわれることはよくわかりました。わたしは先入観やそういうものでこういう問題を検討しようとするものではありません」。

 袴田はこの時の印象を次のように記している。

 概要「わたしはこの古畑氏と前の宮永鑑定人とくらべて、同じ学者でありながら、こうも態度がちがうものかと思いました。古畑氏のわたしの裁判の鑑定人としての態度は一審の鑑定人とくらべてひじょうに違った」。

 次のワンショット。こうして、古畑種基医師による再鑑定がおこなわれることになった。既に8年の月日が経過してはいるものの、「宮永、村上鑑定書」には詳細な解剖所見が記載されていたので再鑑定されるに充分なものであったということになる。袴田にも「少しもさしつかえなかった」と認知されている。古畑医師は、昭和17年4.30日鑑定に着手し、同年6.3日に終了し、約1ヶ月所要していわゆる「古畑鑑定書」を作成し法廷に提出することとなった。

 概要「先の鑑定書が、『本件被害者小畑達夫の死亡当時の状況に基づく』点が弱かったので、これに留意しつつ『許可せられたる鑑定資料を閲読して本件の概要を知るたる上、鑑定事項につきそれぞれ熟考按の上、本鑑定書を作成しました』」と冒頭で述べている。なるほど、「宮永、村上鑑定書」は、遺体発見時直後に解剖所見を出した関係で、「査問事件」の全貌が判らぬままに、遺体に痕跡している暴行的様子をそのまま直接的に死因に結びつけたという鑑定上の欠陥があったようにも思われる。しかし、このことは宮永、村上両医師が不誠実ないい加減な人物であったとは思えない。「査問事件」の経過も判らないままに解剖所見を出せと言われて無理矢理鑑定すれば、「脳しんとう死」を結論せざるをえないほどのおびただしい暴行の後があったというのが真相ではなかったかと、私は受け止めている。

 同時に、この時点では、当局奥の院の御都合が「日本共産党内党中央の凄惨なリンチ事件」を世間に喧伝することに重点があり、こうした鑑定結果は好ましいものでもあったということでもあろう。この点につき「古畑鑑定書」作成時には、ほぼ「査問事件」の全貌と小畑死亡時の調書が出されていた時点であったから、古畑鑑定人は遺体の痕跡に認められる暴行跡をそのまま小畑の死因に結びつける間違いは起こさなくて済んだという事情があったように思われる。同時に既に党中央壊滅後であったから「日本共産党内党中央の凄惨なリンチ事件」の喧伝に力を入れる必要も無くなった、という背景もあったものと思われる。

 こうして「古畑鑑定書」は、まず「宮永鑑定書」の損傷鑑定部分に対して、「上述の変化の大部分は同被害者の生前暴行を受けた結果生じたものと推測せられます」とした。続いて「ここに於いて小畑達夫の死因として、『脳しんとう 死』と『絞頸死』と『ショック死』が問題となって来ます」とした上で、「脳しんとう死」の可能性に対しては、「本件においては、頭部にかかる強大な鈍力が作用したと言う証拠がありませんから、本件被害者の死因としては『脳しんとう』 は適当しません」とした。「絞頸死」の可能性に対しては、「前記索溝を絞溝と確定するだけの確かな証拠が無く、且つ本屍には『絞殺死』に見られる病状が顕著に現れていません。よって本屍の死因を『絞頸死』と見るにはその根拠がかなり薄弱であります」とした。

 以上から考えられることとして、「本件に於いては、被害者は肉体的にいろいろの外力の作用を蒙って居たこと、空腹、渇きの状態にあった事、精神的苦悶(脅迫、暴行によって)を受けていたと思われる事、且つ死亡の直前に於いては、壮年の男子4名と必死の格闘を為し、その間絶えず大声を出していたと言う事により、肉体的にも精神的にも疲労困憊状態にあったと認められる事等は、『虚脱死』を起こすことを容易ならしめる様な状態にあったものと推測せられます。私は、本件の被害者小畑達夫の死は私たちの言うところの『虚脱死』であると考えます。但し、これは従来『外傷性ショック死』と称せられていたものと同義のものであります」とした。こうして 「古畑鑑定書」は、「外傷性ショック死」判定を行った。

 こうして、古畑鑑定によって「宮永、村上鑑定書」の「脳しんとう死」鑑定がくつがえされたことになった。この鑑定結果の違いは、はじめの「村上・宮永鑑 定書」の「脳しんとう死」判定は殺人罪につながり、「古畑鑑定書」の「外傷性ショック死(虚脱死)」の判定は傷害致死罪につながるという意味で大きな訴因事由の変更につながることを意味していた。

 この鑑定結果に対して、袴田は次のように述べている。

 「同僚ともいえる人の鑑定を否定する結論を出すわけですから、やはり勇気がいったと思います。しかも、戦争がひどくなり、日本が戦時体制にはいり、暗黒な反動の真最中におこなわれている日本共産党の幹部にたいする裁判で、その裁判の鑑定人に指定され、それを引き受けて、前の鑑定人とまったくちがう、学問的に良心的な鑑定書を書くということは、わたしにたいして公判廷であらわした態度ともあわせて考えてみて、ほんとうに学者として、良心的な人だと思います」。

 ここは非常に大事なセンテンスなので別段落で確認する。古畑鑑定は、概要「暴行、空腹、渇き、精神的苦悶、格闘」等の具体的事由を挙げて「外傷性ショック死」と鑑定しているということである。にも関わらず、ここの部分が袴田・宮顕により、あたかも古畑鑑定が漠然とした「ショック死」を鑑定結果させていたかのような詐術が行われることになるので、あえて段落替えで明示した。次稿で、この新鑑定結果に対して、袴田と宮顕がどういう態度を取ったかを見ていくことにする。

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 【題名/ 両鑑定書に対する袴田と宮顕の対応ぶりについて

 この新鑑定結果に対して、袴田がどういう態度を取ったかを最初に見ることにする。簡略にまとめるとかく述べているようである。曰く、概要「 古畑鑑定書は全部がそうだというわけではないが、基本的には私の結論と同じものでした」と言う。つまり、この前半部分では「古畑鑑定書」に対して「基本的には私の結論と同じ」とこれを評価していることが判る。これが本来の袴田の了解の仕方であったものと思われる。

 ところが、この後から論調が急にカーブ し始める。曰く、概要「なぐって『脳しんとう』を起こさせたとすれば、それだけの傷痕が残っていなければならない。ところが小畑達夫の頭をしさいに解剖した調書を見ても、そういうものはない。だからこれは『脳しんとう』を起こして死んだのではない」と言う。かなり歪曲話法ではあるががまんして聞くことにする。 曰く、「心臓その他の臓器を調べてみると、心臓は肥大し、膵臓その他も厚い脂肪の層でとりかこまれているおり、心臓の内部にまで脂肪がはいりこんでいて、その結果、心臓肥大ということになっている。心臓や内臓に脂肪がはいりこんでいる、こういう状態は、酒を大量に飲む人のなかに見られる。また、病的に心臓肥大した結果としてそういうこともある。そういうことが再鑑定には書いてある。たしかにスパイの小畑というのは、大の酒くらいで太っていた。こういう心臓をもった人は、突然人からどなられたり、なにかで驚いたりすると、『ショ ック死』することもある。だから脂肪の原因は『ショック死』である、とそう書いてあるんです」とある。

 「脂肪の原因は『ショック死』である、とそう書いてあるんです」というこの表現は文章になっていない。これから訳の分からないことを言い繕うぞという兆しであろう。曰く、「ですから、私たちが殺人とか傷害を加えて死亡にいたらしめたということは、まったく事実無根であることが証明されたわけです。こうして控訴の公判では殺人という罪名は消えた。殺人未遂というのも消えました。しかし、また傷害致死という不当な罪名をきせられ、一審より二年けずられたが、懲役13年という判決を受けました」とある。

 あららっ、「事実無根」で「傷害致死という不当な罪名」をきせられとでも受け取れるような調法な言い方で煙に巻かれてしまった。この論旨展開はどこかで聞いたことがある。ソウカ、宮顕さんの検閲を受けていたということだな。一目瞭然だよ。ただし、宮顕は同じセンテンスで「梅毒」を持ち出したが、袴田はそれは余りにもと思ったのだろう、「酒飲み特有の脂肪肥満」を要因とする「内因性ショック死」を暗示させるという違いを見せてはいる。


 さて、それではこれらの両鑑定書に対して宮顕はどう公判陳述をしたのかを見ていくことにする。その前に、この陳述には内容以前の不思議なことがあることを最初に指摘しておく。つまり、宮顕の陳述を聞けば、既述したところではあるが、自らの予審尋問調書一切を取らせなかったのに関わらず、逸見・袴田・秋笹ら皆の調書一切に目を通しており、そればかりか袴田調書批判の中で「査問状況に関しては不正確な陳述がある。上告審までの間にかなり訂正のあとはみえるが、なお根本的に是正されていない」とあるように、逐一調書内容の訂正の動きまで把握していたようである。

 更にはこの稿で関係する両鑑定書のみならず関連した医学書にまで精通していることが自ずと知れることになる。一般に、被告人にもそういう機会が与えられることを私は肯定するが、 当時の裁判制度下にあっては珍奇な現象なのではなかったか、と思う。

 この点につき、袴田が、医学書につき宮本百合子の差し入れが重宝であったと何気なく書いている箇所に出くわしたので、そういうことであったのであろう。しかし、そういう該当著書の存在について宮顕は誰から知恵を得たのだろう。それと、氏名も告げぬ非転向党員に対して、当時の裁判所がそれほど寛容であったということ自体虚構無しには有り得ないように思われる。宮顕を精査していけばいくほど、「暗黒警察・司法」であった筈の機関が宮顕に限りフリーハンドであった様が知られてくる。私が宮顕を胡散臭いと断定する所以のところである。

 小畑中央委員の変死事件に対して現場を再現することは裁判所の当然の責務である。これを廻って各被告の陳述が微妙に違っており、唯一人「一切の暴力は無く平穏に進めていたところ特異体質でショック死した」と他の被告とのそれと際立って異なる弁明をしている宮顕に限って、他の被告人とのやり取りにおいて、自分の手の内を明かさず相手の手の内を読みとれるとしたら、いかほどか優位に弁論することが出来よう。

 他の被告も同じ様な機会に恵まれていたのかという疑問と、一堂に会させて訊問すれば余程真実を明らかにしえたであろうに、なぜそうした統一公判式の法廷にならなかったのだろう(真実解明のためかどうか新鑑定人まで用意した裁判長がなぜそのように指揮しなかったんだろう、偶然かどうかこの時宮顕は持病により重態にあったとされており従って統一公判が為されていない、百合子の面会もこの局面に限って拒絶されているが不自然極まりない)、と疑惑を最初に述べておきたい。

 以下、宮顕が喋りすぎて思わずボロを出している様をうかがうことにする。もっとも蓋然性の高い「外傷性ショック死」について縷々述べれば良いと思うが、ひとしきり「脳しんとう死」の否定講釈を聞かされ、最後の方でやっと僅かに「外傷性ショック死」の否定論拠を聞かされるという姑息な論旨展開になっている。


 宮顕の「第五回公判調書」陳述を解析する。まず「宮永、村上鑑定書」に対 して次のように言う。曰く、概要「特に宮永鑑定人は、『脳しんとう』による死亡と断定し、斧かなんかで殴ったのであると斧を推定し、『脳しんとう』以外の死因については考える必要がない」と述べたと断定的に言いなす。実際に宮永鑑定人が法廷でそのようにいっているのかどうか私の調べは出来ていない。「『脳しんと う』以外の死因については考える必要がない」とまで本当に言い切っているのであろうか。「宮永、村上鑑定書」中にはそのような記述は無い。お得意の詐術ではないか、と私は思っている。

 こうして、宮顕は、この「脳しんとう死」所見に対して、当時の情況を自己流に説明しながら、曰く、「宮永鑑定人は、その当時の状況を全然しらないのでだいたい想像に基づいて鑑定したものであると考える」、「全体的に宮永、村上両鑑定人の鑑定は頭から『脳しんとう』の予断をもって鑑定し、小畑の体質につき詳細な検討をしていない」、「宮永鑑定人の断定は疎漏である」と反論する。

 このような結論を出す経過の文章は、どちらが医師かわからぬ程の専門用語を駆使しながら知識を弄ぶ。別にそれを悪いというのではないが、一体独房にあって文芸畑の宮顕がどうしてこのような博識な知識をえたんだろうか、とその方にこそ関心が向いてしまう。百合子による差し入れ医学書によって知識を得たにせよ、背後の知恵者の存在を窺うのは穿ちすぎであろうか。実際の言い様を紹介したいが煩雑になるので略す。ご不審があれば各自でお調べいただきたいと思う。


 次に古畑鑑定人の鑑定について、宮顕は次のように云う。曰く、概要「『古畑鑑定書』は『宮永鑑定書』にくらべると是正され真実にちかく、結論として『ショック死』を断定している」と、新鑑定が「脳しんとう死」その他殺人罪が問われることになりかねない死因を退けて、傷害致死罪に繋がる「ショック死」を考慮したことが偉いと言う。既述したところであるが、古畑鑑定書は、文中で確かに 「ショック死」の学問的吟味をしている。

 その後でこの度の小畑の死因としては 「外傷性ショック死」を鑑定しているというのが実際である。それをわざわざ単に「ショック死」との記述部分だけを取り出してお得意の歪曲すり替え話法へと誘おうとする。こうした下地を準備した後に、曰く、「政治犯人に何等の好意を持たない鑑定医さえ、『脳しんとう』を起こすような損傷も打撃もないと証明して 『ショック死』と推定した」のだと言い切る。

 事実はこうだ。古畑鑑定人は、「良心」に従い殺人罪につながる「脳しんとう死」を否定した。同時に同じ「良心」に従い傷害致死罪につながる「外傷性ショック死」を鑑定した。ここまでが被告人達の意向に歩み寄れる氏の「学者的良心」の精一杯のところであった、と私は推定する。


 結局のところ、「古畑鑑定書」もこれ以上の意味役割を果たさなかったから、 こうなってしまっては宮顕は自力で冤罪説の構築に向かわなければならないことになった。曰く、「一応前者の鑑定の曖昧な点が是正されているが、後者の鑑定についても考察すべき問題がある」として、傷害致死罪をもたらすような鑑定もまだ本人の意に添わないという。「その鑑定書を読んでみると小畑は 『ショック死』を起こしやすい体質であるということがよくわかる。すなわち、実質性臓器に脂肪沈着あり胸腺残存しおり、『ショック死』をおこしやすい体質であることが同鑑定書の16,17,19,24の記載で明らかである。また小畑の心臓に粟粒大の肥厚斑数個あるとの記載があるが、これは梅毒性体質の特徴で『脳しんとう』類似の症状によって急死することがあると法医学者も説いている。しかるにその点をよく考察せず、当時新聞で騒ぎ立て事件を誇大に報道した雰囲気に押され、学者的冷静と忠実を失ってしまったと思う」と言う。

 宮顕の手に掛かってはとうとう古畑鑑定人も「学者的冷静と忠実を失ってしまった」 御用人物にされてしまった。宮顕のような御仁に気に入ってもらうためには、言いなりにならない限りいかようにも叩かれることが判る。


 曰く、「『傷害致死』という罪名について見るに…とくに重大な損傷のなかったことは鑑定書さえ証明したのであるから、この罪名も結局、変節者の陳述によって推定的に加えられたものに過ぎない」、曰く、概要「『ショック死』とは、死にいたるような特別の病変なくして突然心臓の停止にいたるもので、軽微な原因でも容易に死にいたることも考えられ、特異の体質の者が『ショック死』をおこすことは大いにありえるのである」と言う。小南又一郎著『実用法医学』、三田定則著『法医学』の当該箇所を参照してもこの点明白であると言う。「古畑鑑定人は神経過敏の者とか、不安定の者は『ショック死』をおこしやすいといっている」ではないかと言う。

 宮顕は、こうして、学者に対しては学者の権威をぶつけながら「内因性ショック死」の可能性を頻りに説いて聞かせる。とはいえ、 古畑鑑定人の鑑定の都合の良いところの「ショック死」という言葉だけを上手に引き出しただけであることが容易に見て取れるしろものでしかない。


 以上ひとしきり煙幕を張ってから、何を言おうとしているのかと見ていくと、曰く、概要「古畑鑑定の説明にはまだ充分でないところがあり、具体的にとくに小畑の体質について検討をおこたっている点は、宮永鑑定人と同様であり、ただ 一般の場合として左様な体質を有する者は先天的に『虚脱死』をおこしやすい素因をもっているというにとどまり、その結果説明の主点を疲労や精神的苦痛においている」と言う。

 つまり、「古畑鑑定書」が「ショック死」を推測したのは良いが、その要因として「疲労」や「苦痛」という具体的要因を挙げているのがけしからんというわけである。結局ここに戻らざるをえないと言うことでもあろう。しかし宮顕もさすがの人である。「疲労」や「苦痛」という具体的要因が存在しなかったという論証に自ら向かおうとする。並の精神の人では出来ない。これをどのように言いなすかみてみよう。いかにも宮顕らしい話法が聞こえてくる。

 曰く、概要「小畑の場合には、苦悶らしい声も出さず」(ボソボソ)猿ぐつわでどうやって声を出すのだ。「のみならずその間隙をみて逃亡さえ計画する余裕をもっていたのである」(ボソボソ)ものはいいようだなぁとつくづく思う。「査問は交互にやったので、押入にいる間は横になれて休息を得られたと思われる」(ボソボソ)マジで言っているんだろうか。「したがって古畑鑑定人のいう著しい疲労困憊はありえない」、「また精神的の苦痛もない」、「暴行脅迫をしたこともないから、それに基づく精神的苦痛もない」、「しいていえば、小畑はスパイたることを暴露されたので、それが苦痛であったと思われるくらいのものである」 (ボソボソ)この言い方が気持ちが悪い私には。こんな言いようがどうして許されようか。

 それはそれとして、古畑鑑定書も指摘した「飢えと渇き」については言い繕いが出来なかったのかダンマリを決め込んでいる。「外傷性ショック死」を否定するのであれば、この「絶食査問」についてこそその当否を語らねばならないキー事項なのではないのか。なお、宮顕は、小畑の傷は本人が押し入れ内で暴れて自損した傷だろうとも言いなしてもいる。曰く、概要「(押入で自損傷していることに触れずに『古畑鑑定書』が)軽率に外傷即暴行としている点は前鑑定者の傾向を踏襲している。査問は静粛に行ない、暴力の使用は極力注意した。手足を縛ったままで彼らを押入から出入りしたから若干の影響は手足に残ったかもしれぬが、特に傷らしいものは見ていないし、また予審終結決定に記載されてあるような暴行は加えていない。したがって外傷を加えられた暴行という鑑定は妥当ではない」。こいういう物言いを詐術と言わずして何と言えばよいのであろう。


 しかしそれでは何が原因なんだということになるが、宮顕は毅然として以下のように逆推定する。「体質性ショック死」ないしは「持病性心臓麻痺死」ではないかと自ら結論を用意する。「体質性ショック死」については、「法医学によると『ショック死』は激論しただけでも、またちょっと指なんかでさわっただけでも特異体質のものには起こる場合があるというから、『ショック死』であるとすれば死因は体質に置くべきである」と説明する。「持病性心臓麻痺死」については、「小畑の場合は心臓は人並みより大きく、また心臓に脂肪沈着が多くまた心臓に肥厚斑があったという点から『内因性急死として心臓死』も考えられる」、「古畑鑑定人は、『ショック死』と断定したからほかの死については考察の必要がないというが、宮永鑑定人の鑑定書の内臓に関する記載を前提としてみても『心臓死』と考えることは不自然ではない」と説明する。

 「結論として、小畑の死因は、同人の体質の特異性に主因を置くべきであって、自分は小畑の体質の脆弱が死因なりと考える」、「われわれは、むしろ『心臓麻痺』と推定する方が妥当だと公判廷で主張したのである」。ここでも宮顕は、「古畑鑑定人 は、『ショック死』と断定したからほかの死については考察の必要がないと云っている」と言いなしているが、法廷陳述でそう言ったというならともかく鑑定書中にはそのような記述はない。「宮永、村上鑑定書」もこの話法でやり込められていたことは既に見たところである。


 こうしていつのまにか小畑の死因は「梅毒」か「心臓麻痺」か「異常体質性ショック死」にされてしまった。「『ショック死』は激論しただけでも、またちょっと指なんかでさわっただけでも特異体質のものには起こる場合がある」とわざわざ指摘していることを考えると、宮顕はひょっとして「ちょっと指でさわった」ので小畑が死んだとでも言いたかったのだろうか。そこまでは言ってないにしても、 小畑は自分の体質の責任で偶然にもポックリ死んでしまったというのが真相だという程度には言っていることになる。もはや、私は言葉を失う。

 この宮顕の論調が党史に反映している。「日本共産党の五十年」の「党防衛の闘争、弾圧による党中央委員会の破壊」の項で次のように述べられている。

 「スパイの手引きによる一連の弾圧に対して、調査委員会を組織して党組織の被害状況とその原因を調査し、党中央委員会に潜入していた大泉兼蔵、小畑達夫をはじめ、重要なスパイの一群を摘発することができた。摘発されたスパイに対しては、最高の処分は党籍からの除名であり、これを『赤旗』で公表することによって、ふたたびその潜入を許さない措置をとった。この摘発の途上で、33年12月、宮本顕治が逮捕された。警察当局は、自分たちのスパイ、挑発政策が暴露されたてことへの報復として、査問の途中で起った小畑の急死の事実をとらえて、これを共産党の計画的な殺害事件だとするデマ宣伝を大々的に行い、共産党非難の世論をつくりあげようとした。しかし、その後の公判においても、小畑の死亡が特異体質によるショック死であることが法医学的にも指摘され、警察当局のデマ宣伝は打ち破られた」。

 こういう歪曲に対して、我々はどう待遇すべきだろうか。 

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 【(補足)「査問中、食事を供していたのか」について】
 宮顕の弁論に対して、大井広介氏は、「独裁的民主主義」の中で次のような疑問を提起している。
 「いわんや小畑は前日午前10時頃から飲食物を与えられていない。心臓麻痺だろうと、袴田説のように脳溢血だろうと、ショック死だろうと、正常なコンディションを奪われたのが作用した。外傷性ショック死を甘受すべきで、異常体質ショック死などといい紛らわそうとするのは、正常なコンディションを奪った側の言い分にしては、聞き苦しい」。
(私論.私見) 「査問中、食事を供していたのか」について

 この「査問中、食事を供していたのか」は、宮顕及びその言説のシンパに対する致命的な質問になる。宮顕は一貫してこの質問に答えていない。れんだいこが目を通した調書に拠ると、査問側の食事の記述は出てくる。しかし、被査問側に食事を供したとの記述には出くわさない。こうなると、食事を与えなかったと受け取るべきだろう。

 宮顕擁護派は、これに関してなべてダンマリを決め込んでいる。なぜなら、宮顕の発言にない事を述べる訳にはいかないからであろう。しかしそれは、被査問側に食事を出さなかったことを認めていることになろう。そうなると、そういう査問が対等平穏なものでありえたのかどうか推して知るべしだろうに、そこまでは智恵が廻らないようだ。  

 2005.7.1日再編集 

 【(補足)題名/中田鑑定書について】
 事件後40年以上経って、宮本は、代々木病院副院長の医師中田友也に「小畑の死因に関する新たな鑑定書」づくりを命じた。第一審の「村上・宮永鑑定書」が「頭部に加わりたる暴力による脳震盪」を原因と為し、これを否定した第二審の「古畑鑑定書」がなお「外傷性ショック死」と認定していたのにも満足せず、何とかその死を自分には責任の無い「特異体質によるショック死」にしたがった。

 宮顕は、中田医師を本来の医務業務から離れさせて、ひたすらこの新鑑定に没頭させた。この結果が、「小畑達夫は外傷性ショック死ではない」、「特異体質による単なるショック死か、または急性心臓死であると推定されます」との新鑑定書=中田鑑定書となった。
(私論.私見) 「日共お抱え病院のお抱え医師による新鑑定書」について

 何と宮顕は、最後の切り札として「日共お抱え病院のお抱え医師による新鑑定書」を持ち込んだ。普通は、こういうヤラセは信に値しないと評されるものだが、何と日共盲者はこの新鑑定書を担いで宮顕弁護に乗り出している。持ち込む方も持ち込む方だが、担ぐ方も担ぐ方だろう。

 2005.7.1日再編集 れんだいこ拝

 【(補足)題名/ 両鑑定書に対するその他識者の見解について
 松本明重氏の「日共リンチ殺人事件」で貴重な記述が為されている。京都大学名誉教授・医学博士高松英雄氏の「解剖所見にみる私の鑑定と推理」という次のような一文が掲載されている。
 意訳概要「村上氏の小畑遺体鑑定書は正確で信用でき、その鑑定どおりであるとすると、これらの出血の状態はまったくひどいもので、紫斑病のような『内因性出血』によるものとは異なり、一見して打撲のような外力によるものであることが判る。

 死因の鑑定については、村上鑑定も、古畑鑑定もどちらも有りえると考えるが、同時に、また絞頚死もしくは扼死で有りえると推理することも出来る。その理由は、小畑の心臓や大血管中の血液の流動性は、これは急死にみるもので、窒息死である可能性があるからである。

 纏めとして次のように述べている。
 脳震盪・ショック死・絞頚死・扼死の可能性を様々な角度から検討した結果、死因を一つに求めてその他の要因は死因ではないとは簡単には言えないが、何れの鑑定であれ、またこの私の推理であっても共通して言いえることは、すなわち、他殺である。
(私論.私見) 高松英雄氏の「解剖所見にみる私の鑑定と推理」について

 高松英雄氏の「解剖所見にみる私の鑑定と推理」こそ京都大学名誉教授の見識であろう。「何れの鑑定であれ、またこの私の推理であっても共通して言いえることは、すなわち、他殺である」の重みを知るべきだろう。

 2005.7.1日 

 【日共の本音の弱腰露見される】
 木村愛二氏の「憎まれ口」の「日本共産党犯罪記録」の2005.7.1日付「偽の友代表格・日本共産党のカリスマ『宮本顕治"獄中12年の嘘"』」に貴重情報が書き込まれていたので要約整理しておく。

 それによると、月刊誌「WiLL」の2005年8月号に、立花隆と兵本達吉特別対談「宮本顕治"獄中12年の嘘"」が掲載されていると云う。内容については、れんだいこが記しているものの域をでないので繰り返さないが、末尾のところの次の情報が貴重である。これを転載する。

 日本共産党が「暗黒裁判」とか「判決はデッチ上げ」とか、しきりにいいふらすので、ロッキード事件で活躍した法務省の安原刑事局長が怒り、「再審請求すればいいじゃないか、再審請求で無罪になった吉田厳窟王もいる。国会でそれを言うぞ」と言ったら、日本共産党はびっくり、正森弁護士を法務省に飛んで行かせて、「もう今後デッチ上げってことは言わない。だから国会で再審請求しろと言わないでほしい」と頼み、以後、日本共産党は、「デッチ上げとは言わなくなった」というのである。

 私は、『マルコポーロ』廃刊事件以来の旧知の花田編集長に、電話で、「面白かった」と感想を述べ、今後の調査を求めた。私個人では、そこまで調べる余力のない「スクープ種」である。ミヤケンが世間に売る出した「出世作」の芥川論、「敗北の文学」は、松山高校時代の同人誌、『白亜紀』の別人の論文の盗作だという同窓生の説があるのである。しかし、どこかの図書館にあるのは、肝心の頁が切り抜かれており、内容の比較ができないというのである。同人誌を保持している同窓生を捜し当てることができれば、「盗作の証拠出現!」となるのである。

(私論.私見) 「日共の本音の弱腰」について

 ロッキード事件で活躍した法務省の安原刑事局長が、「再審請求すればいいじゃないか、再審請求で無罪になった吉田厳窟王もいる。国会でそれを言うぞ」と言ったら、日本共産党はびっくり、正森弁護士を法務省に飛んで行かせて、「もう今後デッチ上げってことは言わない。だから国会で再審請求しろと言わないでほしい」と頼み込み、以後、日本共産党は、「デッチ上げとは言わなくなった」という。これこそが日共の本音であることを確認すべきであろう。

 2005.7.1日 れんだいこ拝





(私論.私見)