| 521 | 宮本顕治論 | 第6部 | 査問事件/宮顕逮捕、小畑死亡原因の解明 |

(最新見直し2005.8.28日)
| 投稿 | 題名 |
| 20 | 宮顕検挙とその虚実について |
| 木村さんへ | |
| 21 | 大泉のその後について |
| 22 | 事件の大々的報道 |
| 23 | 小畑の遺体の発見と司法解剖鑑定結果について |
| 24 | 両鑑定書に対する袴田と宮本の対応ぶりについて |
| (補足) | 【(補足)「査問中、食事を供していたのか」について】 |
| (補足) | 【(補足)題名/中田鑑定書について】 |
| (補足) | 【(補足)題名/ 両鑑定書に対するその他識者の見解について】 |
| (補足) | 【日共の本音の弱腰露見される】 |
| 題名/ 宮顕検挙とその虚実について | ||||||||
| 第7幕目のワンショット。宮顕は二日後の12.26日、逮捕検挙された。富士見町電停前の喫茶店に入ろうとして、張り込んでいた特高と格闘の挙げ句逮捕された、とされている。逮捕検挙されたのは史実であるが、この時「特高と格闘」したのかどうは分からない。そういう風に脚色されていることが大いに考えられる。 党史では、次のように記述されている。
「日本共産党の65年」73P)は、次のように追記している。
このような記述によれば、宮顕の検挙は「スパイ荻野の手引き」による、党にとって「査問事件」後の重要な時期での痛い検挙であったように受け止められやすい。が、実際は大きく様子が違うようである。次のようなものであった。 立花氏の「日本共産党の研究三.112P」を参照する。
ここは暫く黙そう。この時宮顕は25才である筈であり、何とも超大物な口ぶりをするこの背景は一体何なんだろう。それと「ギクッとした」というのが何ともリアルな気がする。それはそうだろう、ここまでの解明で明らかにしてきたように、「大泉はスパイだと思うが、小畑はそうは思わない」こそ「小畑査問事件疑惑」の本質に迫った認識であり、当の宮顕だけには絶対漏らしてはいけない考え方であった訳だから。しかし、そこまで読みとれなかったからといって荻野の迂闊さを見るわけにもいかないであろうが。 宮顕逮捕の様子は次のようなものであった。
宮顕検挙の真相は以上の通りということだ。荻野が宮顕を売ったことは明らかであるが、宮顕の逮捕は単純にスパイに売られたとかいうものではない異色のそれであることが判る。ちなみに、荻野は除名され、その除名広告によれば31年(昭和6年)頃からスパイであったとされた。そうであれば、ほぼ二年間一緒に活動していた同じ東京市委員会の宮顕−袴田−木島ラインを始め他の党幹部はそれまでになぜ売られなかったのかが不自然ではないだろうか。あらゆる視点を宮顕神話から見るからこういう不自然さが見えてこないことになる。 なお、この宮顕検挙について不審な点がある。宮顕は、松本清張に次のように話しているということだ。何とかして荻野を落とし込めスパイに仕立て上げようとしていることが判る。
この話の珍奇なところは、「手帳を取られて、駄目だと思った」ことにある。ということは、宮顕が手帳を所持していたことと、その手帳には克明なメモがなされていたことを意味する。 すでに我々は、「査問事件」中大泉の手帳嫌疑を見てきた。宮顕自身が次のように述べているほどの「党の最高指導機関の指導者が、いつ、どこで不審尋問に会うか判らない。この手帳を見たら、非合法活動をやっている共産党員だということがいっぺんにわかってしまう。当人は勿論逮捕されるが、同時に連絡場所にくるものも片っ端からやられる」危険な行為として、当時党員は手帳を持たないというのが鉄則であったはずである。宮顕なら所持しても良いということにはならないであろう。 それともこの御仁の癖の一つであるが、自分には例外が許され相手には厳しくという常用なのであろうか。そういえば、「空中浮揚」氏も自分は見るだけで信者に水中クンパカさせていたなぁ。 ところで、この時宮顕が、こうした「疑いの強い」荻野にわざわざ会いに行っている必然性が見えてこない。袴田の話によると、袴田も宮顕も、かねがね荻野は怪しいと気づき、疑い監視していたという。検挙される当日も、宮顕に「危いから、よせ」と止めたが、「いや、今日が最後だ」と言って出かけたと伝えられている。 「いや、今日が最後だ」というもの言いが意味深だ。荻野が最後なのか宮顕が最後なのかはっきりしないが暫し黙して考えてみよう、あらかじめ自身の入獄を知っていたとも受け取れる実に謎めいた言葉ではないか。一仕事やり終えたという意味なのか…。袴田は云う。
袴田は、後になって気づいた不自然さをこのように伝えている。 ついでに付記すると、この時拳銃は所持していなかったようである。公判で、「査問事件」中拳銃所持の理由を問われ、所持の正当性を力説していた論理からすれば、既に怪しいということが噂されていた荻野に会いにいくのに所持しなかった理屈が見えてこない。これを思えば、「査問事件」時の拳銃所持はまさに威嚇のためであったということになろう。宮顕弁明を精査していくとこういう辻褄の合わないことが次から次へ判明してくる。 それはともかく、宮顕の逮捕により宮顕が職務分担として引き受けていた「赤旗」編集と東京市委員会の指導は袴田が引き受けることになった。つまり、「赤旗」編集と東京市委員会の指導権は宮顕系列で握って離さなかったということになる。 なお、この逮捕時の様子を伝えた宮顕の回顧録の内容に重大な疑惑があることも指摘しておかねばならない。宮顕は、昭和15年4.18日公判の冒頭陳述で次のように陳述している。
これは宮顕自身の公言である。これに対し、平野謙は貴重な疑惑を呈し、次のように述べている。
つまりそういうことになるが、「宮顕の逮捕時に特高が既に小畑のリンチ死を知っていた」との宮顕の公判冒頭陳述は一体どういうことなんだ。これが真相かも知れないし、宮顕が拷問的虚実をデッチ上げんがために脚色した詐術かもしれない。ひょっとして両方の意味があるかもしれない。いずれにせよことは極めて奇っ怪なことになるし、宮顕弁明を精査していくとこういう辻褄の合わないことが次から次へ判明してくる。私が宮顕を胡散臭い人物だということの根拠の一つでもある。 しかし、世の中にはいろんな見方があるもんだと思う。この特高発言がなされたのは小畑の遺体の検死が行われた直後の1934年(昭和9年)1月17日頃であり、宮顕の取り調べにあたっていた山県警部らは、麹町警察署の拷問部屋で宮顕にむかって「共産党をデマる絶好の材料だから、今後とも党と大衆を切り離すためにつかってやる」とうそぶく、という記事が「ウオッチ」論客の一人である土佐氏より紹介されている。 この1.17日説の根拠は判らないが、この場合、昭和15年4.18日公判の宮顕の冒頭陳述での「大体私が麹町警察署に検挙された時に、 私を調べんとした山懸警部は云々」発言が確かになされているのかどうか調べればはっきりする。私は、「リンチ共産党事件の思い出」を参照しているだけであるので心細くなってしまう。しかし、平野氏が自分で掲載しておいて 「不自然だ」と言っているのだからあながち嘘ではないと思うけど。どなたかチェックしていただきたいと思う。 現在私は「宮本公判記録」を手に入れている。平野の指摘する通り、昭和15年4.18日公判の冒頭陳述で、宮顕がさように述べていることが確認された。ということは、宮顕の公判陳述冒頭の「山懸警部は、鈴木警部等とテーブルを囲んで曰く、『これは共産党をデマる為に格好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる』と言って、非常に満足した様な調子で我々に冷笑を浴びせて居た」陳述は極めて奇怪なことになる。事件が露見していない時点で、何故特高がそのようなセリフを吐いたのか、精査せねばならないことになる。 ちなみに、宮顕は、麹町署に検挙された際に、彼が毛利特高課長、山県為三特高警部らから、失神しそうになるほど拷問をされ、獄中にあって麹町警察と留置場において拷問を受けたと自身が明記している。しかし、このように主張しているのは宮顕であって、山県警部は、「宮本なる人物には一面識もなく、拷問したなどと言い張るのはまことにもって名誉毀損」と憤慨しているとのことである。この発言の真偽もどなたか確認していただけたらありがたい。私でさえ、あまりに重大なことなので、にわかには信じられない。こうして見ると、宮顕の言には異常な脚色があちこちで見て取れることになる。 戻る |
| 題名/当時の過酷な取調べ状況について | |||||||
なお、ここでこの当時の通常の取り調べの水準がどの程度のものであったのかを見ておくことにする。これは「特高警察黒書」(新日本出版社)113Pの一節である。俳優の松本克平氏が自らの体験を語ったものである。松本氏は党員でもなかったがナップの連絡係をしていたようである。そういう者にさえこの程度の拷問がなされるのが普通であったことを例証したいため以下記す。
続いて同書は作家の中本たか子氏の手記を載せている。彼女も当時は党員ではなかった。関連するところだけ抽出する。
党員でなくてもこれぐらいの拷問がなされていたのであるとすれば、党員か朝鮮人活動家に対してなされた程度が想像されよう。小林多喜二の「1928. 3.15日」の文中はその実態を暴露した名著ではないのか。この当時皆なぶり殺しか気絶するまで激しい拷問がなされ続け、彼らの意に従うまで何日も続けられたというのが当時の関係者の一致して明らかにするところである。 まして党の最高の地位にある中央委員ならどうなるか判りそうなものではないか。野呂の例を見てみよ う。野呂こそはと言うべきか最後まで調書を取らせなかったが、彼は明らかな肺炎性病弱を見せていたにも関わらず、各署をたらい廻しにされて厳しい取り調べを受けた。獄中で健康状態が急激に悪化し、流動食しか取ることが出来ないため、看守にオートミルを作らせ、移動する時は他の者に担いで貰わなければならぬほどだった。34年2.19日病状があまりに悪化したため、品川署から北品川病院に入院させるため運ばれたところで絶命した。32才の若さであった。 もう一人、伊藤律の場合を見ておく。次のように記している。
宮顕は、この時の拷問の様子について次のように語っている。
私には具体性の乏しい反面脚色性の強い非常に嘘っぽい文章であるように思うが、これ以上は控えることにする。 この時のことを宮顕はこうも語っている。「追憶談」(週刊読売)で次のように述べている。
宮顕は、これを称して「原始野蛮による人間への持久拷問」と言っており、この記者も「信念のない者ならたちまち拘禁ノイローゼにかかり、警察側の思い通りにされてしまったことであろう」と妙な感心の仕方で提灯している。これでは宮顕が受けたそれの方が虐殺拷問よりしんどいみたいに受け止めてしまうではないか。宮顕の場合、他の多くの党員になされた虐殺もありえた即日拷問を、なぜ持久戦にまで持ち込みえたのかその丁々発止の様?を問う方が自然ではないのか。提灯持ちは何人いても役に立たない。 ちなみに、宮顕が「こいにつは何をやっても無駄だと特高をあきらめさせた」などという話をまともに信じられる者は余ほどおめでたいと言うべきではなかろうか。この当時の取調べは史上極悪の官憲テロルが吹き荒れていた時代である。この当時取調べに屈した者は別にしても抵抗した者は例外なく岩田義道しかり、小林多喜二しかり虐殺された。「共産主義者は殺す一歩手前まで拷問して自白させ、共産党員としては生きていけない裏切り者に仕立て上げる」というのが特高の戦略・戦術であった。宮顕がこのテロルから逃れ出られる機会なぞ万に一つも無い。それをなぜ逃れえたのかを問う方が自然であるということを重ねて強調しておきたい。 もう一つ加えておく。宮顕が云うように小畑がスパイだとして、ならば官憲側のスパイをリンチ致死させた宮顕に対する拷問はひたすら過酷なものになるのが予見できることではないか。それを「こいにつは何をやっても無駄だと特高をあきらめさせた」とは。冗談が過ぎよう。しかし、宮顕の弁明をそのままに受け取り、鋼鉄の意志を絶賛する者が後を絶たない。それも冗談が過ぎよう。 戻る |
| 題名/ 赤旗のリンチ事件報告記事について | ||
宮顕が逮捕されたのが12.26日で、その翌日の12.27日付け赤旗紙面に東京市委員会書記局署名の「中央委員会による片野・古川断罪への革命的挨拶」なる特報が掲載された。次のようにリンチ事件を党内報告している。
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| 題名/ 大泉のその後について |
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第8幕目のワンショット。もはや大泉の査問は中止されたも等しかった。12.25日の朝は、秋笹・木島・木俣の3人が二人ずつ交替でピストルを持って監視したようである。「大体二日に亘る取り調べの結果、我々の予期していた通りのスパイの確証を握り、警察のスパイ政策も大体に於いて聞知したので、これ以上大泉を追及する必要も無し、仮に追求しても党にとって必要な事実も新たに出ないと考え」(袴田16回調書)られたのである。
こうして、大泉夫婦は心中を試みようとし始め、査問者側もそれを期待し、偽装自殺の「遺書」 まで書かせられることとなった。大泉にとって小畑殺害におびえた窮余の一策だったことになる。秋笹らがいろいろ注文付けて書き直させている。この経過につき、袴田は次のように証言している。
次のショット。1.9日頃からアジトを他に移すことに決定したようである。こうして、木島が目黒方面に一戸建てを借り受け、その新しいアジトに大泉夫婦の身柄を移すことを取り決めた。1.13日、熊沢が大泉の髭を剃ったり、洋服の塵を払ったりした。1.15日夜、殺害することを取り決め、1.14日夜、目黒の木島宅に移動させた。二階6畳の間に監禁した。木島・横山・林鐘年の3名で監視した。「いよいよ同人等が自殺を決行すると云うのでその前夜一緒に寝かせてやったと云う報告を受けました」(袴田16回調書)。この日の夜大泉と熊沢が逃亡の是非の相談をしていたことを明らかにしている(大泉17回調書)。ところが、熊沢が反対したためいよいよになると実行されなかった。
という不自然なものであった。この時木島と林はわざわざ大泉に聞こえるように出かけていくことを伝えており、仕組まれた芝居臭さがうかがえよう。この時か前の晩だったか木島のハウスキーパー横山操が大泉等に餞別の玉子丼をつくってご馳走している。 |
| 題名/ 事件露見、その大々的報道により戦前日共運動が壊滅的打撃を蒙る | ||||
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次のショット。大泉の駆け込みによって事件が明白となり、警視庁は直ちに捜査に入ることになった。同時に新聞発表され、各社は「赤色リンチ事件」として大々的に報道することになった。(宮顕はこの当時「白テロ」と認識していたようであるが、どういう位置づけによって「白テロ」としていたのかは解せない)
袴田がこの報道をデマと思う感性が頂けないが、「我々のやった事は決して個人的な野心からではなく日本共産党を真実プロレタリアートの前衛党とする為の不純分子の排撃であった」(袴田1回公判調書)として認識していた氏の事件が発覚した当日当時の様子が伝わってくる。袴田は、「その日の夕方木島と連絡した際に」前日の午後の大泉逃亡のあらましの報告を受けたという。
平野氏のこの指摘は、「当時の新聞発表は、私に電撃的な印象を与えた」、「たとえ切迫した査問委員会の席上だったとはいえ、リンチというような手段に訴えたことを到底私は是認することができなかった」という感性のまともさに値打ちがある。リンチ事件は本来この観点から把握されねばならない。 つまり、戦前日共党運動に於ける壊滅的悪作用を蒙らしめた事件であったこと、それが宮顕派の仕業であったこと、何ら正当な手続きを踏まない姑息卑怯野蛮無慈悲な遣り口での党内査問により、党の最高指導者である僅か5名のうちの1人の党中央委員がリンチ致死せしめられたことに特質が認められる。これらの不義を告発せねばならない。これが事件総括の基本姿勢となるべきであろう。 しかし、平野氏には事大主義が終生付き纏う。事件直後は宮顕派党中央による小畑スパイプロパガンダの虚実を疑っておらず、戦後は「小畑の死がショック死だったことを知ったのは戦後しばらくたってからだった」とあるように、又しても宮顕派党中央による小畑ショック死プロパガンダの虚実を疑っていないことに認められる。評論家の眼力としてはあまりにも暗愚であるが、こういう手合いが多過ぎる。 |
| 題名/ 小畑の遺体の発見と司法解剖鑑定結果について |
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第9幕目のワンショット。こうして小畑の遺体が発掘されることになったが、その時の状況について次のように明らかにされている。小林五郎が書いた「特高警察秘録」(昭和27年7月に生活新社から出版)に次のように書かれているということである。
当時の新聞報道第一報(1.16日)では、小畑の死因は「絞殺死」(窒息死)と断定されていたとのことである。現場で視認した警察医務官がそのように判断したということであったと思われる。ところが、翌1.17日新聞では、「撲殺」とある。不自然であるが、木俣鈴子が薪割りで小畑の頭部を殴りつけ、それが致命傷になったと書かれている。どういう事情で木俣が実行犯にされたのか定かでないが、ここも胡散臭いところである。翌1.18日新聞は「脳震盪」と更に死因を変更している。この経過は、「絞殺死」(窒息死)ではないとする方向に誘導されていることが分かる。
補足すれば、執刀者村上博士は、この時の所見に対し、次のように述べている。
村上氏は後年東北大学医学部名誉教授となり、東北地方でのんびり余生を過ごしていた。その頃の述懐である。
思うに、実際のリンチはもっと凄惨なものではなかったかとさえ思わせられる。仮に「指先リンチ」について陳述が為されていたとしたら、暴行があったいやなかったの応酬は無意味なことになる。こういう大事な陳述が予審判事によって引き出されていない作為をこそ見て取らねばならいように思う。他の部分にも同様な記述が見られるが、例え出血とか異常の有無の記載を転記してみても水掛け論にされてしまうであろうからこれら二点に注意を喚起しておくことにする。
この詳細な「宮永、村上鑑定書」を受けて「古畑鑑定書」は次のように纏めている。
後の絡みでここで補足しておけば、以上のような鑑定所見に対して、宮顕は、「小畑の身体にあったという軽微な損傷というものが事実とすれば、それは大部分彼が逃亡をこころみて頭その他で壁に穴をあけようと努力した自傷行為とみなされる」とコメントしている。この「宮永、村上鑑定書」から「相当な暴行跡」を読みとるのか「軽微な損傷」と読みとるのか、
同じ文面を見て人は判断が違うということになるようである。
「宮永が私たちの反対尋問になんらまともな答えができなかった」と袴田は記述している。この時の主張の真意は、概要「解剖の事実にはあまりウソを書いていないが、結論部分の『脳しんとう』鑑定が『木に竹をついだようなデタラメな結論』をくだしており、『思想検事や特高警察のいいなりになって書いたもの』であり、殺人罪として起訴しようとする不当なものである」と指摘したかったようである。
袴田はこの時の印象を次のように記している。
次のワンショット。こうして、古畑種基医師による再鑑定がおこなわれることになった。既に8年の月日が経過してはいるものの、「宮永、村上鑑定書」には詳細な解剖所見が記載されていたので再鑑定されるに充分なものであったということになる。袴田にも「少しもさしつかえなかった」と認知されている。古畑医師は、昭和17年4.30日鑑定に着手し、同年6.3日に終了し、約1ヶ月所要していわゆる「古畑鑑定書」を作成し法廷に提出することとなった。
ここは非常に大事なセンテンスなので別段落で確認する。古畑鑑定は、概要「暴行、空腹、渇き、精神的苦悶、格闘」等の具体的事由を挙げて「外傷性ショック死」と鑑定しているということである。にも関わらず、ここの部分が袴田・宮顕により、あたかも古畑鑑定が漠然とした「ショック死」を鑑定結果させていたかのような詐術が行われることになるので、あえて段落替えで明示した。次稿で、この新鑑定結果に対して、袴田と宮顕がどういう態度を取ったかを見ていくことにする。 |
| 【題名/ 両鑑定書に対する袴田と宮顕の対応ぶりについて】 | |
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この新鑑定結果に対して、袴田がどういう態度を取ったかを最初に見ることにする。簡略にまとめるとかく述べているようである。曰く、概要「
古畑鑑定書は全部がそうだというわけではないが、基本的には私の結論と同じものでした」と言う。つまり、この前半部分では「古畑鑑定書」に対して「基本的には私の結論と同じ」とこれを評価していることが判る。これが本来の袴田の了解の仕方であったものと思われる。
こういう歪曲に対して、我々はどう待遇すべきだろうか。 |
| 【(補足)「査問中、食事を供していたのか」について】 | |
宮顕の弁論に対して、大井広介氏は、「独裁的民主主義」の中で次のような疑問を提起している。
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この「査問中、食事を供していたのか」は、宮顕及びその言説のシンパに対する致命的な質問になる。宮顕は一貫してこの質問に答えていない。れんだいこが目を通した調書に拠ると、査問側の食事の記述は出てくる。しかし、被査問側に食事を供したとの記述には出くわさない。こうなると、食事を与えなかったと受け取るべきだろう。 宮顕擁護派は、これに関してなべてダンマリを決め込んでいる。なぜなら、宮顕の発言にない事を述べる訳にはいかないからであろう。しかしそれは、被査問側に食事を出さなかったことを認めていることになろう。そうなると、そういう査問が対等平穏なものでありえたのかどうか推して知るべしだろうに、そこまでは智恵が廻らないようだ。 2005.7.1日再編集 |
| 【(補足)題名/中田鑑定書について】 |
| 事件後40年以上経って、宮本は、代々木病院副院長の医師中田友也に「小畑の死因に関する新たな鑑定書」づくりを命じた。第一審の「村上・宮永鑑定書」が「頭部に加わりたる暴力による脳震盪」を原因と為し、これを否定した第二審の「古畑鑑定書」がなお「外傷性ショック死」と認定していたのにも満足せず、何とかその死を自分には責任の無い「特異体質によるショック死」にしたがった。 宮顕は、中田医師を本来の医務業務から離れさせて、ひたすらこの新鑑定に没頭させた。この結果が、「小畑達夫は外傷性ショック死ではない」、「特異体質による単なるショック死か、または急性心臓死であると推定されます」との新鑑定書=中田鑑定書となった。 |
何と宮顕は、最後の切り札として「日共お抱え病院のお抱え医師による新鑑定書」を持ち込んだ。普通は、こういうヤラセは信に値しないと評されるものだが、何と日共盲者はこの新鑑定書を担いで宮顕弁護に乗り出している。持ち込む方も持ち込む方だが、担ぐ方も担ぐ方だろう。 2005.7.1日再編集 れんだいこ拝 |
| 【(補足)題名/ 両鑑定書に対するその他識者の見解について】 | ||
松本明重氏の「日共リンチ殺人事件」で貴重な記述が為されている。京都大学名誉教授・医学博士高松英雄氏の「解剖所見にみる私の鑑定と推理」という次のような一文が掲載されている。
纏めとして次のように述べている。
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高松英雄氏の「解剖所見にみる私の鑑定と推理」こそ京都大学名誉教授の見識であろう。「何れの鑑定であれ、またこの私の推理であっても共通して言いえることは、すなわち、他殺である」の重みを知るべきだろう。 2005.7.1日 |
| 【日共の本音の弱腰露見される】 | ||
| 木村愛二氏の「憎まれ口」の「日本共産党犯罪記録」の2005.7.1日付「偽の友代表格・日本共産党のカリスマ『宮本顕治"獄中12年の嘘"』」に貴重情報が書き込まれていたので要約整理しておく。 それによると、月刊誌「WiLL」の2005年8月号に、立花隆と兵本達吉特別対談「宮本顕治"獄中12年の嘘"」が掲載されていると云う。内容については、れんだいこが記しているものの域をでないので繰り返さないが、末尾のところの次の情報が貴重である。これを転載する。
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(私論.私見)