| 521 | 宮本顕治論 | 第5部 | 査問事件/小畑致死事件発生 |

(最新見直し2006.5.24日)
| 投稿 | 題名 |
| 16 | 「小畑死亡」の経過と様子について再現ドラマ |
| 17 | 小畑死亡に関する宮顕の弁明について |
| 18 | 小畑の死亡原因の推定について |
| 補足 | 不幸な時代の不幸な出来事 |
| 補足 | 木村さんへ |
| 題名/ 宮顕の小畑死亡に関する今日までの言い草 | |||||
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宮顕は、今日に至るまで小畑の死亡原因について、次のような珍論を展開している。当事者の弁であるからむげに無視する訳にもいかない。以下の再現シーンで宮顕の言い分の妥当性を検証してみたいと思う。ちなみに、宮顕は、「第5回公判調書」で、小畑の「遺体鑑定書」を読みとりながら次のように云っている。
何と、宮顕は、「梅毒死」の可能性さえ示唆した。日本共産党の50年来のトップにある者の言い様としては暫し黙しつつ頬をつねらざるをえないが、取り敢えず感情抜きにこういう言い分が妥当なものかどうか以下検証する。 |
| 題名/ 「小畑死亡」の経過と様子について再現ドラマ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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第五幕目、いよいよここから小畑死亡時の検証に入る。
という具合に、小畑の身体の揺れと室内移動が始まっていた。後で分かることであるが、この時小畑は指先で解いたのか査問用具が置かれていたところまでにじり寄って何らかの拍子に包丁を手に入れたのかどうかまでは判らないが、小畑は身をよじりながら手縄と腰縄をほどこうとしていたようである。
次のショット。いよいよここから小畑の急死事件が発生することになる。同時に小畑の無念の死が知らされることになろう。この時の様子について査問当事者が各々別々の様子を陳述しており一定しない。真相は「藪の中」に包まれている。最初に述べたように、私は次のように推論する。推論の根拠は、一定しない陳述の中で誰のそれが一番真実に近いものであるかをまず確定し、
そこから他の者の陳述を参考にしながら補足するという方法に従った。なぜなら、意識的に予審調書が混乱を招くようリードしている面も想定しうるので、眼光紙背に徹して読みとることが必要であるからである。
つまり、逃げだそうと行動を起こした小畑に袴田が組み付いたところ、小畑は袴田に立ち向かいながら更に逃げ出そうとしたので、そうはさせじと袴田は取り押さえ二人は同時に倒れたということになる。小畑の最後の戦闘力であったが、いかんせん既に消耗著しい体力はそれを許さなかった。
この点に関して、秋笹は次のように陳述している。
この陳述通りだとすると、袴田は自分の教唆責任を問われると思ってか、次のように反論している。
この袴田証言によると、引き倒された小畑に対しての取り押さえ側の位置は、袴田が主に腰と脚の部分を、逸見が頭と首ないし喉の部分を、木島は足の部分を、宮顕は右手を掴んでねじ上げつつ背中側から組み敷いていたということになる。なお、小畑の押さえ込みに加わった当事者の順序は、袴田→逸見→木島.宮顕となる。
夢中になって小畑を押さえ付けていたみんなが気が付いた時には、小畑は身動きしなくなっていた。この騒ぎの最中、小畑が押さえ付けられてぐったりなった頃、押入に入れられていた熊沢がたまらず飛び降りてきた。袴田は、「お前の親父じゃないから心配するな」と云うと、熊沢は、「それは知っているわよ」と云った。袴田は、直ぐ再び押入の中に追いやった。
ここのところの逸見の陳述は次のようになっている。
ここは暫くの沈黙を要する。逸見のこの言いによれば、「宮本と袴田に向かい
『早く縛れ』と申したるも両名とも縛る様子はなかりき」のまま4名でよってたかって押さえつけていったということである。どういう意味になるのかお互いよく考えてみよう。急なことで冷静さを失っていたにせよ、既に押さえ込みは完了しているのであり、更に圧迫を加える必然性がどこにあったのか。突発性で思わず本音通りの行動へ宮顕と袴田を誘導したのではなかったのか、と私は見る。
この陳述も 貴重である。木島の「皆に『どうしたのですか』と聞きたるところ、袴田が『この野郎逃げようとしやがった』と云いたる」という状況からすればかなり間延びした時間があったことになる。小畑は一挙に圧死されたのではなく、4名の再確認の元に引き続き押さえ込まれることにより気絶させられていったのではないのかということになる。もっとも気絶ではなく致死に至らしめられたのではあるが。
ここは暫し黙そう。袴田は、概要「宮本を救おうと、いろいろな言い方をしてきた。私は真実を口にしなかった」と云っている。このセンテンスで、この時の調書では小畑死亡時の宮顕関与の曖昧化と関与順序の偽証が為されているのではなかろうか。
この騒々しさを階下で聞きつけた秋笹が階下から上がってきた。秋笹は、この時の様子は次のように証言している。
秋笹は「どうしたんだ、どうしたんだ」と云いながら、側に寄ってきた。 不自然な格好で静かになっている小畑を見て事態を読みとった。袴田は、この時の秋笹の対応につき次のように証言している。
秋笹の叱責に対して、袴田は次のように証言している。
はからずも宮顕−袴田−木島ラインの意思が漏れ伝わってくる。「日本共産党の研究三.109P」によれば、もう少し詳しく、次のように記述している。
次のショット。こうして事件発生が明白となった。査問者一同は、しかし、本当に死んだのか、気絶しただけではないのか、再生するものならという思いでいろいろ手当した。袴田は次のように証言している。
ここでお互いが言っていることは、皆で取り押さえたのは事実であるが、自分自身の行為が直接死に至らしめたのではないという言い訳と、殺すつもりは無かったという言い訳と、蘇生の努力をしたのは自分自身であるということを各々が主張していると言うことである。この期に及んで、こういう言い訳と俺が再生努力をしたのだと言い張るのが宮顕、袴田の人格である。実際にこの主張を法廷でする様を後の章で見て行くことになる。
その理由として、次のように陳述している。
予審判事が、この供述の真偽を確かめると、次のように陳述している。
はからずもここに袴田の饒舌から貴重なメッセージが為されている。仮定の話であり、逆説的に述べているが、「宮本を生かす為に小畑を殺すほかに方法がない云々」とは、少々意味深であろう。 |
| 題名/小畑死亡に関する宮顕の弁明について | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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小畑死亡時の様子に関するこうした袴田・逸見・木島・秋笹陳述に対して宮顕はどのように主張したのか見てみよう。ところで、ここの部分に関して宮顕がまじめに言っているのなら私もまじめに考察するが、とうていそのようには思えないので適当にチャチャを入れながら追跡していくことになることをご容赦願いたい。
以上ここまでの経過でさえこれほど食い違いを見せる宮顕の言いであるから、小畑死亡の経過に関して認識が異なるのもむべなるかなと言える。宮顕による小畑死亡時の様子についての陳述は次の通りである。「宮顕4回公判調書」によると、次の様に述べている。
宮顕自身がこの程度には語っていることを、「暴力なかった=特異体質による心臓麻痺死亡説」説の盲信者はご存知だろうか。私には、宮顕の行為をソフトに表現した当人によるこの弁によってさえ、「特異体質による心臓麻痺死亡説」は覆されると思われるのだが、盲信者よこの点につきご説明願いたい。
なお、宮顕は戦後になって「月刊読売」(昭和21年3月号)誌上で次のように明らかにしている(今度はチャチャ入れないことにする)。
これらの陳述がその通りなら良いのだけれど、こうした宮顕証言によると、引き倒された小畑に対しての取り押さえ側の位置は、袴田が小畑の足のほう、 逸見は頭の方にいた。木島は宮顕の反対側で暴れる小畑の手を止めようとし、宮顕は小畑の右手を小畑の横に座って両腕で抱きかかえる形で止めていたということになる。 |
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| 題名/宮顕弁明がウソであることが判明したら断乎除名されるべきではないか | ||||||||
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以上を踏まえて、私は次のことを言いたい。「査問事件」の全体的経過に対して、当時の情況を理解するという観点から、今日でも非は非として認めた上で宮顕の党史的評価をしようとする者も少なくない。しかし、そういう人たちも、当人がこのような主張をし続けていることを知った上で宮顕評価をする必要があるであろう。もし、この語りが全体的に大嘘であったとしたら、逆にこれらの弁明だけで宮顕は除名されるに値するのではなかろうか。
ここで宮顕の対逸見・秋笹・木島観では偏りが過ぎるので、彼らを良く知る他の者の対逸見・秋笹・木島観も披露しておく事にする。まず逸見について。当時農民運動組織の共産党フラク責任者で、逸見としばしば連絡を取り合っていた宮内勇氏は、「物静かで、気の弱いインテリといったタイプの人であった」と記している。大泉ですら「逸見が一番人間が善く凡そリンチとは縁遠い部類の人間です」と述べている。こういう逸見像は他の論者からも指摘されている。
袴田が1978年になって出版した「昨日の同志宮本顕治へ」(62ー63P)に次のような興味深い史実が明かされている。それによるとこうなる。
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| 題名/ 小畑の死亡原因の推定について | ||||||||||||||||||||
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以上の様子から考えると小畑の死因は様々に考えられる。少なくとも関係者の突発性対応による「致死」事件であることには相違ない。この経過からすれば、直接原因は、
ということにな るであろう。(5)の当事者全員の暴行による「脳しんとう死」はもっとも考えにくいが、最初の「村上・宮永鑑定書」が「脳しんとう死」の可能性を中心に据えて詮議したことにより、不自然なことに小畑の死因は「脳しんとう死」でありや否やをめぐって争われることになった。
ところが、宮顕は、戦後になってこれらの原因説を一蹴して、(6)・「異常体質性ショック死」という死人に口無し説を主張し始めた。
この捉え方に近いものとして(7)・「自然死−心臓麻痺死」も出てくる。(8)・宮顕が「梅毒死」の可能性にまで言及していたことは既に指摘したところである。(9)・袴田は「脂肪による心臓肥大ショック死」も推定して見せている。以上、小畑の死因については上記9説が考えられることになる。このうち宮顕の(6).(7).(8)説、袴田の(9)説は、表記5説までと大きく性格を異にした大変不自然、狡猾な説ではあるが、当事者の弁明であるから無視することは出来ない。
「宮本公判判決文」にかく記されているからには、宮顕はそのように主張していたのであろう。が、判決では次のように却下している。
「党内問題説」としては次のように主張している。
「宮本公判判決文」にかく記されているからには、宮顕はそのように主張していたのであろう。が、判決では次のように却下している。
ところが、戦後になって宮顕は、「月刊読売」(昭和21.3月号)に、「赤色リンチ事件の真相」という見出しの元に「スパイ挑発との闘争」を発表し、小畑の死因について、あれは「異常体質によるショック死だった」と発表するところとなった。次のように主張している。
この主張の欺瞞性は、「再鑑定による古畑鑑定書」が、「脳しんとう死説」を否定して(ここはまぁ合ってる−私の注)、むしろ「ショック死説」と推定すべきであるとした(ここが詐術である。注意深く単に「ショック死説」としている。−私の注)と言う言い回しにある。
と、わざわざ「小畑の殺された前後の経緯」部分につき「事実と相違したことを申しだてたかも知れません」とウソ陳述であることを自ら認め、「もし間違ったことがあってもご寛恕を願います」と結んでいる。つまり、云うに云えない裏事情があり、その辺りの忖度を頼むという構図になっている。 れんだいこは次のように考えている。まだまだ明らかにされていない調書があるとは思うが、おおよそにおいては小畑の死亡経過はここに記したようなドラマ通りであったものと思うので、突発性対応型の暴行致死とみる。肝心な点は、「食事を給せずして監禁を継続」というこの間5食分食事が与えられていないことと、長時間査問による体力消耗の極致にあったところへ、最後の死力を尽くして逃げ出しを図ったところを集団で押さえ込まれたことによる、「突発性急性疲労・過労ショック性暴行致死」ではなかったかと思う。こういう場合、医学的に正式にはどう言うのであろうか。 なお、暴行のうち誰の暴行が決定的要因であったのかを特定することにどれだけ意味があるのかは判らないが、考えられるとすれば、逸見による窒息死か宮顕による圧殺死であるように思われる。ただし、逸見による窒息死の場合は、喉を締めたのか背中側の頸を締めたのかが多少問題となるが、どうやら袴田の指摘する通り後者のようである。ということは、袴田の 「生涯を通じて、これだけは云うまいと思い続けてきた」告白こそ真相を吐露しているのではないかということになる。 ところで、小畑に暴行が加えられていたことさえ否定しようとする見方が今なお根強くあって議論されている。そういう方たちに参考までにお伝えしておくと、内務省警保局保安課刊行の極秘文書〈特高月報〉昭和9年1月分は、「小畑達夫惨殺事件」、「大泉・熊沢惨殺未遂事件」とタイトルを付けている。否定論者は、警察が意識的にフレームアップしようとしてこういう表題を付けていると窺うのであろうが、私の考えでは、これは内部通信でもある点を考えるとフレームアップ視は少々穿ちすぎではないかと思わせていただく。惨殺とまではいかないまでも結果的には暴行致死事件であったことは疑いないように思っている。 ところで、この査問による小畑の死亡が当時どのように伝えられていたかについての貴重な資料がある。1946(昭和21)年2.15日発行の人民社から出版された「日本革命運動小史」が刊行されている。これは佐和慶太郎氏、芝寛、松本健二らが主催する人民社が、1944年8月に在中国日本人解放同盟の機関紙に載った「日本革命運動小史」論文を英語から翻訳して出版したものである。「日本革命運動小史」は、延安に結集していた野坂らが中心となって、その機関員等の手で「ソ同盟共産党史」にならってわが国の革命運動の歴史を概括したものであった。主として鹿地亘の手によってまとめられていたと伝えられている。 この小冊子には、最後の方に宮顕らのリンチ事件が取り上げられていて、次のように記述されている。
明らかに宮顕らをおとし込めようとしているのではなく、逆にそのスパイ摘発闘争支援の左派的観点で記述されていることが分かる。これが「査問事件」に対する当時の党員間での一般的な了解の仕方であったように思われる。 但し、これには後日談があり、 同年4.23日アカハタで「党声明」として、「人民者発行『革命運動小史』/ゆるしえぬ誤謬/即時発売停止を要求す」という小見出しの記事が掲載されている。宮顕のイニシアチブによるものと推定できる。佐和は党本部に呼びつけられて、長文の自己批判書を書かされることになった。こうして、人民社は「党声明」に応えて絶版にすることにしたという。この経過は、宮顕の出版妨害事件の最初の事例となっており、結果として、宮顕のイニシアチブは一出版社の生殺与奪に関与したことになる。 が、実際には在庫品に修正の貼り紙をつけるという方法で改訂したようである。その改訂版では次のように記述されていた。
ここでもトリックが使われていることが分かる。小畑は当時4名しかいなかった中で、宮顕の先輩格の中央委員であったが、その立場が消され、「党のごく近くにいたスパイ」、「その男」と貶められている。事情を知らない者がこの話法を聞かされるとなるほどと思わせられるであろう。これも宮顕の常套手段であるが、相手を徹底的に無知なままにしておき、得意の文章術で如何様にでも言い含めるという遣りかたの一例としても、この出版差し止め事件には値打ちがある。 もう一つここで触れておくことがある。栗原幸夫氏の貴重な証言がある。逸見は予審調書で小畑死亡時の宮顕の関与ぶりをあからさまに語ったが、戦後再会することになった逸見に見せた宮顕の態度が次のようなものであったということである。栗原幸夫氏が著書「戦前日本共産党史の一帰結」)の中で、次のような貴重証言している。
もう一つ。宮顕の異常体質性ショック死論法が特高の拷問死の発表の仕方とよく似ていることを確認しておこうと思う。「特高警察黒書.124P」以下を参照した。党中央委員岩田義道は、1932.10.30日検挙され11.3日警察病院で絶命したとされている。拷問死は歴然であったが、警察病院は、「肺結核を患い、脚気衝心で死んだ」という死亡届を出した。記事解禁後の新聞報道も、「岩田は肺結核の上に脚気を患っており、逮捕以来連日暴れ狂ったのが原因」(東京日々新聞号外)と、警視庁特高課の発表そのまま書いている。だがしかし、遺体を引き取った者の証言によれば、概要「大腿部は恐ろしく腫れ上がって暗紫色を呈しており、目も当てられぬ様になっていた。特殊の拷問用具によって圧殺したものと思われる。足と手には肉に食い入った鎖の後が残っており、胸部に打撲様の内出血が見られ致命的なものである」と伝えられていることは衆知のところである。 著名なプロレタリア作家小林多喜二は、33.2.20日検挙され即日死亡したが、警視庁は「心臓麻痺による急死」 と発表し、遺体の解剖さえ妨害した。事実は即日なぶり殺しの拷問死であった。毛利特高課長は、「調べてみると、決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げ回るうち、心臓に急変をきたしたもので、警察の処置に落ち度はなかった」と述べている。今日遺体写真が残っているので死因の真相について私が敢えてのべるまでもないが、おおよそ心臓麻痺説を単に信じる者はおめでたい人というべきであろう。 宮顕の「異常体質性ショック死」論がこの特高の口上と如何によく似ていることだろうか、と思う。宮顕の言うことを真に受けるあたりのとこまではその人の勝手であろうが、それを人に吹聴するなどは余程の赤面士であることを自認していただかねばなるまい。 戻る |
| (補足)題名/ 不幸な時代の不幸な出来事 | 木村・1999.11.17日 |
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れんだいじさんの空前の力作が連日投稿されています。私は過去にも投稿
していますので、私のだいたいの考え方はおわかりいただけると思います。
「スパイ査問事件」については、ロッキード事件が発覚する直前に、国会で春日一幸氏(旧民社党委員長)が取り上げたことによって世間の注目を集めることとなりました。さらに、立花氏の著作が発表され、「犬はほえても歴史は進む」という「赤旗」紙上の反論があったことは覚えています。その後、何度か断続的に反論が続きました。私の記憶では、野坂氏の『風雪の歩み』(「前衛」)に続いて、袴田氏も回顧録風の連載を同誌上にしたことがあり、それを読んで、詳細は忘れましたが「あれれ、袴田氏がこんなこと(宮本氏にとって具合の悪いこと)を書いていいのかな」と思うような下りがあったことも覚えています。 |
| (補足)題名/ 木村さんへ | 1999.11.19日 |
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この度はご返信ありがとうございます。書き上げる私の方も大変でそろそろ潮時かなとも考えています。ただし、「査問事件」に関連した前後のところまでは完結しておこうと思っています。この間政治的影響も考慮しつつ投稿が上滑りせぬよう進めてまいりたいと思います。今後とも忌憚のないご交流をさせていただけますよう私の方からもお願い申しあげます(ちょっと一言。私の理解による木村さんの出足の文章はいつも感性的に私と同じです。ところが後半になるとよれてくるというか党の公式論に寄り添った傾向になります。私は木村さんの前半の問題意識を意固地に拘り続けてきているということになりますが、 お互いこの辺りは時局認識等でご意見交流させていただきたく存じます)。 |
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(私論.私見)