521 宮本顕治論 第5部 査問事件/小畑致死事件発生

 (最新見直し2006.5.24日)

投稿 題名
16 「小畑死亡」の経過と様子について再現ドラマ
17 小畑死亡に関する宮顕の弁明について
18 小畑の死亡原因の推定について
補足 不幸な時代の不幸な出来事
補足 木村さんへ


 題名/ 宮顕の小畑死亡に関する今日までの言い草

 宮顕は、今日に至るまで小畑の死亡原因について、次のような珍論を展開している。当事者の弁であるからむげに無視する訳にもいかない。以下の再現シーンで宮顕の言い分の妥当性を検証してみたいと思う。ちなみに、宮顕は、「第5回公判調書」で、小畑の「遺体鑑定書」を読みとりながら次のように云っている。

 概要「鑑定人の云う如く『脳 しんとう死』や『外傷性ショック死』ではない。なぜなら、それらの死因の構成要件である暴力や疲労や苦痛は存在しなかった」。
 概要「小畑の場合には、 苦悶らしい声も出さず、逃亡さえ計画する余裕をもっていたのであり、査問は交互にやったので、押入にいる間は横になれて休息を得られたと思われ、著しい疲労困憊はありえない。また暴行脅迫をしたこともないから、それに基づく精神的苦痛もない。しいていえば、小畑はスパイたることを暴露されたので、 それが苦痛であったと思われるくらいのものである」

(私論.私見)

 (こういうことを本気で言っているのか愚弄しているのかは判らないが、正気の沙汰ではない)。
 概要「むしろ『体質性ショック死』ないしは『持病性心臓麻痺死』ではないかと推定し得る」。
 「また小畑の心臓に粟粒大の肥厚斑数個あるとの記載があるが、これは梅毒性体質の特徴で脳震盪(のうしんとう)類似の症状によって急死することがあると法医学者も説いている」。

 何と、宮顕は、「梅毒死」の可能性さえ示唆した。日本共産党の50年来のトップにある者の言い様としては暫し黙しつつ頬をつねらざるをえないが、取り敢えず感情抜きにこういう言い分が妥当なものかどうか以下検証する。


 題名/ 「小畑死亡」の経過と様子について再現ドラマ

 第五幕目、いよいよここから小畑死亡時の検証に入る。

 ワンショット。袴田は次のように証言している。

 概要「大泉の査問の途中、袴田と逸見が大泉の方に気を取られているうちに、初めはどこかへ寄り掛かりたいと云う風に身体を引きずるようにして移動させておった様子だったが気にも留めずおると云々」(袴田2回公判調書)。
 「小畑は絶えず居座りながら動いて居たので、私はよく動く奴だと思いながら時々振り向いて同人の様子を見ておりました」(袴田12回調書)。

 という具合に、小畑の身体の揺れと室内移動が始まっていた。後で分かることであるが、この時小畑は指先で解いたのか査問用具が置かれていたところまでにじり寄って何らかの拍子に包丁を手に入れたのかどうかまでは判らないが、小畑は身をよじりながら手縄と腰縄をほどこうとしていたようである。

 補足すれば、小畑に足縄手縄を解く器具を手渡した者がいるやも知れぬ。闇の部分であるが不自然な気がしない訳でもない。そのことはともかく、足縄手縄を解いた小畑は次第に窓際の方に寄りつき、逃げ出し格好を見せ始めていた。袴田は、次のように証言している。

 「逃走の危険を感じ、彼を元の所へ引き戻そうとして立って行きますと、 後方から見たときは未だ手も足も縛られている様に見えておりましたが、側へ寄って見ると既に手も足も縛ってあったものを切り、頭から被せてあったオーバーもその上を巻いてあった紐を緩めてありました」(袴田12回調書)。

 次のショット。いよいよここから小畑の急死事件が発生することになる。同時に小畑の無念の死が知らされることになろう。この時の様子について査問当事者が各々別々の様子を陳述しており一定しない。真相は「藪の中」に包まれている。最初に述べたように、私は次のように推論する。推論の根拠は、一定しない陳述の中で誰のそれが一番真実に近いものであるかをまず確定し、 そこから他の者の陳述を参考にしながら補足するという方法に従った。なぜなら、意識的に予審調書が混乱を招くようリードしている面も想定しうるので、眼光紙背に徹して読みとることが必要であるからである。

 外が暗くなり始めていたので、この時午後4時頃であったとされている。袴田は次のように証言している。

 「そこで私は、(逃走されては)大変だと思って(後方から)抱きしめるようにしてやにわに組み付き、座敷の中へ引き戻そうとすると、既に手足の自由になった小畑は私に(向き直って)自分から組み付いて来ると同時に『オー』と云う様な大声を張り上げました。そこで私もほとんど夢中で同人を引き戻し、略図のDの所へ一緒に倒れたのであります(袴田12回調書)。

 つまり、逃げだそうと行動を起こした小畑に袴田が組み付いたところ、小畑は袴田に立ち向かいながら更に逃げ出そうとしたので、そうはさせじと袴田は取り押さえ二人は同時に倒れたということになる。小畑の最後の戦闘力であったが、いかんせん既に消耗著しい体力はそれを許さなかった。

 次のショット。袴田は次のように証言している。

 「その時私は仰向けに小畑は打ち伏して倒れたのでありますが、倒れた小畑の傍には逸見が座っており、またこの騒ぎに寝ていた宮本・ 木島の両名が起きあがって来ました」(袴田3回公判調書)。
 概要「私は、逸見に『しっかり押さえろ』と云ったのですが、その瞬間小畑が起きあがろうとしたので、木島はその両手で小畑の両足を掴んで又打ち伏せに倒し、宮本は、その片手で小畑の右腕を掴んで後ろへねじ上げ、その片膝を小畑の背中にかけて組み敷きました。逸見は、前から座っていた位置に倒れた拍子に小畑の頭が行ったので、その頭越しにすなわち小畑の頭に被せてあったオーバーの上から両手で小畑の喉を押さえて小畑が絶えず大声を張り上げて喚くので、その声を出させない為にその喉を締めました。その時私は、(起きあがり)小畑の腰のところを両手で押さえ付けて居たのであります」 (袴田12回調書)。
 「小畑は糞力を出して我々の押さえ付けている力を跳ね返そうとして極力努力したのであります」 (袴田12回調書)。
 「かくして小畑を皆で押しつけている間、小畑は絶えず大声を発して怒鳴っておりました」(袴田2回公判調書)。
 「最初私と一緒に同人が倒れた時同人の頭部が逸見の座っている前に行ったので、逸見は、片手で小畑の首筋を上から押さえ付けて片手で小畑の頭を振りながら『声を出すな、出すな』と云っておりました」(袴田2回公判調書)。
 「しかし、小畑は大声を出し死力を尽くして抵抗し、我々が押さえ付けている手をはねのけ様としたが、我々もそれに対抗して全身の力で押さえ付けて居る中、小畑は『ウウ−ッ』と一声強くあげたと思うと急に静かになったのであります。かようにして小畑と我々とは互いに全力を尽くして争って居る中、小畑は最後に大声を一声上げると共に身体から力が抜けて終わったのです」(袴田2回公判調書)。

 この点に関して、秋笹は次のように陳述している。

 概要「小畑の声を止める為、逸見が柔道の手で小畑の喉を締めたが、逸見が一旦手を緩めたから『モットヤレ、ヤレ』とそそのかすと、逸見は夢中になって又締めたので遂に小畑は落ちてしまったと、袴田が秋笹に云ったことがある云々」(袴田3回公判調書)。

 この陳述通りだとすると、袴田は自分の教唆責任を問われると思ってか、次のように反論している。

 「私は逸見に『しっかり押さえろ』と云うと、逸見は俯向きになっている小畑の首筋を上から押さえ付けたのでありまして、決 して喉を閉めたのではありませぬ」(袴田3回公判調書)。

 この袴田証言によると、引き倒された小畑に対しての取り押さえ側の位置は、袴田が主に腰と脚の部分を、逸見が頭と首ないし喉の部分を、木島は足の部分を、宮顕は右手を掴んでねじ上げつつ背中側から組み敷いていたということになる。なお、小畑の押さえ込みに加わった当事者の順序は、袴田→逸見→木島.宮顕となる。

 ここで注意を要することは、これから見ていくことになるが、袴田以下各事件当事者の調書が、宮顕の取り押さえの様子と取り押さえに入った時期を廻って大きく食い違っていることである。ここを踏まえて読み進める必要がある。私は、用意周到意識的に混乱するように仕組まれていると推定している。


 次のショット。袴田は次のように証言している。

 「すると、喉をオーバーの上から締められたので苦しそうな声で呻いていた小畑が急に静かになりました。そこで皆が期せずして押さえ付けていた手を離し、極度の緊張が突然緩んだのでちょこっとの間ポカンとしておりました」(袴田12回調書)。

 夢中になって小畑を押さえ付けていたみんなが気が付いた時には、小畑は身動きしなくなっていた。この騒ぎの最中、小畑が押さえ付けられてぐったりなった頃、押入に入れられていた熊沢がたまらず飛び降りてきた。袴田は、「お前の親父じゃないから心配するな」と云うと、熊沢は、「それは知っているわよ」と云った。袴田は、直ぐ再び押入の中に追いやった。

 この経過は秋笹判決では次のように要領よく纏められている。

 「たまたま小畑が同日午後一、二時頃隙を窺い逃走を企つるや、その場に居合わせた袴田、逸見、宮本及び木島の4名は相応じて共に小畑を組み伏せ、尚も大声を発し死力を尽くして抵抗する同人を一同にて押さえつけて、以てその逃走を防止せんとして互いに格闘し云々」(秋笹被告事件第二審判決文)。

 ここのところの逸見の陳述は次のようになっている。

 「自分と袴田の二人にて大泉の査問に取りかかりたるが、自分が夢中になって大泉の陳述を聞き居る時自分の横に居たる袴田が突然立ち上がり、後ろにいたる小畑の足に取り付き、その瞬間宮本は小畑のところに行き同人の背後より腕をねじ上げたり。 自分も驚きて後を見ると、小畑は三尺の壁のところより寄りかかる姿勢にて表通りに面する窓際より一尺くらい手前のところにおり、袴田は『この野郎逃げようとしたな』と云いつつ小畑の両足を押さえおりたり。そこで自分も小畑のところに行き、宮本の横側より小畑の肩を押さえ付け、宮本と袴田に向かい『早く縛れ』と申したるも両名とも縛る様子はなかりき」(逸見調書)。
 「宮本が小畑の手をねじ上げるや小畑は倒れて長く延びたるが非常な力にて抵抗し大声を発しおりたり。その時木島は行火の所より跳ね起き、小畑の頸のところを押さえ付けたり。宮本が小畑の腕をねじ上げるに従い小畑の体は俯向きとなり『ウーウー』と外部に聞こえる如き声を発した故、自分は外套を同人の頭に掛けようとしていると、小畑は『オウ』と吠える如き声を立て全身に力を入れて反身になる様な格好をし直ぐグッタリとなりたり。自分が小畑の逃走せんとするを認めてより同人がグッタリする迄はわずか5分間あるいはそれ以内の短時間なりき」(逸見調書)。

 ここは暫くの沈黙を要する。逸見のこの言いによれば、「宮本と袴田に向かい 『早く縛れ』と申したるも両名とも縛る様子はなかりき」のまま4名でよってたかって押さえつけていったということである。どういう意味になるのかお互いよく考えてみよう。急なことで冷静さを失っていたにせよ、既に押さえ込みは完了しているのであり、更に圧迫を加える必然性がどこにあったのか。突発性で思わず本音通りの行動へ宮顕と袴田を誘導したのではなかったのか、と私は見る。

 なお、この逸見証言によると、引き倒された小畑に対しての取り押さえ側の位置は、袴田が両足に取り付き、逸見が横から肩の部分を、木島は頸の部分を、宮顕は同人の背後より腕をねじ上げたていたということになる。袴田証言との食い違いはあるが、宮顕の位置と行為については変わらない。なお、小畑の押さえ込みに加わった当事者の順序は、袴田→宮顕→逸見→木島となる。袴田証言に比べて宮顕の関与の時期が相当早いということになる。


 ここのところの木島の陳述は次のようになっている。

 「自分は行火に入りて 寝ておりたるところ、自分の足を誰かがつついたる如き感がして目をさまし見たるに、小畑の頭部の方に宮本が半腰になって丁度同人の股の下に小畑の頭部が入るような格好をして両手で小畑の首の辺りを押さえており、又袴田は、小畑の右側に居て同人の体を押さえ、逸見は、小畑の左側に居て同人の体を押さえおりたり。小畑は言葉では表現できない様な苦しそうな聞く者にとっては不気味な声を立てておりたり。右の如き有様にて自分は小畑の断末魔の悲鳴や宮本らの緊張したる様子に依り宮本等は小畑を殺すのではないかと関知したるを以て、皆に『どうしたのですか』と聞きたるところ、袴田が『この野郎逃げようとしやがった』と云いたるより自分も一緒になって小畑の体を押さえ付け『黙れ黙れ』と申しおりたるに、小畑は前述した様な不気味な悲鳴を立てなくなって仕舞いたるにより同人の死亡したることを皆が直感し顔を見合わせいたるところへ秋笹が階下より上がり来たりたり云々」(木島調書)。

 この陳述も 貴重である。木島の「皆に『どうしたのですか』と聞きたるところ、袴田が『この野郎逃げようとしやがった』と云いたる」という状況からすればかなり間延びした時間があったことになる。小畑は一挙に圧死されたのではなく、4名の再確認の元に引き続き押さえ込まれることにより気絶させられていったのではないのかということになる。もっとも気絶ではなく致死に至らしめられたのではあるが。

 この木島証言によると、引き倒された小畑に対しての取り押さえ側の位置は、袴田が小畑の右側にいて同人の体を押さえ、逸見は小畑の左側にいて同人の体を押さえ、木島も一緒になって小畑の体を押さえ付け、宮顕は半腰になって丁度同人の股の下に小畑の頭部が入るような格好をして両手で小畑の首の辺りを押さえていたということになる。袴田証言、逸見証言との食い違いはあるが、宮顕の位置と行為については変わらない。なお、小畑の押さえ込みに加わった当事者の順序は、袴田.宮顕.逸見→木島となる。最後に加わったのが木島である点で逸見証言と一致している。


 
以上から推測できることは、袴田証言が宮顕と木島の関与を入れ替えており、木島の関与を早くすることによって宮顕が袴田に続いて他の者よりいち早く押さえ込んでいたという事実を隠蔽しようとしているのではないか、と推定し得る。

 ここのところについて、1978年(昭和53年)に至って除名された袴田が、事件後45年目に してその手記(「週刊新潮」78年2.2日号)の中で、次のように新証言をしている。

 「私はこれまで、45年前のこの不幸な事件で宮本が犯した大きな誤りについて、誰にも話したことは無い。それは私が口を開くことによって、万が一にも宮本の立場を悪いものにしてはならないと配慮したからだ」。
 「生涯を通じて、これだけは云うまいと思い続けてきた」事実を明らかにする」。
 「宮本は、右ひざをうつ伏せになった小畑の背中に乗せ、彼自身のかなり重い全体重をかけた。さらに宮本は、両手で小畑の右腕を力いっぱいねじ上げた。ねじ上げたといっても、それは尋常ではなかった。小畑の体を全体重をかけて右ひざで押さえているのに、その肩の線とほぼ平行になるまで彼の右腕をねじ上げ、かつ押さえたのだ。苦しむ小畑は、終始大声を上げていたが、宮本は、手をゆるめなかった。しかも、小畑の右腕をねじ上げれば上げるほど、宮本の全体重を乗せた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて『ウォ−』という小畑の断末魔の叫び声が上がった。小畑は宮本の締め上げに息が詰まり、遂に耐え得なくなったのである。小畑はグッタリとしてしまった」。
 「私は今まで、特高警察に対しても、予審廷においても、あるいは公判廷でも、自分の書いたものの中でも、この真実から何とか宮本を救おうと、いろいろな言い方をしてきた。この問題で宮本を助けるのが、あたかも私の使命であるかのように私は真実を口にしなかった。その結果、私も宮本も殺人罪には問われずに済んだのだ」。

 ここは暫し黙そう。袴田は、概要「宮本を救おうと、いろいろな言い方をしてきた。私は真実を口にしなかった」と云っている。このセンテンスで、この時の調書では小畑死亡時の宮顕関与の曖昧化と関与順序の偽証が為されているのではなかろうか。

 次のショット。逸見は次のように証言している。

 「小畑がグッタリするや自分はその場に呆然として立ち宮本も木島も無言のまま立っており、袴田も小畑の足のほうに無言にて座りいたるところ」(逸見調書)。

 この騒々しさを階下で聞きつけた秋笹が階下から上がってきた。秋笹は、この時の様子は次のように証言している。

 「用便の為階下に下り居ると間もなく二階にて小畑が大声にてわめき立つる声が聞こえ、次いでそれを取り鎮める為バタバタと非常に喧しき物音が聞こえ、7、8分も経るや小畑が虎の吼える如き断末魔的叫び声を上げたと思うと後はひっそりとしたり。自分はただごとではないと思い2、3分の後用便を済ませて二階に上がり見ると云々」(秋笹調書)。

 秋笹は「どうしたんだ、どうしたんだ」と云いながら、側に寄ってきた。 不自然な格好で静かになっている小畑を見て事態を読みとった。袴田は、この時の秋笹の対応につき次のように証言している。

 概要「この有様を見て驚き、私たちに対して、『殺してはまずいぞ』とか『殺すのは反対だ』とか云った様なことを口走り、非常に狼狽した様な様子でした」(袴田12回調書)。
 「『ここで殺すのは反対だ』とか『殺してはまずいぞ』とかいっておりました」(袴田2回公判調書)。
  概要「秋笹は、故意か不注意で殺した様になじり、殺すことはなかったと思わず叱責し、殺してしまって仕様がないではないかといつまでもくどくどと云った。他の者は皆、関与しなかったからと云ってのんびりしたことを云うなとムキになり、殺す心組みで殺したのではないじゃないか。いつまでもそんなことを言ったって仕様がないと云ってちょっと口論の様な形になった」。

 秋笹の叱責に対して、袴田は次のように証言している。

 「宮顕は、なぜだ。木島は、殺したって良いではないか。袴田は、殺したって良いではないか、生かすなら早くしないと駄目になると云った」。

 はからずも宮顕−袴田−木島ラインの意思が漏れ伝わってくる。「日本共産党の研究三.109P」によれば、もう少し詳しく、次のように記述している。

 「宮顕が、今更何を云うのだ。妥協主義が悪いと云うことは野呂を例にとってさっき話したばかりじゃないかと興奮し、二人は激論したが、逸見の仲裁でおさまった」。

 次のショット。こうして事件発生が明白となった。査問者一同は、しかし、本当に死んだのか、気絶しただけではないのか、再生するものならという思いでいろいろ手当した。袴田は次のように証言している。

 「一時気絶して間もなく蘇生する」可能性を考え、秋笹が小畑の脈を取ってみたところ既に脈が切れていた。袴田は引き続き、まごまごしていると駄目になると云いながら、床の間かどこかにあったやかんの水を持ってきて、小畑の頭から(顔や胸の辺りに)打ちかけた。しかしそれでも駄目でした」(袴田12回調書)。。
 「人工呼吸をやろう」と云うことになり、秋笹が人工呼吸を試みた。 秋笹が小畑の体に乗って私が手真似で教えた方法で小畑の両手を上下に動かし、約15分間も続けましたが遂に蘇生しませんでした」(袴田12回調書)。
 「宮顕は、「俺が活を入れる」と言って数回小畑の背部を叩き柔道の活を入れてみたが息を吹き返さなかった」。

 ここでお互いが言っていることは、皆で取り押さえたのは事実であるが、自分自身の行為が直接死に至らしめたのではないという言い訳と、殺すつもりは無かったという言い訳と、蘇生の努力をしたのは自分自身であるということを各々が主張していると言うことである。この期に及んで、こういう言い訳と俺が再生努力をしたのだと言い張るのが宮顕、袴田の人格である。実際にこの主張を法廷でする様を後の章で見て行くことになる。

 なお、ここの部分「『生かすなら早くしないと駄目になるぞ』と云って人工呼吸をやったと云う様なことがあったのか」という予審判事の問いに対し、袴田は次のように陳述している。

 「小畑がぐったりなると同時に秋笹が上がってきたのであります。その刹那私たちは皆小畑が一時気絶したのだと思ってただポカンとしておりましたので、秋笹が上がって来ると同時に秋笹との間に色々問答があった訳ではありません。秋笹は先ず小畑の脈を取って見ました。すると脈がありませんので気絶したではないかと考え、既に申し上げた様に秋笹に人工呼吸をやらせたり、水をうちかけたりしましたが、その効いなく死んだ事が判りましたのでそれから秋笹が愚痴のような事を申すので、同人と宮本、木島、私らの間に口争いが起こったことは事実ですが、私はその時にも『殺したって良いではないか』と云うような事は云ったことはありません」(袴田18回調書)。

 その理由として、次のように陳述している。

 「この査問中に起こった小畑の死は、その情況が未だ同人を殺害してまでも党指導部を防衛しなければならない程の情況ではありませんでした。従って、小畑が死んだのは最初から殺害の意見が有ってやった訳ではなく、同人が逃走を企てたのに対し、これを阻止すべく手段を講じた結果死に至らしめたのであります」(袴田「司法警察官の取調べ供述」18回調書)。

 予審判事が、この供述の真偽を確かめると、次のように陳述している。

 「その通りであります。要するに仮定論でありますが、党の指導部全体あるいはそれを構成する一員例えば宮本を生かす為に小畑を殺すほかに方法がないというような極めて逼迫した情勢の下に置かれた場合には、我々は指導部を防衛する為にスパイたる小畑を殺したでありましょうが、事実当時我々はそんな情勢の下には置かれて居りませんでした」(袴田18回調書)。

 はからずもここに袴田の饒舌から貴重なメッセージが為されている。仮定の話であり、逆説的に述べているが、「宮本を生かす為に小畑を殺すほかに方法がない云々」とは、少々意味深であろう。

 戻る


 題名/小畑死亡に関する宮顕の弁明について

 小畑死亡時の様子に関するこうした袴田・逸見・木島・秋笹陳述に対して宮顕はどのように主張したのか見てみよう。ところで、ここの部分に関して宮顕がまじめに言っているのなら私もまじめに考察するが、とうていそのようには思えないので適当にチャチャを入れながら追跡していくことになることをご容赦願いたい。

 その前に整理しておきたいこととして、宮顕は、小畑死亡時のみならず、それ以前の「査問事件」の発生過程と経過についてもすでに大きく異論を唱えていることを確認しておこうと思う。次のような特徴がある。「宮本第8回公判調書」を主に参考にした。単に小畑の死亡時の状況判断をめぐっての相違というレベルではないことが判る。

 その1、「査問事件の責任者は逸見」
 宮顕が査問事件をリードしたというのは嘘であり、今回の査問事件の責任者は逸見であった、と云う。その例証は、宮顕の次のような発言が裏付ける。
 「彼(逸見)自身白テロ調査委員会の委員長であり、その位置はスパイ挑発に対する最重要部署にいた人間である」。

(私論.私見)(ボソボソ)

 「白テロ」とはどういう意味だろう、よく判らないがこう述べているのは確かである。れんだいこから見れば確かに「白テロ」ではあるのだが、当人の宮顕から見て「白テロ」とはどういう感じなんだろう。解せないがまぁいいや。なお、逸見が事件の責任者であったという罪のなすりつけをしているが、果たしてこのように罪責をなすりつける人物が組織の長として相応しいであろうか、強く疑問としておきたい。

 「組織的には問題提起機関の責任者であり、のみならず、予審の彼の陳述でもわかるごとく、総会においては彼が査問の開催を提議している」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 「総会」とか「開催を提議」とか何で彼はいつもこういう物言いしか出来ないのだろう。宮顕−袴田−木島ラインに秋笹と逸見を取り込んだだけのことでしょうが。なお、仮に逸見が提議したからといって=主犯という訳にはなるまい。誰が教唆したかが肝心であろう。
 「むしろ実状の経過は、逸見ら組織部会に参加した人たちが小畑の不審行動を目撃して、それを一契機として初めは宮本に隠していたが、けっきょく逸見をはじめ白テロ調査委員会の人々から中央部に正式に提起されてきたものである」等々。
(私論.私見)(ボソボソ)

 ナルホド、逸見が巻き込まれたのではなく、宮顕の方が巻き込まれのか。これは初耳だよ。それにしてもヒドイ。
 その2、「査問事件は平穏静溢に行なわれた」
 今回の査問事件は平穏静溢に行なわれた、と云う。その例証は、宮顕の次のような発言が裏付ける。
 「我々としては査問にあたっては、これが順調にいくよう、混乱せぬよう、外部に漏れぬよう十分注意した次第で、大泉のいうような状態であれば、大騒ぎとなり近所の者に気付かれないはずはないのである」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 充分言い聞かせた上で猿ぐつわまでかましていたのではなかったのかなぁ。窓には黒幕で目張りしていたと言うし。「外部に漏れぬよう十分注意した次第」こそ語るに落ちるというものではないか。
 「私は特に周囲への顧慮を念頭においており、かかる混乱を導く行動は取らなかった」 等々。
(私論.私見)(ボソボソ)

 それはソウダと思う。あなたならそういう目配りに抜かりはなかろう。それにしても、「私は特に周囲への顧慮を念頭においており」というのはホントだったと思うよ。宮顕さんも時にはホントのことをしゃべるようだな。「特に」というのが気持ち悪いが、アタシには。
 その3、「査問事件は合議的に行なわれた」
 今回の査問事件は合議的に行われたと云う。その例証は、宮顕の次のような発言が裏付ける。
 「査問においては合議対等性の立場がとられた」
(私論.私見)(ボソボソ)

 なっなんとぉ、こうなると足縄・手縄・猿ぐつわの真偽をせねばならないことになるなぁ。それにしても「合議対等性」とはよくいうなぁ。あきれが果てるとはことことだよ。 また繰り返すけど食事・用便の方はどう配慮したんだっけ。それと「白テロ」と公然と認識しているんではなかったっけ。
 その4、「宮顕が指導者格で訊問していったというのは嘘である」
 宮顕が指導者格で訊問していったというのは嘘である、と云う。その例証は、宮顕の次のような発言が裏付ける。
 「宮本が査問委員長格であったというのも、秋笹も指摘しているごとく、逸見の歪曲策法のひとつである」。
 「宮本が議長格であったといっているが、これも秋笹が指摘しているごとく不実である」等々。
(私論.私見)(ボソボソ)

 では、誰が音頭取りしたんだろう。烏合の衆で尋問していったのかな。しかし、「秋笹が指摘しているごとく」の内容が分からないが、秋笹が宮顕に迎合陳述していることになるなぁ。その背景が詮索されても良いとも思われるなぁ。
 その5、「大泉から予定表に従い訊問を開始した」
 宮顕は、その4に関連してもう一つ嘘をついている。その例証は、宮顕の次のような発言が裏付ける。
 「まず大泉から予定表に従い訊問を開始した」(宮顕4回公判調書)。
(私論.私見)(ボソボソ)

 宮顕の真意は、このたびの査問の眼目が小畑のテロルにあったことをそらそうとしているものと思われる。この偽弁は、「小畑・大泉を順次束縛した後、宮本顕治が査問委員長の格で、これを逸見や私が補助し、秋笹が査問の書記局を勤めることにして先ず小畑から査問を開始することになりました」(袴田11回調書)と大きく違うけど、やっぱり非転向タフガイの宮顕の言っている方が正しいのだろうか。

 宮顕は、木島の陳述批判として、「大体、一定の場所に一定の時、ある人間がそこにいたかいないかという事は、事件を判断するにつき根本問題である。それがはっきり判らないようでは、他の陳述も信用する事は出来ない。木島の陳述はその点が曖昧である以上、他の陳述も曖昧であると言わざるを得ない」として一蹴している。ならば、宮顕の「まず大泉から予定表に従い訊問を開始した」の不実陳述が明白となれば、「事件を判断するにつき根本問題である。それがはっきり判らないようでは、他の陳述も信用する事は出来ない」と同じように言わせていただいてよろしいでしょうか。宮顕論法に従うと、この下りでの宮顕陳述に虚偽が確認されれば、他の陳述も然りということになろう。
 その6、「査問の過程が暴力的に行なわれたというのも嘘である」
 宮顕は、査問の過程が暴力的に行なわれたというのも嘘である、と云う。その例証は、宮顕の次のような発言が裏付ける。
 「宮本らがさんざん殴ったり蹴ったりしたというのも、自己を穏健であったと強調せんとする同一策法である」。
 概要「逸見による宮顕暴行証言の数々は、逸見は、事件を率直に見ていないから、さようなことを陳述したことによる」等々。
(私論.私見)(ボソボソ)

 「素直に見る」見ないも何も、本人は見た通りを陳述しているように思うけど。
 その7、「今回の査問事件は党内のスパイ摘発闘争の一環として行なわれたものであり、党内対立が誘引したものではない」
 宮顕は、今回の査問事件は党内のスパイ摘発闘争の一環として行なわれたものであり、党内対立が誘引したものではないと云う。その例証は、宮顕の次のような発言が裏付ける。
 「これは当時新聞などにさかんに書きたてられたことである。個人的争いについては逸見ものべているが、大泉の陳述はその典型的なものである。大泉は私怨により大泉、小畑を排除せんとしたが、大泉自身スパイたる正体をあばかされないために自己勢力の扶植に努力したとかのべ、かつ我々の悪口を種々いっているが、彼らスパイである立場からみればそのような結論になるのであって、その陳述をとりあげる価値は全然ない」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 「とりあげる価値は全然ない」って言ったって、本当のことだったら自然と口の葉にのぼってくるでしょうが。
 「袴田は労働者出身であり、大泉は農民出身、小畑は半インテリ出身だから、事実上からみても労働者対イ ンテリの問題ではない」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 労働者対インテリの対立の構図ではなくて、小畑派と宮顕派の抗争という図式ならどうなの?
 「彼(木島 ) は、文化団体と全協の対立であったともいっているが、これも警察で吹き込まれた筋書きをもちだしたものであることは明瞭である」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 「文化団体と全協の対立」ねぇ、そうも言えるわなぁ。「警察が吹き込んだ」ねぇ、警察も何か理由付けするわなぁ。でも、「労働者小畑派とスパイ宮顕派との抗争による、小畑派頭目への白テロ」とは口が裂けても言わないよ。
 「また、中央部内の感情の対立であるとも言っているが、さような事実のなかったことは、今までにたびたび述べたとおりである」等々。
(私論.私見)(ボソボソ)

 そうだったら、党中央委員の先輩格二名を査問するのに何で、曰く、「我々としては査問にあたっては、 これが順調にいくよう、混乱せぬよう、外部にもれぬよう十分注意した次第」の必要があったのかなぁ。動かぬ証拠を突きつけて自己批判を迫るとかもう少し他のやり方がありそうなものだけど。
 その8、「大泉のスパイ性については微にいりさいにいり熟知した解説をしているが、小畑のそれについては思わせぶりに述べるに留まる」
 宮顕は、大泉のスパイ性については微にいりさいにいり熟知した解説をしているが、小畑のそれについては思わせぶりに述べるに留まっている。その例証は、宮顕の次のような発言が裏付ける。
 「(その例証は全編に関係しているので割愛する)」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 大泉のスパイ性論議はどうだってよいの。本人も認めてることだし。問題は小畑の方なの。小畑の明白なスパイ性を指摘するのでないとおかしいと思うけど。死んだのは小畑の方なんだよぉ。
 その9、「監獄内の他の被告の動向を熟知し、情報収拾している」
 宮顕は、監獄内の他の被告の動向を熟知し、情報収拾している。その例証は、宮顕の次のような発言が裏付ける。
 「(大泉は)警察に留置中優遇を受けたので、同房者にスパイたる正体をかくすためハンストまでやり、スパイたることを努めてかくしていたが、予審でスパイの身分を出しはじめたのである」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 こうなると地獄耳ということになるなぁ。
 その10、「木島のご都合主義的重用と使い捨て」
 宮顕は、木島をご都合主義的重用と使い捨てしている。木島はその後、宮顕に上手に活用されていたことを悟り、宮顕のウソを暴いて行った。宮顕はこれに怒った。党所属上は宮本管轄の東京市委員会委員であり、今回の「査問事件」に特攻隊員的役割をさせたのにも関わらず、飼い犬に手をかまれた怒りかぼろくそに言いなしている。その例証は、宮顕の次のような発言が裏付ける。
 「(その言いようについては既述したので繰り返さない)」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 宮顕論法の馬脚はすぐに現われる。曰く、前段で「彼は小畑、大泉の査問にあたっては委員ではなく、単なる見張りであった」と言っているにも関わらず、後半になると曰く、「小畑死亡後、私らは階下におり、木島は2階にいたのであるから、階下で私らが党の方針につき協議した内容は木島が知るはずはない」 と木島が二階の査問現場にいたことを認めている。

 木島に見張り以上のことをさせたということでしょうが。何でそんなに木島を上手に使い分けるのよぉ。 饒舌過ぎると尻尾を出してしまうという見本でもあるか。

 以上ここまでの経過でさえこれほど食い違いを見せる宮顕の言いであるから、小畑死亡の経過に関して認識が異なるのもむべなるかなと言える。宮顕による小畑死亡時の様子についての陳述は次の通りである。「宮顕4回公判調書」によると、次の様に述べている。

 概要「予審終結決定では、大変誇張して表現しているが、左様な事実はさらにない」、「ただ小畑が逃げようとして暴れた時、ちょっと騒いだぐらいである」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 「ちょっと騒いだぐらい」とはひどいのではないかなぁ。
 「従って、決定書に書いてあるようなことは出来る訳がない。この点に関する逸見の供述は相違している。逸見、木島の陳述は迎合的である。硫酸をかけたり、炭団を押しつけたりしたこ とはない。自分は静かに訊問しただけである」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 「静かに訊問しただけ」というのもひどいなぁ。
 「私が一眠りした時、物音で目をさますと、小畑は手足が自由になっていて起きあがろうとしていた。それに袴田が飛びかかって行き、逸見もそこへ来て袴田は足のほう、逸見は頭の方にいた。私も駆け寄って小畑の右手を小畑の横に座って両腕で抱きかかえる形で止めており、 木島も来て向こう側で暴れる小畑の手を止めようとしていた」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 「小畑の手を止めようと」してどうしたんだろう。そこの具体的な行為をちゃんと伝えてよ。それと、この弁明によると宮顕さんが一番遅く小畑を制止しにいったことになるなぁ。そういう自分だけいい子ぶろうとする物言いが気持ち悪いよ。
 「小畑は手足を動かし、声を立てようとするので逸見は声をたてさせまいと口の辺りをおさえた。その時小畑は、風呂敷か外套を頭から被せられていたが、そのまま暴れたので皆で小畑を押さえ付けた。その裡に小畑は声を立てなくなり静かになった」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 これでは、逸見の「口の辺りをおさえた」のが死因になってしまうではないの。
 「結局我々としては、彼が騒ぎ出そうとしたので取り鎮めようとしただけに過ぎないのである。我々には殺意は全然なく、みなは蘇生することを希望していたのである。とくに蘇生に尽力したのは自分と秋笹の二人だけである。この点に関する逸見、木島の供述は相違 している云々」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 ソウカ、「取り鎮めようとしただけに過ぎ」ず、蘇生に努力したのは「自分と秋笹の二人だけだった」のか。ソウカ、救命尽力者として見てくれということか。地下に眠る小畑氏に聞いてみたいところだ。

  宮顕自身がこの程度には語っていることを、「暴力なかった=特異体質による心臓麻痺死亡説」説の盲信者はご存知だろうか。私には、宮顕の行為をソフトに表現した当人によるこの弁によってさえ、「特異体質による心臓麻痺死亡説」は覆されると思われるのだが、盲信者よこの点につきご説明願いたい。

 宮顕は、「宮顕5回公判調書」でさらに死因を自ら分析して次のように述べている。

 「小畑が逃げかけたので、これを止めようとした当時の状況においては誰も斧なんか手にしていない」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 それはそうだ。事件は突発したんだし。
 「自分が目を覚ました時に、小畑は仰向けになって逸見に頭を押さえられ、袴田に足を押さえられていたが、両手を振り回していたので私と木島で左右の手を一本宛押さえていたのである。そのとき両手があいていたのは逸見だけであったが、同人は声を出させないようにかぶせた布がはずれるのを止めていたから、両手の空いていた者は結局一人もなかった」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 またまた思わせぶりに逸見の行為に因果を持たせようとしているなぁ。こういう弁明を当人から聞かされるとは嫌なもんだよ。
 「私らは彼の手をねじったことはなく、また頭へ手を回した事実もない。胸、腹部を強圧した事実ももちろんない。左様な必要も余裕もなかったのである」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 「私らは彼の手をねじったことはなく」というのが違うんではないかなぁ。しかし、この断定調の白々しさがいかにも宮顕らしいわなぁ。
 「したがって脳震盪による急死は考えられない。また絞扼死もありえぬ。しかもこれは数分間の出来事であって、鑑定書などに格闘したとあるが左様なことはない。昭和9年2月12日付検証調書中にも顕著な傷は発見しないという記載があり、我々も小畑の死体に傷を認めなかったのである」。
(私論.私見)(ボソボソ)

 「格闘」にもならぬまま押さえ込んだんではないの。死因については別稿で分析しようとは思っているけど。「検証調書中にも顕著な傷は発見しないという記載があり」というような記載がどこにあるのかな。夥しい損傷が記録されているけどね。嘘をこうまで公然と居直れるあなたの性格が怖い。

 なお、宮顕は戦後になって「月刊読売」(昭和21年3月号)誌上で次のように明らかにしている(今度はチャチャ入れないことにする)。

 「事態の重大性を直感し、私もとびおきて木島とともに小畑の傍らへよった。小畑は、大声をあげ、猛然たる勢いでわれわれの手をふりきって、暴れようとする。私たちはそれを阻止しようとして、小畑の手足を制約しようとする。逸見は小畑の大声が外へもれることをふせごうとしてか、小畑が仰向けになっている頭上から、風呂敷のようなものを小畑の顔にかぶせかけていた。私と木島は、小畑の手をそれぞれ両腕でかかえ袴田は足をかかえて、みな小畑の暴れるのをとめようとしていた。すると、そのうち小畑が騒がなくなったので、逃亡と暴行を断念したのだと思って、私たちは小畑から離れ、事態が混乱に陥らなかったことをほっと一安心した状態であった。そこへ、秋笹が階下からあがってきて、だまって小畑のおおいをとった。すると、顔色がかわり、生気を失っている。これはまったく予期しない事態であるので、ただちに秋笹が脈を取り、人工呼吸をはじめ、さらに私がつづいて、柔道の活をこころみ、それを反復したが、小畑の意識はついに恢復しなかった」。

 これらの陳述がその通りなら良いのだけれど、こうした宮顕証言によると、引き倒された小畑に対しての取り押さえ側の位置は、袴田が小畑の足のほう、 逸見は頭の方にいた。木島は宮顕の反対側で暴れる小畑の手を止めようとし、宮顕は小畑の右手を小畑の横に座って両腕で抱きかかえる形で止めていたということになる。

 暴れようとする小畑をどうやって「止める」のか想像出来るが言葉は至って柔らかい。「ちょっと騒いだぐらい」の出来事だと言いなしてもいる。袴田証言、逸見証言、木島証言との食い違いとして、「(小畑が)声を立てようとするので逸見は声をたてさせまいと口の辺りをおさえた」と逸見の行為による窒息死の可能性を積極的に示唆している点と、「私らは彼の手をねじったことはなく、また頭へ手を回した事実もない。胸、腹部を強圧した事実ももちろんない」と当人の行為の無関係を強く主張していることと、小畑の救命活動に尽力したのは自分と秋笹だけだったという評価点の主張が注目される。
補足すれば、言わずもがなではあるが、小畑取り押さえに向かったのは木島と共に一番最後でもあったということを自ら主張してもいる。 

 戻る


題名/宮顕弁明がウソであることが判明したら断乎除名されるべきではないか

 以上を踏まえて、私は次のことを言いたい。「査問事件」の全体的経過に対して、当時の情況を理解するという観点から、今日でも非は非として認めた上で宮顕の党史的評価をしようとする者も少なくない。しかし、そういう人たちも、当人がこのような主張をし続けていることを知った上で宮顕評価をする必要があるであろう。もし、この語りが全体的に大嘘であったとしたら、逆にこれらの弁明だけで宮顕は除名されるに値するのではなかろうか。

 人は時として過ちを犯すことはある。問題はその際の責任の取り方が大事であり、「知らぬ存ぜぬ私は関係ない」、検挙以来宮顕盲信癖をすっかり醒ました「部下の木島は理論が低い」と言い張る態度はもっとも愚劣とみなすべきではなかろうか。この後でみるが、査問直後木島は宮顕の口から党中央委員候補に大抜擢されていることを思えば、木島を「ノータリン」扱いすればするほど宮顕自身の責任にも及ぶというのが尋常の感性だと思うが。

  「査問事件」で見せる宮顕の態度はそのようなものであり、宮顕のそういう性癖を知れば、氏が戦後の党活動で果たしてきた語り、行ないについても右同様再精査されねばならないのではなかろうか。そういう人物が長年党の最高指導部で実権を握り続けていたことになるこの党は一体何なんだ、ということになるのではなかろうか。野坂問題も本当はこういうセンテンスで総括されねばおかしいように思うけど。


 ところで、宮顕は、自身の弁明内容と大きく相違する陳述を行なっている逸見、多少の違いを見せている木島・秋笹証言に対してどのように対応したのであろうか。これを逐一見ておくことも意味があるがごく簡単に記すことにする。宮顕は、「宮本第八回公判調書」、「宮本第九回公判調書」等で、逸見・木島・秋笹証言に対してそれぞれ次のように論評を加えている。

逸見  逸見は薬物依存性患者であり、従って逸見の陳述は客観性に乏しいものと言わなければならぬ。
木島  木島は没主体的な言いなりになる男で、査問当時は意のままになったが今は特高の云うままにリードされている。(前掲文に続いて)それがはっきり判らないようでは、他の陳述も信用する事は出来ない。木島の陳述はその点が曖昧である以上、他の陳述も曖昧であると言わざるを得ない。木島の云うような左様な事はさらに無い、 断じてない、私との対話等の陳述が全部相違している。
秋笹  秋笹は、現在思想的動揺と情緒不安定期にあり(ボソボソ 獄中にいる身としてはこれも地獄耳だなぁ)、良いことも言うが間違ったことも言う。良いことの方は、今回の査問の正義性を確信していることと、宮顕の暴力性をさほど指摘しないことと、小畑の死因を逸見の頸締め窒息死ではないかと推定していることにある。

 間違った認識は、袴田・木島もまたスパイであった可能性があると言ってみたり、赤旗号外でのプロレタリアートの鉄拳云々を党内スパイに対する鉄拳制裁を加えることだというような意味に解釈していることに認められる。これは彼の誤解であり、プロレタリアートの強固な意思という意味に解すべきである」(ボソボソ 何だか今日的な、プロレタリアート独裁を執権と読みかえるべきだという発想に通じる気がするが)。

 ここで宮顕の対逸見・秋笹・木島観では偏りが過ぎるので、彼らを良く知る他の者の対逸見・秋笹・木島観も披露しておく事にする。まず逸見について。当時農民運動組織の共産党フラク責任者で、逸見としばしば連絡を取り合っていた宮内勇氏は、「物静かで、気の弱いインテリといったタイプの人であった」と記している。大泉ですら「逸見が一番人間が善く凡そリンチとは縁遠い部類の人間です」と述べている。こういう逸見像は他の論者からも指摘されている。

 次に秋笹について。当時秋笹との関係が深かった清家〈寺尾〉としは、その著「伝説の時代」で、「もとから神経の細かった秋笹は、リンチ事件以来強度の神経衰弱になり、ひどい強迫観念に襲われていた」と記している。木島について。木島については言及本が見当たらないので、おって記すことにする。

 「査問時の拘束」について、元党幹部の亀山幸三の次の指摘がある。

 概要「査問でのスパイの拘束は、本人の同意を得て静かに進められたといっているが、これこそ勝手きわまる一方的な詭弁である。どこに手足を縛られ、殴られ、ピストル、刃物で脅迫される査問と監禁に対して、それを事前に同意する被疑者があろうか。宮本と袴田らは、こういうことを今でも公然と主張する。こういう横車がまかりとおっているが故に、私は、このリンチ査問事件は、単に40年前の事件ではなく、現代の生々しい事件であると主張するのである。この真実はどうしても究明されなければならない」(「代々木は歴史を偽造する」)。

 袴田が1978年になって出版した「昨日の同志宮本顕治へ」(62ー63P)に次のような興味深い史実が明かされている。それによるとこうなる。

 概要「立花隆氏の『リンチ事件の研究』が発表されて以来俄かに関心が強まりつつあった1975.12.9日、宮顕より「どうしても話したいことが有るから、自宅まで来て欲しいとの呼び出しがあり、宮顕邸まで出向くことになった。防衛隊員のほか小林栄三が控えていた。宮顕は、雑談もそこそこに、怒鳴りつけるようにして、袴田の『党と共に歩んで』の大泉、小畑問題に関する個所の記述で、小畑の体位が間違っているといい始めた。袴田は一瞬呆気にとられた。何で今更この男は今頃になって40数年前の出来事を蒸し返すのかが理解できなかったからである。

 出版後10年も経っており、党の学習参考文献にも推薦されている著書の内容について、宮本が突如あれは間違いだ、訂正しろ。袴田が書いているように“宮本が小畑をうつ伏せにして組み伏した”のではなく、“小畑は仰向けだった”。小畑は声も立てずに死んだのだということに、同意させようとし始めたのである。

 私は何も間違ったことは書いていないのだから、一歩も退かなかった。と、宮本はますます激昂した。宮本の細君は、亭主の余りにもな激昂ぶりに気押されたのか、盆をテーブルに置くや否や、後ずさりして出て行った。宮本は一体何を恐れたのか。が、今になってみれば、彼の腹の中は明白である。真実を恐れ、自分にやましいところのある彼は、立花論文によって自分に都合の悪い事実が露呈することを恐れたのだ」。

 題名/ 小畑の死亡原因の推定について

 以上の様子から考えると小畑の死因は様々に考えられる。少なくとも関係者の突発性対応による「致死」事件であることには相違ない。この経過からすれば、直接原因は、

 小畑の全力反発による「脳溢血死」か
 逸見の手による「喉締め窒息死」か
 宮顕の背中からの「圧迫死」か
 当事者全員による突発性対応型の「暴行致死」ないし「外傷性ショック死」か
 当事者全員の暴行による「脳しんとう死」か

 ということにな るであろう。(5)の当事者全員の暴行による「脳しんとう死」はもっとも考えにくいが、最初の「村上・宮永鑑定書」が「脳しんとう死」の可能性を中心に据えて詮議したことにより、不自然なことに小畑の死因は「脳しんとう死」でありや否やをめぐって争われることになった。

 「村上・宮永鑑定書」が「脳しんとう死」を鑑定結果した理由は、小畑の遺体発掘時の稿で少し詳しく触れようとは思うが、 遺体に暴行的損傷が多々認められたことにより、小畑死亡時の具体的な様子を理解しないままに損傷の程度から判断して結論づけたものと思われる。これに対して、後で出される「古畑鑑定書」は、小畑死亡時の具体的な様子を精細に理解した上で、「外傷性ショック死」を鑑定することとなったという違いがある。

 秋笹被告事件第二審判決文では次のように判断された。宮本判決でもほぼ同様文が採用されている。

 「小畑に対し、頭部、顔面、胸部、腹 部、手足等に多数の皮下出血その他の傷害を負わしめ、遂に同人をして前記監禁行為と相まって外傷性虚脱死(外傷性ショック死)によりその場に急死するに至らしめたるが云々」。

 ところが、宮顕は、戦後になってこれらの原因説を一蹴して、(6)・「異常体質性ショック死」という死人に口無し説を主張し始めた。 この捉え方に近いものとして(7)・「自然死−心臓麻痺死」も出てくる。(8)・宮顕が「梅毒死」の可能性にまで言及していたことは既に指摘したところである。(9)・袴田は「脂肪による心臓肥大ショック死」も推定して見せている。以上、小畑の死因については上記9説が考えられることになる。このうち宮顕の(6).(7).(8)説、袴田の(9)説は、表記5説までと大きく性格を異にした大変不自然、狡猾な説ではあるが、当事者の弁明であるから無視することは出来ない。

 とはいえ、宮顕は戦前の公判陳述においては5説までの容疑を前提にして免責を争ったようである。戦前の「宮本公判判決文」(昭和19年12.5日)を見ると、宮顕は、「正当防衛説」と「党内問題説」(党内問題であり階級裁判にはなじまないとする説)を主張していた様がうかがえる。「正当防衛説」としては次のように主張している。

 概要「被告人(宮本)は、大泉及び小畑は従前より著しく党内を攪乱し、道徳的堕落を招来せしめつつありたる為、同人等のかかる急迫不正なる侵害に対しこれを防止せんとして、その自由を拘束したるものなるをもって右行為は正当防衛に該当し、不法監禁にあらざる旨主張すれども云々」。

 「宮本公判判決文」にかく記されているからには、宮顕はそのように主張していたのであろう。が、判決では次のように却下している。

 「(これらを口実に−私の要約)これをもって被告人等の法律上保護せられたる法益を侵害する急迫不正の侵害行為なりと云うことを得ざると共に、被告人等の為したる監禁行為がやむを得ざる行為なりとは認め得ざるをもって、これを正当防衛なりと云うことを得ざるところなれば、右主張はこれを排斥す」。

 「党内問題説」としては次のように主張している。

 概要「被告人(宮本)は、大泉及び小畑の両名は党員にして党の規約決定に服従すべきことを承認しつつ『スパイ』活動を為さば、党規約により監禁査問を受くべきことは予め承諾しおりたるものと認むべきのみならず、本件査問開始に当たりても同人等は承諾したるものなれば、なんら右監禁行為は不法のものにあらず」。

 「宮本公判判決文」にかく記されているからには、宮顕はそのように主張していたのであろう。が、判決では次のように却下している。

 「被告人の主張の如くたとえ大泉、小畑の両名が入党の際に党の規約決定に対する無条件服従を応諾したる事実有りとするも、これをもって違法性阻却原由となすを得ざるをもって被告人の右主張もまた採用するを得ず」。

 ところが、戦後になって宮顕は、「月刊読売」(昭和21.3月号)に、「赤色リンチ事件の真相」という見出しの元に「スパイ挑発との闘争」を発表し、小畑の死因について、あれは「異常体質によるショック死だった」と発表するところとなった。次のように主張している。

 概要「小畑の死因を、最初の『村上・宮永鑑定書』は、脳しんとうであるとしたが、事実かれが暴れ出した時、なにびとも脳しんとうを引き起こすような打撃を加えていないのである。そうして再鑑定による『古畑鑑定書』は、脳 しんとうとみなすような重大な損傷は身体のどこにもないこと、むしろ『ショック死』(特異体質者が一般人にはこたえない軽微の刺激によっても急死する場合を法医学上、普通ショック死という)と推定すべきであるとした。そして、裁判所もついにこの事件を殺人未遂事件として捏造することが不可能となった」。

 この主張の欺瞞性は、「再鑑定による古畑鑑定書」が、「脳しんとう死説」を否定して(ここはまぁ合ってる−私の注)、むしろ「ショック死説」と推定すべきであるとした(ここが詐術である。注意深く単に「ショック死説」としている。−私の注)と言う言い回しにある。

 実際に「古畑鑑定書」を読んでみたら判るが、 古畑氏は、判決文の中で「ショック死」の学問的解説はしているが、小畑の死因を宮顕の云うような「ショック死」ないし「異常体質性ショック死」とは鑑定してはいない。追って小畑の遺体発掘時の稿で述べようと思っているが、様々な要因が複合した「外傷性ショック死」と鑑定しているというのが実際だ。

 宮顕は、自己流の事件の経過を語った後、主に「脳しんとう死」を否定しながら(打撃を加えず押さえ込んだのが事実であるから、打撃性に依拠した「脳しんとう死」説を否定するのはたやすい)、他の窒息死、脳溢血死、圧迫死、暴行致死、外傷性ショック死の可能性について右同様である的に一括して一蹴し、あたかも「古畑鑑定書」がそう云っているかの如くな誤読を招くような言い回しで「異常体質性ショック死」か「心臓麻痺死」に誘導しようとした。

 本来は、もっとも蓋然性の高い「外傷性ショック死」こそが詮議されるべきであろう。「古畑鑑定書」もそのように鑑定している。その詮議をせずにもっとも蓋然性の低い説を順次並べ立てこれを否定することにより自身の主張する説に導こうとしている。こうなると、もはや我々は、この現場において、宮顕のこうした「はぐらかし論法」が氏の最も得意とするやり方であることを、怒りを込めて確認すべきであろう。

 宮顕の他の著作に目を通しても思うことであるが、この「はぐらかし・すりかえ話法」と歪曲.詭弁と折衷主義と「客観的あるいは大局的話法」が氏の常套話法であり(不破になるとこれに饒舌が加わるが)、我々はこうした論法とはそろそろ決別しても良いのではないだろうか。私自身はもううんざりだ。こうして、今日においても小畑の死因は外傷性か窒息性か異常体質かをめぐって定かでないという世界に誘われ、うやむやにされるに至った。

 話は変わるが、「リンチ共産党事件の思い出」の中で平野氏は貴重な証言をしている。昭和35年6.19日安保改定阻止闘争の最中、平野は手塚英孝(宮本の入党時の推薦人であるという同郷昵懇の文芸作家)と会った。その時のエピソードで、手塚が「査問事件」に関する作品発表をなそうとしていた事に関して、平野が「進んでいるか」と尋ねたところ、大要「実は宮本の検閲に引っかかりましてね。作品発表を見合わせました」(「リンチ共産党事件の思い出」68P)という返事がなされたことを明らかにしている。従って、この時から5年後に発表された手塚の作品「予審秘密通報」(文化評論.昭和40年12月号)は、宮顕の検閲を通過した作品であることが逆に知れることになる。

 してみれば、袴田の著作「党とともに歩んで」のこの部分の記述も、当然検閲通過させられていることが想像されることになる。ということは、いわずもがなではあるが、「党とともに歩んで」中の「査問事件」の記述もこのセンテンスで読まねばならないということだ。袴田が後日党と袂を分かったことを見てこれを正確視する向きもあるが、「党とともに歩んで」は宮顕との蜜月時代の著作であるからして、随分曖昧化されていることを知っておくべきであろう。

 ここで不思議なことがある。少々既述したが、大泉は一部始終目撃していたと思われるが、「再びテロを加えられた結果私は意識を失ったらしく、私が意識を回復したのは翌日の夜の8.9時頃でした」(大泉16回調書)と述べて、小畑死亡時の陳述を意識的に避けている観がある。したがって、その前の大泉の被暴行陳述は、意識を失ったことのつじつまを合わせるための過剰作為が考えられることになる。

 それはともかくとして、袴田と秋笹他の調書では、小畑死亡は大泉査問中の出来事であるのだから、大泉がこの間失神していたというのはおかしい。なおかつこの時点では大泉の頭被せははずされていると読むのがリンチ事件の流れであり、そういうわけで私は、「何らかの意図」で陳述を避けているとみる。大泉は、小畑死亡時の様子について予審廷でも公判廷でもしゃべっていない。つまり小畑死亡時の現認陳述がない。これを更に考えると、そもそも予審廷において予審判事がその時の模様を突っ込んで聞いていないことになる。予審判事はなぜ大泉に問いたださなかったのだろうか。普通はありえないことである。小畑致死に関して当事者の弁明が微妙に異なっていることを考えれば、なお更大泉の現認陳述が貴重になるところである。いわばキーパスンの立場であろう。その大泉の陳述が「失神中」という舞台設定で沈黙させられている。奇異なことであろう。

 補足すれば、大泉自身この最重要事に対して沈黙したことを気にしていたようである。大泉の最終調書になった第19回調書で短い遣り取りをしている。予審判事の「これまで申し立てた事で訂正又は補充することはないか」 という問いに対して、次のように陳述し哀訴している。

 「小畑の殺された前後の模様についてあるいは自分の感違いや記憶違いの為事実と相違したことを申しだてたかも知れませんが、とにかくあの際、意識朦朧とした状態で自分の見聞したことを申し立てたのでありますから、もし間違ったことがあってもご寛恕を願います。それ以外の点については別に申し上げる事はありません」。

 と、わざわざ「小畑の殺された前後の経緯」部分につき「事実と相違したことを申しだてたかも知れません」とウソ陳述であることを自ら認め、「もし間違ったことがあってもご寛恕を願います」と結んでいる。つまり、云うに云えない裏事情があり、その辺りの忖度を頼むという構図になっている。


 れんだいこは次のように考えている。まだまだ明らかにされていない調書があるとは思うが、おおよそにおいては小畑の死亡経過はここに記したようなドラマ通りであったものと思うので、突発性対応型の暴行致死とみる。肝心な点は、「食事を給せずして監禁を継続」というこの間5食分食事が与えられていないことと、長時間査問による体力消耗の極致にあったところへ、最後の死力を尽くして逃げ出しを図ったところを集団で押さえ込まれたことによる、「突発性急性疲労・過労ショック性暴行致死」ではなかったかと思う。こういう場合、医学的に正式にはどう言うのであろうか。

 なお、暴行のうち誰の暴行が決定的要因であったのかを特定することにどれだけ意味があるのかは判らないが、考えられるとすれば、逸見による窒息死か宮顕による圧殺死であるように思われる。ただし、逸見による窒息死の場合は、喉を締めたのか背中側の頸を締めたのかが多少問題となるが、どうやら袴田の指摘する通り後者のようである。ということは、袴田の 「生涯を通じて、これだけは云うまいと思い続けてきた」告白こそ真相を吐露しているのではないかということになる。

 ところで、小畑に暴行が加えられていたことさえ否定しようとする見方が今なお根強くあって議論されている。そういう方たちに参考までにお伝えしておくと、内務省警保局保安課刊行の極秘文書〈特高月報〉昭和9年1月分は、「小畑達夫惨殺事件」、「大泉・熊沢惨殺未遂事件」とタイトルを付けている。否定論者は、警察が意識的にフレームアップしようとしてこういう表題を付けていると窺うのであろうが、私の考えでは、これは内部通信でもある点を考えるとフレームアップ視は少々穿ちすぎではないかと思わせていただく。惨殺とまではいかないまでも結果的には暴行致死事件であったことは疑いないように思っている。

 ところで、この査問による小畑の死亡が当時どのように伝えられていたかについての貴重な資料がある。1946(昭和21)年2.15日発行の人民社から出版された「日本革命運動小史」が刊行されている。これは佐和慶太郎氏、芝寛、松本健二らが主催する人民社が、1944年8月に在中国日本人解放同盟の機関紙に載った「日本革命運動小史」論文を英語から翻訳して出版したものである。「日本革命運動小史」は、延安に結集していた野坂らが中心となって、その機関員等の手で「ソ同盟共産党史」にならってわが国の革命運動の歴史を概括したものであった。主として鹿地亘の手によってまとめられていたと伝えられている。

 
この小冊子には、最後の方に宮顕らのリンチ事件が取り上げられていて、次のように記述されている。
 大要「党中央にスパイがいる事実が判明したため、党全体の破壊を防ごうとの自己防衛のために秘密裏に殺すことを取り決め、小畑達夫を殺害した。非常手段を用いて、党は危機を切り抜け、当座の間裏切り者と破壊者の活動を阻止することができたのである」。

 明らかに宮顕らをおとし込めようとしているのではなく、逆にそのスパイ摘発闘争支援の左派的観点で記述されていることが分かる。これが「査問事件」に対する当時の党員間での一般的な了解の仕方であったように思われる。

 但し、これには後日談があり、 同年4.23日アカハタで「党声明」として、「人民者発行『革命運動小史』/ゆるしえぬ誤謬/即時発売停止を要求す」という小見出しの記事が掲載されている。宮顕のイニシアチブによるものと推定できる。佐和は党本部に呼びつけられて、長文の自己批判書を書かされることになった。こうして、人民社は「党声明」に応えて絶版にすることにしたという。この経過は、宮顕の出版妨害事件の最初の事例となっており、結果として、宮顕のイニシアチブは一出版社の生殺与奪に関与したことになる。

 が、実際には在庫品に修正の貼り紙をつけるという方法で改訂したようである。その改訂版では次のように記述されていた。
 「党のごく近くにスパイを発見した。12月下旬、党中央部はスパイを査問に附した。スパイは罪状の逐一を白状したがその直後、スパイの一人が逃走を企て騒ぎはじめその男は突如死亡した。(後にこれは鑑定書によって法医学上ショック死であると推定された。委員達は公判に於て自然死−心臓麻痺との推定を主張し、あくまで鑑定を求めた。 いづれにしろ階級裁判も殺害でないことは認めざるを得なかった)。だが警察はそれを発見するやデマをふり撒いた。新聞紙はリンチ事件∞共産党の殺人事件≠ニきちがいのように叫んだ」。

 
ここでもトリックが使われていることが分かる。小畑は当時4名しかいなかった中で、宮顕の先輩格の中央委員であったが、その立場が消され、「党のごく近くにいたスパイ」、「その男」と貶められている。事情を知らない者がこの話法を聞かされるとなるほどと思わせられるであろう。これも宮顕の常套手段であるが、相手を徹底的に無知なままにしておき、得意の文章術で如何様にでも言い含めるという遣りかたの一例としても、この出版差し止め事件には値打ちがある。

 
もう一つここで触れておくことがある。栗原幸夫氏の貴重な証言がある。逸見は予審調書で小畑死亡時の宮顕の関与ぶりをあからさまに語ったが、戦後再会することになった逸見に見せた宮顕の態度が次のようなものであったということである。栗原幸夫氏が著書「戦前日本共産党史の一帰結」)の中で、次のような貴重証言している。
 「昭和21年、敗戦の翌年に、当時、岩波書店から刊行される予定であった野呂栄太郎全集の編集の仕事を私は手伝っていた。その編集委員の一人にリンチ事件の逸見重雄が居た。まもなく宮本顕治から強硬な異議が出て、彼は編集委員会から去った。逸見のような裏切り者を入れることは、野呂を冒涜するものだという宮本の申し入れによったのである。逸見は長い手紙を野呂未亡人に送って我々の前から姿を消した。私はまだ二十歳になるかならないかの学生だったが、宮本の強さにひどく胸をつかれたのを今に覚えている。

 逸見が逮捕されてすぐ屈服し、官憲の要求するような供述をすすんで行ったのが事実であったとしても、また、そのような人間が野呂の全集をつくるという仕事に相応しくないという宮本の主張が正当なものであるにしても、やはり少年の私には、かって野呂の秘書であり協働者であった、銀縁眼鏡の学者風の物静かな逸見が気の毒に思えてならなかった」。

 もう一つ。宮顕の異常体質性ショック死論法が特高の拷問死の発表の仕方とよく似ていることを確認しておこうと思う。「特高警察黒書.124P」以下を参照した。党中央委員岩田義道は、1932.10.30日検挙され11.3日警察病院で絶命したとされている。拷問死は歴然であったが、警察病院は、「肺結核を患い、脚気衝心で死んだ」という死亡届を出した。記事解禁後の新聞報道も、「岩田は肺結核の上に脚気を患っており、逮捕以来連日暴れ狂ったのが原因」(東京日々新聞号外)と、警視庁特高課の発表そのまま書いている。だがしかし、遺体を引き取った者の証言によれば、概要「大腿部は恐ろしく腫れ上がって暗紫色を呈しており、目も当てられぬ様になっていた。特殊の拷問用具によって圧殺したものと思われる。足と手には肉に食い入った鎖の後が残っており、胸部に打撲様の内出血が見られ致命的なものである」と伝えられていることは衆知のところである。

 著名なプロレタリア作家小林多喜二は、33.2.20日検挙され即日死亡したが、警視庁は「心臓麻痺による急死」 と発表し、遺体の解剖さえ妨害した。事実は即日なぶり殺しの拷問死であった。毛利特高課長は、「調べてみると、決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げ回るうち、心臓に急変をきたしたもので、警察の処置に落ち度はなかった」と述べている。今日遺体写真が残っているので死因の真相について私が敢えてのべるまでもないが、おおよそ心臓麻痺説を単に信じる者はおめでたい人というべきであろう。

 宮顕の「異常体質性ショック死」論がこの特高の口上と如何によく似ていることだろうか、と思う。宮顕の言うことを真に受けるあたりのとこまではその人の勝手であろうが、それを人に吹聴するなどは余程の赤面士であることを自認していただかねばなるまい。


 戻る

 (補足)題名/ 不幸な時代の不幸な出来事  木村・1999.11.17日

 れんだいじさんの空前の力作が連日投稿されています。私は過去にも投稿 していますので、私のだいたいの考え方はおわかりいただけると思います。 「スパイ査問事件」については、ロッキード事件が発覚する直前に、国会で春日一幸氏(旧民社党委員長)が取り上げたことによって世間の注目を集めることとなりました。さらに、立花氏の著作が発表され、「犬はほえても歴史は進む」という「赤旗」紙上の反論があったことは覚えています。その後、何度か断続的に反論が続きました。私の記憶では、野坂氏の『風雪の歩み』(「前衛」)に続いて、袴田氏も回顧録風の連載を同誌上にしたことがあり、それを読んで、詳細は忘れましたが「あれれ、袴田氏がこんなこと(宮本氏にとって具合の悪いこと)を書いていいのかな」と思うような下りがあったことも覚えています。

 その当時の私の対応はどのようなものであったかということを書きます。立花氏の著作等はまったく読みもしないで、基本的には「赤旗」紙上に掲載される記事を読んで納得しました。某巨大宗教団体のカリスマが、わいせつ行為をしたということが週刊誌に報じられたり、その団体の反社会的な行為を暴露する報道があったときに、私は、その信者(私にとっては親しい人でしたが)に対してこれらをどう思うか? と聞いてみました。それは「ためにする批判だ」という一言でした。いま思えば、私もその信者も似たようなものでした。

 その私が、今、苦痛を覚えながらもれんだいじさんの投稿を読み続けるのはなぜでしょうか。この間に300年ほどの歳月が過ぎ、日本共産党も大きく変わってきました。今日、私は 日本共産党中央の路線に大きな疑問を抱いていますが、その疑問は一夜に して生まれたものではありません。最初は、「大衆闘争をやらない」、「拡大と選挙だけ」という程度のことでした。この程度のことは一般党員なら平気で言うことができます。しかし支部担当の党の専従に何回言っても事態は改善されませんでした。さらに羅列すれば、原水禁運動、たとえば古在さんとの軋轢 (古在さん死亡記事さえ「赤旗」には載らなかった)、統一労組懇の結成、「新日和見主義」への対応、「人民的」議会主義路線、ソマリアへの米軍の派兵に賛成する宮本議長の発言…、そして近年では、不破政権論、日の丸・君が代…などの問題が、マルクス主義の古典から学んだことや私自身の実践活動から学んだことに照らしてどうしても「おかしい」と思わざるを得なくなり、疑問として胸の中に沈殿していきました。

 そういう疑問は、一面では理論的上の課題として考えなければならなかったし、他面では日本共産党の固有の体質のようなものに向けられていきました。 良きにつけ悪しきにつけ、日本共産党の今日の基礎を築いた宮本氏に目がいくのは当然のことでした。党員であれば、日本共産党の「はてな?」の部分について誰でも多少は考えており、少なくとも年輩の党員の中では「宮本無謬論」は、れんだいじさんがいうほど堅牢なものではありません。私自身の「党中央の路線への疑問」の変遷は、具体的なもの、個別のことがらから、より抽象化されたものへ、より一般化したものへ発展していったように思います。このことは認識論的にいってもだいたいそうであろうと思います。現状では、結集している多くの党員が日本共産党の現在の路線を支持しており、また、特別に宮本氏への批判的な評価をしているとも思えません。

 今日の日本共産党の路線の抱える「諸問題」を「50年問題」にまでさかのぼり、かつ、宮本氏の強烈な個性をキーワードとして解明するという発想はユニークですが、あまり唯物論的な方法だとは私は思いません。私の考えでは、も し、党内で宮本氏に対するほぼ正確な評価が定まることがあるとすれば、それは現在の政治路線が全体として検討された後になるでしょう。れんだいじさんがいうように、「現下の経済不況に伴う大衆の呻吟」という政治情勢の特徴から考えても宮本氏に対する評価を定めることは急を要するも のだとは思われません。党外から日本共産党を批判されることは自由でしょうし、「さざ波」編集部も 設立の趣旨からいって、よほどのことがない限りその投稿を掲載するでしょう。 誤解のないようにいっておきますが、私は日本共産党の現指導部に対して批判的な立場の党員です。そして、その批判的立場の核心は「綱領路線の擁護」です。また、個人的には宮本氏に対してもそれほど肯定的な評価をしているわけではありません。

 現在、少なくない一般の日本共産党員は職場におけるさまざまな差別や偏見と闘いながら日々苦労して活動をしています。彼らの献身的な努力は是とされなければなりません。これらの人々こそ日本共産党の主人公です。これらの人々は、かつての私がそうであったように、おそらくれんだいじさんの投稿の内容を肯定的には受けつけないでしょう。これらの人々の中には、このサイ トの存在さえ「反党的」と考える人が少なくありません。しかし、彼らとて日々の実践の中でさまざまな疑問にぶつかるわけであり、具体的な政治上の問題について疑問を持つでしょう。そういったときにこのサイトをのぞき、投稿していく党員がしばしばあります。れんだいじさんは引き続き投稿を続けられればいいでしょうし、それを止めてほしいなどという気は更々ありません。ただし、れんだいじさんが党指導部の現在の路線を懸念されるならば、そういう一般党員の存在を念頭に置いて執筆されることを希望します。おそらく、私の考えは「さざ波」にときどき投稿する党員の受け止め方とそれほどかけはなれてはいないと思います。

 さて本論ですが、れんだいじさんの「敗北の文学」に対する評価はたまたま私が考えていたことと通じるものがありました。たとえば、「将軍」という小説が あります。あれなどはあの時代に書かれた小説としては高く評価してもいいと思います。

 「スパイ査問事件」に関する投稿を毎日読ませていただいていますが、私は別な面つまり、歴史的な背景を考えています。暗黒の天皇制支配の中で「天皇制打倒」、「侵略戦争反対」を掲げて闘った日本共産党の歴史はあまりにも重く、日本共産党の一員としてこれを否定的に評価することはできませんが、 検討する価値がありそうな点を紹介しておきます。 れんだいじさんの投稿にも詳しく書かれていますが、戦前から戦中にかけての日本共産党はその存在さえも許されないほど弾圧を受けました。有名無名の党員が逮捕、拷問、虐殺されました。また、党内には無数のスパイが放たれ、疑心暗鬼の状態が蔓延しました。まずもって、残虐で卑劣な天皇制権力、特高警察が断罪されるべきです。

 当時の日本共産党にはほとんど大衆的基盤がありませんでした。この意味で、当時の日本共産党の現実的な影響力は皆無に近かったといえるでしょ う。これは第一義的には天皇制権力の弾圧によるというべきでしょうが、一方で、党の綱領上の問題はなかったか、という疑問があります。エンゲルスが、「1891年の社会民主党綱領草案への批判」(「エルフルト綱 領批判」)の中で、興味深いことを述べています。社会主義者取締法が廃止になって間もない時期のことですが、これが復活するのを恐れたのか、この綱領の中には(君主制の廃止を意味する)「共和制の要求」が入っていませんでし た。これに対して、エンゲルスは「共和制のことはやむをえなければ避けてと おりすぎることもできる。…ぜひともいれなければならないし、また、いれることができると思われるのは、全政治権力を人民代表機関の手に集中せよという要求である。そして、もしこれ以上にすすむことができないならさしあたっては これだけでもよい」としています。当時のドイツ社会民主党は党員数、得票率、 議席とも戦前の日本共産党とは比較にならないほどの大きな政党でした。

 加藤哲郎氏のHPに「1922年9月の日本共産党綱領(上)」という氏の労作があります。党の創立年月日についても異説を紹介してありますが、これによれば当時の綱領には「天皇制問題が不在」であったとのことです。通説とは著 しく異なることになります。私にはこれをどう判断してよいのかわかりませんが、「君主制廃止要求」があるいはコミンテルンからの「強力な指導」によるものであった可能性もあります。 当時のきわめて強力な天皇制によるイデオロギー的支配を考えれば、「君主制廃止要求」が当時の日本共産党の存立基盤を著しく狭めることとなったこと も考えられます。エンゲルスの柔軟な思考を参考にすれば、当時の日本共産党のあり方をもう一度考えてみることも必要かもしれません。

 繰り返しますが、私は当時の日本共産党の存在を全体として崇高なものであったと評価しています。あの状況の中ではたがいにスパイではないかとして査問しあうような事態は避けられなかったという感じがしてなりません。当時の法制をよく知りませんが、おそらく官憲による死に至らしめるような拷問が許されていたわけではなかったでしょう。にもかかわらず、ほとんど白色テロルに近い形で党員の命が奪われるという状況で、つまり武力弾圧に等しい状況があって、もしスパイあるいはその容疑が極めて濃厚であることが判明したら、(査問が宮本氏の述べる様子とは異なる、れんだいじさんの描く状況であったとしても)、「任意の調査」程度のものですますことができたでしょう か。結果として宮本氏も袴田氏も生きて戦後をむかえることができたのですが、それはあくまでも結果です。天皇制権力と日本共産党との闘いは文字通 り生死をかけた闘いであったことは、当時の日本共産党の路線についての評価は別にして、事実として認めなければなりません。誤解を恐れつついいますが、ここに大衆的基盤が薄弱な左翼の闘いの収斂する姿を見いだすのは私だけでしょうか。私には不幸な時代の不幸な出来事 としか表現のしようがありません。そして、小畑氏がスパイでなかったとしたら(れんだいじさんの投稿によれば、そのことに関する傍証には説得力がありますが)、それは何としても歴史に銘記されなければならないでしょう。特に彼の母親の話は印象的でした。


 戻る 


 (補足)題名/ 木村さんへ 1999.11.19日

 この度はご返信ありがとうございます。書き上げる私の方も大変でそろそろ潮時かなとも考えています。ただし、「査問事件」に関連した前後のところまでは完結しておこうと思っています。この間政治的影響も考慮しつつ投稿が上滑りせぬよう進めてまいりたいと思います。今後とも忌憚のないご交流をさせていただけますよう私の方からもお願い申しあげます(ちょっと一言。私の理解による木村さんの出足の文章はいつも感性的に私と同じです。ところが後半になるとよれてくるというか党の公式論に寄り添った傾向になります。私は木村さんの前半の問題意識を意固地に拘り続けてきているということになりますが、 お互いこの辺りは時局認識等でご意見交流させていただきたく存じます)。

 「査問事件」の考察は本来党外の私がせねばならない必然性はないのですが、宮顕ご神体無条件護持派と興ざめ派と罵詈雑言派とが感性一つ頼りに混在しているだけという状況が今日まで続いており、いずれにも共通するのは没実証性です。これは不真面目な精神と考えています(私が真面目だという意味で言っているのではなく、とかく人のことは批判しやすいというただそれだけのことですが)。

 日本左翼の再生があるとしたら、こういう不毛な対立手法を終焉させることであり、少なくともその役割の一つを私のレポートで果たすことが出来たらという思いを込めて発信しています。なお、この私の投稿につき「さざ波通信」誌上でなされていることを評価していただきたいという思いもありま す。もしこれが反党派のどこかの掲示板でなされたとしたら、そして私の指摘が事実に近いものであればあるほどこの問題につき各党員の党派的立場は苦戦を免れ難いと考えています。少なくとも「さざ波通信」誌上であれば、党の自浄能力の範囲として受け止められうるのではないでしょうか。私はそのように考えています。同時に私の政治的立場も自ずと明らかにしているということにもなります。党のダメージを狙っての伊達酔狂で投稿しているのではありません。その辺りのことをご理解賜れば本望と申せます。

 「査問事件」に関わる没検証性は党の存立根拠に関わる重大欠陥と考えています。ある時に党の中央委員が別の中央委員に査問され死亡しており、死亡した方に冤罪の余地が残されていながらほおかぶりさせられたまま経過しており、死亡させた方が今日の党中央に君臨し続けており、その言いぐさが私が明らかにしつつある通り今日までまるでなっていない言い分で居直っているという状況があるわけです。このことをうやむやにして社会の恥部を暴くだとか変革を呼びかける精神は偽善ぽいというか無茶苦茶であると考えています。

 外に対する要求は同時に内に対するそれでなくては世間が信用しない、世間はそういうところを見ており、このあたりを未切開のままきれい事ばかりを云う者を警戒します。世間はそうは愚か者の寄り集まりではなく、各自が自身の生活体験を元にして常にその真偽を判断しているように思います。

 話がずれますが、身近に自民党の議員がおりますが、連中は政治も利権もエロ話も結構あけすけです。建前よりも本能本意とも云えるバイタリティーを特徴として います。金の力でモテルるのではなく裏表のないエネルギッシュさが支持者を形成しているという面があるように思うわけです。これは選挙レベルのことであり、自民党を党としてどう見るのかというマクロの認識とはずらしたところでご理解ください。

 私は、党の運動もまた同様にそうあるべきではないかと考えています。もっと自由にこうあるべきだという主張を自身で作り出していけば良いのではないでしょうか。その結果が党の政策・方針と一致すれば党執行部の指導性が機能しているということであり、ずれてくるに従ってどちらかがあるいは双方が変調だということになるのであって、それでよろしいのではないでしょうか。福祉だ医療だと言っておりさえすれば、こっちが先だそっちが後だとか言い争っているうちに票がころがり込むだろう的運動は我々を馬鹿にしていると考えています。

 宮顕批判については次のように考えています。世界の共産党運動史の上で、トップ指導者は死して後功罪が暴かれるという不幸な歴史が目につきます。レーニン、スターリン、毛沢東その他ほとんどの各国の指導者の公然批判は棺を閉じて後はじめて生み出されてきたという傾向があります。左翼世界に鎮座するそういう中世的神聖化傾向を打破してみたいという狙いをも併せて持っています。宮顕の生存中にこそその批判を生み出し、釈明を聞いてみる値打ちがあり、おおよそそれは近代民主主義精神の精髄に関係していると私は考えています。

 私の立場も恐らく党員の皆様の本来の立場も、元々を考えてみれば、みんな命に限りある者が何とか努力し合ってよりよい社会の創造を目指そうとして左翼理論にかぶれたのではなかったのでしょうか。そういうボチボチでんなというお互いの限界をさらけ出したところから左翼運動をも再出発させたいというのが私の願いとなっています。本来誰も偉そうにする必要のない党運動に再生させたいと考えています。宗教であれ政治であれ「真理の体現者」的物言いが現れたら警戒する必要があると考えています。組織の幹部あるいは機関の役割でさえ、各自の能力・適正・関心度・人と人との相性度等何らかの合理性に裏打ちされたものを根拠にしてお互いがブリッジ的に繋がる組織論で党組織の再構築が出来ないのかどうかに関心を持っています。党運動の中に絶対的君臨者を生み出す必要が私には判らないのです。みんな人生50年の中である種まじめに、またある種いい加減にそれぞれの生命燃焼しつつ次世代へバトンタッチしているというのが実際なのではないでしょうか。

 私は以上のようなこだわりを持ちつつ宮顕を解析しようとしています。そういう私の思いの対極にいる人物であるからです。指導者の組織内影響を考えることは唯物論的ではないという考えは解せません。そういう認識は平板な唯物論であり、ミクロの現場においては随分と作用力が強いと考えています。宮顕の場合、彼もまたスターリン的な影響力の強い党運動の「時代の子」であったのか、野坂同様当局の意をていして進入してきた元々スパイであるのか判然とはしません。

 但し、彼が一貫して党内の清掃事業として有能な活動分子を排斥してきた事実は隠しようがありません。おおよそ彼が対権力闘争指導において党内統制で見せる以上の獅子奮迅ぶりの記録があったというのであれば教えてください。田中角栄氏政界追放以外でお願いいたします。 あの事件は少々も多少もそれ以上に複雑な事件ですので。仕事の途中なのでまとまりをえませんが、「さざ波通信」を党運動発展を観点に据え、こうして見知らぬ人との幅広い社交場として引き続き活用させていただけましたら冥利です。今後ともよろしくお願いします。


 戻る





(私論.私見)