第13部 れんだいこの宮顕総括論、六全協論

 (最新見直し2007.5.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 宮顕は、2007.5.5日現在存命である。れんだいこは、氏の存命中にこそ宮顕論の総括をしておきたい。能うことなら自己批判させたい。れんだいこがなぜ宮顕批判、不破批判、日共批判に拘るのか。それは、ここを凝視しないと日本左派運動の覚醒が始まらないからである。

 今日的停滞の主因に宮顕理論、不破理論、日共理論の汚染が有り、この汚染と決別しない限り当人の左派意思と別に実践的には反左派運動に勤しんでいるという変態と決別したい為である。新左翼運動はこれを企図して始まったはずであるが物足りない。むしろ、宮顕、不破を左派の変種とみなして、その構図上での批判に明け暮れてきた。しかし、それは違うのではないのか。

 それを思えば、戦後党史上、宮顕疑惑を初めて表明したのは徳球であった。今日ほど戦前活動履歴の証拠が露見していなかったので公的には慎重に言葉を選んだが、取り巻きの連中には「宮顕は怪しい」と述べ、警戒するよう指導していた。れんだいこは、徳球のこの感性を受け継ぎつつ本サイトで宮顕の素性を暴いた。れんだこの宮顕批判に対して、既に「過去の人」を批判しても意味が無いと受け流す向きの者が多い。こういう連中は何も分かって居らず、恥の上塗りしていることに気づいていない。

 まず、宮顕指導をおめおめと許した数十年の党史に対する痛苦な反省がない。次に、自身が、宮顕在任中に宮顕の素性を見抜けず、その指導に唯々諾々してきたことに対する自己批判が無い。更に、ここが肝腎なのだが、今も日共は宮顕が敷いた総路線の中に在り、現代にも及ぼしている悪影響からの脱却の為にも宮顕批判が必要なのだと云う実践的意義を理解していない。つまり、宮顕のスパイ性を見抜けない頭脳は、今現在もそのような愚昧の中にあることを示している。問題を問題として感ぜられない凡庸さで政治議論してもさほど役には立つまい。

 宮顕批判の立場にもいろいろある。れんだいこは、宮顕批判の士というだけで野合はしたくない。宮顕批判を通じて諸々の観点の共同を目指したい。宮顕批判は当然に現下の日共批判に通ずるものであり、左派運動再生の道しるべを作るものでなくてはならないと考えている。そこから更に、何を有益とし何を排斥するのかの議論まで向かいたい。この過程で、本筋から離れた価値観をもったいぶるような流れには唱和したくない。特に、七面倒くさい著作権に拘泥するような見識とは和同したくない。一言言い添えておく。

 2006.9.19日、2006.10.28日再編集 れんだいこ拝


【今なぜ宮顕論なのか】
 以下の宮顕論はれんだいこの畢生の気づきである。当然ながら文言に責任を引き受けることも決意している。敢えてこれを世に問う所以は、ここを経由しないと日本左派運動の再生が無いことを思うからである。我等が左派運動がこの御仁に完璧に御せられてしまったことを自己批判せずに歩むなら、新たな宮顕が登場し二の矢三の矢に見舞われるだろう。さような運動が成功することは有り得ないだろう。この観点と認識を共有し今後の活動に生かしたいというのが本稿の意図である。

 宮顕の活動歴を「日本現代史上最大のスパイ事件」として断罪し、「宮顕の日共党中央登壇は、日本左派運動の痛恨事」として捉えようとするれんだいこの観点がなかなか理解されないようである。そうした者達に共通しているのは、宮顕を堕ちたにせよ偶像視したいという儚い願望であろうか。

 驚くことに、現下日共側の者ならいざしらず、反日共系左翼の側からもこれに似た情動が知らされている。そうまで云う必要があるのか、暴論ではないかと。あるいは、れんだいこのこの観点が特異過ぎているのだろうか売名行為として受け取られている向きもあるようである。

 しかし、こうした連中が日がな一日おざなりのサヨ論で気焔を挙げているのを見るのは馬鹿らしい。
考えても見よ、宮顕を断罪するのに何の躊躇がいるというのだろう。この御仁ほど左派運動の有能人士に対してあれこれの難癖を付け、スパイ呼ばわりし、本来為し得た活動域から追放し左派運動に損失を与えてきた者がいるだろうか。この時の下品な悪罵、執拗な攻撃を想起せよ、それを思えばこういう御仁に何の遠慮がいるだろうか。

 
当時は、「獄中12年唯一非転向タフガイ人士」という神話的ご威光が通用しており、誰しもその前に伏せざるを得なかったという事情があった。しかし、歴史は少しずつ動いている。今日では諸文献によりその虚構が満天下に晒されている。今や、普通の知性さえあれば、当の宮顕こそ胡散臭い一等級の人物として推断することが容易である。諸文献に自分で目を通す時間が無い者には、誰の目にも触れられるようれんだいこの宮顕論を用意してある。

 このご時世で、にも関わらず我等が陣営内の牢とした宮顕畏敬ぶりはどういうことだろう。この不可思議現象をも断罪しつつ以下論を進めことにする。

 2003.9.24日再編集 れんだいこ拝 

【宮顕こそスパイ派の頭目である】
 宮顕論を粗末にする者は我が国の真の変革を願わない者である事を証左している。なぜそのように云えるのか説明してみたい。ひとえに左派運動史上の宮顕の地位は奈辺にあるのか。恐らく多くの者は答えられないだろう。れんだいこははっきりと指摘することができる。その使命は、日本の左派運動を支配秩序内左翼(これを天皇制左翼と命名したのが大井広介の慧眼であった)に押し込めることにあった。

 これを公安戦略から見てみれば容易に解ける。事はそう難しいものではないのに我が左翼はなぜかしら相手側から見るという論理回路が欠損している。要するにこういうことである。戦後民主主義体制は、日本国憲法の誕生と共に反政府活動の表現、集会、結社の権利を認めた。こうなると、支配当局は、この規定に縛られつつ実質的な骨抜きを目指していくことになる。それを実質的に機能させない策動に知恵を絞ることになる。これは、最低限四つの角度から行われる。

 その1は、義務教育における政治教育の抑制指針。その2は、マスコミによる御用イデオロギーあるいは奢侈情報の洪水化による政治意識の抑制指針。その3は、表現、集会、結社の刻々の情報収集と分析による人畜無害化誘導指針。その4は、集会、結社指導部への要員送り込み、あるいは指導部簒奪によるコントロール指針。宮顕問題は、この四番目の問題に直結している。

 その意味で、
宮顕は非情に有能且つ戦闘的人士であった。野坂―宮顕―不破―志位と続く1955年の六全協以来の日共党史はこの流れで悪戦奮闘した「変態長征史」である。そういう意味では、今日の左派戦線の低迷情況は彼等が願い招いたところのものであり、「反革命事業の成功者」であると云える。

 
しかし、左派運動が秩序内に押し込まれることは論理矛盾でもある。この矛盾を一身に背負い自己の信ずる愛国道を突き進んだのが宮顕―野坂ラインであった。しかしながら、その愛国は、今日的な意味ではネオ・シオニズムに取り込まれた売国道であった。彼らはそういう矛盾を抱えている。宮顕―野坂ラインの党活動に対して、かく認識を獲得しなければ実相が見えてこない。孫子兵法学は「敵を知り己を知らば百戦するも危うからず」と教えている。残念ながら、我等が左翼内に宮顕運動をこの観点から見るものはいない。

 支配秩序内左翼としての在り方を模索し続ける日共党中央路線をそれ故に支持するという者も居る事だろうと思う。そういう在り方も有り得るとは思う。しかしながら、常識的にはそういう運動は新党的に創出されるべきであり、そうであるなられんだいこは何も気遣うこともない。

 問題は、マルクス主義を理論的基礎として結党された共産党の指導部でこれを画策することにある。故に尋常でないものがあるとするのがれんだいこ史観である。有り得て為らないことを意識的に為し得る者はスパイしかいない。ここに気づくのが通常であろうが、れんだいこがかく指摘しても盲を開こうとしない。こうなるともはや当人の責任というしかない。

 
宮顕の場合、単にスタンスの違いとしてのみでは見なしきれない異常さがある。このことも知っておかねばならない。今日の不破―志位指導部と明らかな違いに宮顕の暴力性及び好査問性という特質がある。世の中は変なもので、それ故に宮顕を評価するという者が居る始末である。この手合にれんだいこは云わねばならない。宮顕の戦闘性が権力機構に向かって駆使された例は一例も無い。あればそれを指摘してみよ。

 常に運動内部の者に暴力的な「排除の論理」を駆使し、実際に私生活にまでわたって追い詰めるのを得意とする。あるいは国際運動内の分裂促進方向に共産主義者では到底為しえない決然さで如意棒を振るう。そういう歴史があるばかりである。このことがそんなに評価されることであろうか。

 「戦前の小畑中央委員リンチ致死事件」は、そういう宮顕の特異性をあますところなく浮き彫りにさせている。その理論と実践が、ある意味で今日の日共路線と変態弁明の下敷きとなっている。それ故にこの事件を検証せねばならない。学べば学ぶほど卒倒する史実と詭弁ばかりが見えて来るだろう。

 2002.11.17日、2007.3.8日再編集 れんだいこ拝

【宮顕の正体を見抜く視点を確立せよ】
 宮顕の当局内通派としての犯罪を暴くことは通常思われているよりも数等倍重要である。案外とこの点が軽視されている。左派圏内の人士はそれだけ口先だけの運動のお茶濁しで済ましているのだろう。宮顕がいつの頃当局と内通したのかまでは定かではないが、割合早い時期であったであろう。ひょっとして入党前かも知れず、入党後の場合でもさほど日数を置かず密約を成立させていたように思われる。こう考えないと不自然なことが多すぎる。

 
宮顕自身が一貫して「攻撃は最大の防御なりとばかりにスパイ摘発の最も果敢な闘士であった」ことにより、その宮顕をスパイとして疑うということは盲点となってきた。が、それは我が日本左翼の能力の欠如を露呈しているに過ぎない。宮顕は戦前も戦後も一貫して極力黒幕として、党活動上有害無益な活動ばかしを手がけてきたという史実をそろそろ確認せねばならないのではなかろうか。今日の日共の党機能の停止は宮顕総路線の必然の歩みであり、その無惨な末路であろう。そう認識しないと解けない。こう認識すれば全てが解ける。

 宮顕は入党初期の頃は主として文芸面で、文学の党派性・階級性を過剰に説くことにより、当時のプロレタリア文化運動にあった豊穣さを失わせていった。いきさつは不祥であるが、その後の宮顕は、「スパイMこと松村」と入れ替わるようにして急速に党中央にのしあがっていく。「スパイM」の研究は為されているが、その入れ替わりの宮顕の登場という観点からの考察は誰にも為されていない。この怯惰は何に由来しているのだろうか。

 
党中央にのし上がるや宮顕派が最も傾注したのは組織面でのスパイ摘発闘争であった。査問が満展開され、主として戦闘的団体と有能党員に照準が当てられ、特高当局の数次の大弾圧に耐えて生き残ってきた僅かな党ラインがこれによって内部から壊滅させられていくことになった。宮顕のスパイ摘発闘争がもたらしたものは、実質的に見て戦前の党中央の党運動の最後的な解体であった。こういう史実が知らされていない。

 最も肝心なときに最も反動的な役割を果たす、これを左派用語を駆使しながらやり通すという器用な御仁、これが宮顕活動の本質である。宮顕を評する座標軸をこのように据えるべきである。この観点から見れば宮顕が、我等が左派運動に終始一貫して左翼仮面的異邦人であり続けてきたことが透けて見えてくる。


 この異邦人が党中央を占拠して数十年という経過を刻印し、今なおこの系譜がしがみついている。当然のことながらそれを許した同時代左派人としての我等が見識と能力が疑われるであろう。このことを指摘するれんだいこメッセージが大きく評価される時も来るであろう。残念ながら、この観点の共有者は今のところ見当たらない。いつの日に、れんだいこの観点の秀逸が評価されるのだろうか。

 
宮顕の正体が言い逃れの聞かない形で刻印された事件に、戦前の「党中央委員・小畑リンチ死事件」がある。宮顕党史では小畑がスパイであったとして様々な手口で弁明している。本当の史実は違う。実質上、最後の労働者畑中央委員として党の旗を守っていたのが小畑中央委員であり、直前の野呂委員長の信任も厚かった。その小畑が、宮顕一派が仕掛けた査問のワナに陥った。絶体絶命の危地に立った小畑は最後の戦闘力で逃亡を図ったが、この寸劇に図らずも宮顕を参戦せしめ言い逃れの出来ない役割を担わせることになった。

 
宮顕はここにれっきとして殺人下手人として歴史に立ち現れ、消すに消せない汚点を刻むはめになった。れんだいこは、小畑が命に代えて仕掛けた犯罪告発であり、偶然ではあったが小畑中央委員の生命を贖(あがな)っただけの怨念復讐劇になり得たと理解している。ここを理解することが唯一小畑の死を無駄にしないことになるであろう。

 だが、宮顕悪事を露見させているこの貴重な史実は巧妙に強権的に隠蔽されてきた。従って、ほぼ風化させられており、今日の党運動上問題になることもない。しかしいつでもここは党史上の禁断の扉であり、それが為に逆に反宮顕側が執拗に嗅ぎつけ、適宜に「党中央委員・小畑リンチ死事件」をたぐり寄せ、この宮顕犯罪を指弾しようとする動きを繰り返すことになる。この火種は今日なお根強くくすぶっている。故無しとはしないが、れんだいこの観点は少し違う。

 宮顕が、この史実を隠蔽する為に、如何に涙ぐましい努力をしてその後の党活動を歪めてきたか、ひいては左派運動全体を奇形化させ、社会を歪めてきたか、この観点からの考察の方が余ほど重要と考えている。宮顕を過去の者として捉えて清算している者達はここが分かっていない。今日の党活動の停滞それに規定されているかのような左翼運動総体の変態化が「宮顕の敷いた総路線」から発しているという認識の下で、その痕跡を洗いざらい摘除していかない限り再生の芽は生まれない。という観点からの見直し運動が今日なお急務である。

 現局面に資するよう何をどう見直すべきなのか、れんだいこが指摘しても良いが、むしろ各自が考えたほうが良いと思われるので以上の示唆だけにとどめておくことにする。


 2004.4.29日再編集 れんだいこ拝

【れんだいこ史観の値打ち】

 今日の不破系日共党中央を批判するのに、「宮顕の時代の方がまだしも原則的であった」論で論評される事がままある。果たしてそうだろうか。れんだいこには滅茶苦茶な感想でしかないように見える。とは云っても資料に基づかない水掛け論は不毛だろう。そこで、れんだいこの謂いを実証するため本サイトで宮顕を極力史的に考察することにする。

 それでも耳を貸さない者は、「ショートメッセージ」で述べたように異論を呈じてみよ。不破系日共党中央は宮顕総路線の延長上に位置している。従って、不破路線を批判するのなら、元へ戻って宮顕総路線の見直しまで辿り着かないとウソだ。この観点が共有できない。耳を貸さない者は、異論を述べてみよ。

 
本サイトの理論的貢献は、日本の戦後左翼運動が、「胡散臭い宮顕の素性」を的確に認識しえず、あくまで同志的な範疇で「左翼内右派系の民族路線型統制主義者」とみなしつつ、「一定の仁義」を立てて遇して来たことの間違いを指摘しているところにある。

 
宮顕に対してはその程度の甘い認識ではなく、「左翼に闖入してきた場違いなポンプ男」、「野坂とのタッグ行脚による日本左派運動の堰止めに蛮勇を振るう、解党路線化を使命としてきた筋違い男(戦前党運動もこのタッグにやられた)」、「あり得てならない史上稀なる投降型マルキシズムの推進者」、一言で云えば「左翼仮面」である。宮顕の正体をかく見破り、氏を排斥し得る能力を我らが獲得しない限り、左派運動の前進はないのではなかろうか。

 この点で、日本左派運動史上、宮顕の胡散臭さを的確に認識していたのは、徳球であった。戦後直後の党運動を指導した徳球は、早くより陰に陽に足を引っ張る宮顕一派と抗争している。伊藤律の登用の裏政治史的意味は、宮顕派の登用を許さないという含みでもあった。それは実に慧眼であった。案の定「50年分裂」を迎え、宮顕派は国際派的観点から徳球指導部への仮借ない批判を開始した。徳球−伊藤律派の曲りなりにも真性左派運動であったその運動潰しの好機と見たからである。

 それに対して、徳球は、1950.1.18日からの「第18回拡大中央委員会」後の1.26日、批判者グループの頭目にして内部撹乱の黒幕であった政治局員兼統制委員会議長・宮顕を九州地方党組織(福岡)に左遷している。しかも、政治局の多数決採択により九州地方議長としての「長期派遣」を決定し、且つ赴任地九州で宮顕を関与させない党機関を別につくっている。それほど宮顕を嫌っていたということである。その背後には、宮顕のスパイ性を疑惑する眼があった。

 
宮顕を九州に飛ばし、裏機関を作ることは機関運営上問題となるが、時局柄止むを得ず取った変則措置であった。我々が窺うべきは、徳球がそれほど宮顕を疑っていた、ということである。その言行録はそれなりに残されている。その後の史実は、徳球の宮顕に対する疑惑観点が正しかったことを証左している。

 「戦前の小畑中央委員査問リンチ致死事件」の全容が明らかにされたのは、1970年代になってからである。それまでは決定的な証拠が掴めなかったが故に徳球は慎重を期し、徳球ほどの嗅覚を持たぬその他の大勢は「犬の遠吠え」しか為しえなかった。しかし今日ではもはや疑い無き諸資料が揃いつつある。何より、宮顕が1955年の六全協で党中央に再登壇して以降の解党行為の軌跡の全てが宮顕の胡散臭さを物語っている。

 
宮顕―不破系日共運動とは、何としてでも日本左派運動の本家日共党中央の座椅子を占拠し、それを足がかりに党中央という名の権威を利用して、表向きは推進実は裏から日本左派運動発展の消火活動に努めるという変態運動でしかなかった。日本左派運動の衰退と低迷の原因は他にもあるが、これが最大のものである。

 この認識は、日本左翼運動に責任を持とうとする者には必須の観点とならねばならない、と私は考えている。事実、私は調べれば調べるほど吐き気に襲われている。左派内に登場し悪事の限りを働いてきたトンデモ御仁であるという姿態が見えて来る。それが証拠に、宮顕が党中央に登壇して以来の党中央の議論記録を公開させてみよ。恐らく、読むに耐えない変態指針のオンパレードになっているであろう。まぁれんだいこも知らなかったし、みんなが知らないのも無理はない。本サイトにじっくり腰を落として目を通して見ていただきたい。

 
もう一つの観点から言い添えておきたい。宮顕の履歴とは、「マルクス主義運動の換骨奪胎」を目的意識的i策動してきたことに真骨頂がある。にも関わらず、この「目的意識的」であることを見ないままに、やれここが間違いだ、時代遅れだ的に宮顕批判をして得意がっている人士が多い。宮顕に使い捨てにされ放逐された人士の恨み節は、大概この観点から為されているという共通項が認められる。れんだいこから云わせれば、未だ洗脳解けずの観がある。

 
もう一つ。宮顕運動をスターリニズム的な「正統」左派運動と仮託させて、これを批判する流れも根強い。それは二重に誤りであるとれんだいこは指摘しておきたい。第一に、宮顕美化論に過ぎないということである。宮顕を左派人士とみなした上での批判であり、それは宮顕の胡散臭さを免責していることになり、その点で早くも間違いであるという観点を持ちたい。第二に、宮顕−スターリン運動の共通手法をマルクス主義の必然衣装とみなすことにより、マルクス主義そのものに対する誹謗の下地を醸成させているからである。

 宮顕の胡散臭さとスターリニズム―マルクス主義批判を論理的に接合させてはならない。むしろ剥離させることの方が肝要であり、宮顕-野坂-不破ラインの胡散臭さは単独にそれとして批判されねばならない。その上で、マルクス主義に対する批判に向うならそれも良かろう。その際は、歴史の風雪に耐えるものと耐ええないものの仕分け考究を通じて、マルクスの教説自体の中から導き出す必要があると思う。


 もう一つ。今日なお、戦後の日共運動史上の最大の政変であった徳球系対宮顕系の死闘をそれとして見ず、のんべんだらりとした日共通史批判で事足りている作法が横行している。それは、徳球系運動の値打ちと限界の弁証法的評価に対する不誠実さに繋がる。宮顕系運動の胡散臭さの見極めに対する弁証法的考察に対する不誠実さに繋がる。日本左派運動の混迷の原因と打開の方途の弁証法的究明に対する不誠実さに繋がる。

 
徳球系日共運動と宮顕系日共運動は明らかに質が違う、前者は「紅い心」ながらも限界を持っていたそれとして批判されるべきで、後者は「白い心」の者が何とかして「紅い心」に似せようとカメレオン的擬態を凝らしているだけのヌエ運動でしかない。それを見抜けぬ日共論が横行している。今日我々が目にしている党史論のことごとくが徳球系日共運動に比すれば宮顕系日共運動まだまし論の見地に立っている。新左翼系のものでさえこの線を踏襲している。これでは全く真実が見えてこない。そういう意味からも、宮顕論を俎上に乗せる事が急がれている。

 「宮顕問題」は、果たして上記の認識程度の能力を獲得せぬ者が政権になど辿り着けるであろうか、万一その機会を得たとして権謀術数渦巻く国際政治の中で国運を誤らしめない舵取りを為しえるであろうか、という左翼人の資質能力が問われている課題として立ちはだかっている。単なる饒舌派、耽溺派、罵詈派、雑言派、知識ひけらかし派、ええ格好しい派等々が棲み分け縄張りしている現下の安穏に波風立てて棹差すことになるとは思うが‐‐‐。

 関連サイト、
れんだいこの宮顕総括論

 2003.7.22日再編集 れんだいこ拝


【宮顕の好査問性について】
 まず、宮顕の暴力的な加害手法を見てみることにする。その代表例として1・松原氏、2・小畑氏、3・伊藤律氏の事例を見ていくことにする。れんだいこ史観に拠ればこの三氏とも冤罪である。しかしながら、この三氏の冤罪性が問題にされず、如何にスパイであったかの論証に明け暮れる三文文士の手合いが跋扈している。れんだいこは、基本的に頭脳が弱いのではないかと疑っている。

 連中の手にかかれば、黒いものが白く見え、白いものが黒く見えるらしい。何とかして、そのように見ようとして詭弁を弄している。そこには事大主義的精神しか見えてくるものが無い。れんだいこは、連中とは語るに値せずとみなしている。連中が議論を要求してくるなら、れんだいこはいつでも引き受ける用意がある。このことを申し上げておく。(略)

 2007.3.8日再編集 れんだいこ拝

【「六全協」論について】
 戦後、宮顕の党中央への登壇は、足掛かりをつくっただけでそれ以上進捗しなかった。云わずと知れた徳球―伊藤律派が頭を押え続けたからである。このことの持つ重大な意味は、これをどう見るのかで、評者の左派的位置が分かることにある。あまりにも圧倒的な支配的見解は、これを「非」としている。今日の日共党中央派は無論のこと、この点では新左翼陣営も同じ陣営に属している。双方ともが、何が悪いといっても徳球運動ほどお粗末なものは無い、という観点からの批判が喧(かまびす)しい。信じられないのなら、市販の「六全協論」をめくってみればよい。この点では、あたかも同盟を組んでいるかの如くな感がある。

 
れんだいこは、この点で、既成の左派主義者のどの団体とも接点を持たない。なぜなら、徳球―伊藤律派の運動を好評価しているからである。戦後の混乱期の中でその与えられた情況の中で、徳球―伊藤律派はよく闘ったと思っている。惜しむらくは、レーニン・トロツキー的能力を持たなかった故に権力転覆から政権奪取までを可能にし得なかった恨みはあるが。

 しかし、GHQ権力が直接的にのしかかっていた以上、無理な願いであったのかも知れない。もし、外来勢力としてのGHQ権力の干渉無かりせば、国内的政治闘争では勝利を掌中にしていた可能性がある。2.1ゼネスト時がそのピークであった。さすれば、毛沢東派による中国建国革命と軌を一にしていた可能性があり、世界史は大きく流れを変えていた、とも思う。それほどに高い能力を見せていたのが、徳球―伊藤律派の運動であったと思っている。従って、巷にある徳球―伊藤律派に対する過小評価的見解は到底受け入れられない。

 ところで、以上の俯瞰図の下でどうしてもコメントしておかねばならないことがある。徳球―伊藤律派党中央時代の宮顕派の動きについてである。この時の宮顕派の動きと六全協後の動きとの落差について、まともな考察が為されていない。れんだいこは、為に、今日まで続く史観の歪みが攪拌していると見ている。

 どういうことかというと、宮顕派は総じて当局肝いりのスパイ派であるが、徳球―伊藤律派党中央時代には、その党中央批判の一点狙いの立場から「強硬左派」的立場を演出しており、「唯一非転向完黙人士的聖像」プロパガンダに幻惑され続けていたこともあって、当時の学生運動も文学運動も部落解放運動も労働運動も先鋭的急進主義的な部分が宮顕派の列に連なったという経過が認められる。

 当然、この連中は、六全協後に期待が裏切られ、個別撃破政策で放逐されていることになるが、放逐されてなお事態の客観分析が出来ず、恨みがましい批判的言辞でお茶を濁すという失態を演じ続けている、という悲劇があちこちで生まれている。本来は、ここは自己批判が要求されるところであるように思われる。

 当時、宮顕派はカメレオン的に「強硬左派」を演出していたのであるから、これに騙された事を自己批判しても経歴にさほどの傷がつく訳ではない。問題は、自己批判しないことの方にこそある。そういう者が反日共系真性左翼を標榜しつつ真摯に活動しようとも、れんだいこは信用しない。

 今日、一定の期間を経ているので宮顕派を通史で眺めることが出来る。当然、れんだいこ的見解がもたらされる訳であるが、驚くことに今尚この見解と議論しようとする姿勢が無い。こうなると、左派運動を己の器量の甲羅に合わせて趣味的に持続させているだけのことではないかと云う事になるが、余程お気に召しているのだろうかその作風を代えようとしない。しかし、れんだいこなぞはそういう事では左派運動に責任が持てないだろうと思うのだが、馬の耳に念仏の如くで、あるいは馬耳東風の如くで関心を示さない。こうなると、お好きにどうぞというしかない。

 しかし、議論打ち切りはやはり出来ない。少なくとも、次の考察をしない限り。つまり、当時の(今も)先鋭的急進主義的な部分が何ゆえに宮顕如きに騙されたのか、という主体としての問いかけに迫らないといけない。なぜなら、同じ愚を繰り返すことになるから。れんだいこは、先鋭的急進主義的運動を良しとしている。なぜなら、万事において云える事だが衝撃と覚醒を与えない限り認識が高まらず、従って運動も発展しないと思うから。

 穏和な言葉、改良や糖衣錠理論によって世の中の仕組みが変わることは無い、衝撃と覚醒によって初めて少し改良がもたらされるのが法理だと思うから。人間とは世の中とはそんなもんだ。それはそれとして、だがしかし、先鋭的急進主義的運動が宮顕的なはたまた誰それ的な当局内通派の論理にかすめとられてはならない。その橋頭堡を如何に作り上げるのかを議論せねばなるまい。

 この構築にこそ能力が問われており、過誤を犯しつつも次第に正規の軌道に戻して乗せて更に先へ進むのが運動圏の弁証法では無いのか。だから、過去の誤りは良い。しかし、反省と総括が為されねばならないのではないのか。だがしかし、この議論に入るためには、ます宮顕をそして誰それをそのような者として見定めねばならない。あぁそれが出来ない訳だ。だから議論が進まない。これでは先が思いやられるという訳だ。この貧困を何としようぞ。

 さて、上述のように説いたれんだいこの弁の論証に以下取り組みたい。でないと、まだ納得しない御仁が居られようから。

 (以下略、又後日を期す)

 2003.10.8日 れんだいこ拝




(私論.私見)