| 521 | 宮本顕治論 | 第11部 | 戦後の釈放時の疑惑考、「復権証明書」の疑惑考 |

(最新見直し2006.6.6日)
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| 「宮顕の釈放経過」と「復権証明書取得経過」には今日なお不自然にして未解明な闇の中にある。結論から言えば、何らかの必要があってと思われるが、宮顕は唯一人「いち早い違法出獄」で釈放されている。これがまず大いに有得ない釈放であることを確認し疑惑せよ。ところが皮肉なことに、後になってこの「違法出獄」故に司法省当局が法的救済を為そうにも為しえないというジレンマに襲われることになった。最終的に「復権証明書」が出されているが、法理論的には疑義が残るものとなっている。以下、この経過を検討していきたい。大きく言って次の点が解明されねばならない。 |
| 【宮顕の奇怪な一足早い釈放と復権証明書の奇怪】 | ||
| GHQのマッカーサー司令部は、軍国主義勢力追放という統治政策を有利に運ぶためもあって獄中政治犯の釈放に踏み切った。こうして、1945.10.4日付けでGHQの「民権指令」により10.10日期限で獄中政治犯の釈放を指示した。事実、治安維持法絡みの被告は10.10日に一斉に釈放された。この時の指示は純正政治犯のみを対象としており、宮顕や袴田のように刑事犯を併合している場合には適用されなかった。そういう理由によって袴田は他の政治犯が釈放されたにも関わらず居残組となり、当人はそれをややあきらめの気分で日記にしたためている。 ところが、宮顕は例外で何と10.10日より一日早い10.9日に慌しく網走刑務所を出所している。その情報が袴田に伝わるや、袴田は自分が放置され、宮顕だけがなぜ釈放されたのか抗議し始めた。これにつき、宮顕は「網走の覚書」で次のように明らかにしている。
しかし、この弁には明らかに真偽不明な胡散臭さがある。なぜなら、今日判明しているところでさえその経過が何とも妙で、次のようなマジック出所であったことが判明しているからである。 宮顕の「網走の覚書」に拠れば、概要「発信人は東京の予防拘禁にいた同志の一人と弁護士名の連名で、出たらすぐ来い。宿舎の用意有り」との電報が届いている。しかし、差出人が誰なのか、連名の弁護士名も明らかにされていない。研究者の間では、「予防拘禁にいた同志の一人」が徳田球一、弁護士が栗林敏夫氏だと推測されているが、この当時徳球の指示で幾人かに電報を打っているのは事実であるが、宮顕に宛てたかどうか疑問がある。 なぜなら、徳球と宮顕の間にはそれまで何の接点も見出されない疎遠な関係でしかなかったからである。それと、宮顕よりは近い関係にあった袴田にはこの種の電報が届いておらず宮顕だけに打電するのは不自然極まりない。他にこのような電報を貰った者の裏づけも無い。むしろ、別な筋例えば「当局奥の院」から電報が届いたのではないかと思われ、これについては宮顕自身が明かさなければなるまい。これを「宮顕の釈放経過疑惑その一」とする。 「不自然な脱獄指示書」を受け取った宮顕は、出所を強く要請する為の「釈放上申書」を書き上げている。「釈放上申書」には診断書が添付されている。これを見るに、病状診断ではさほどの所見が為されていないにも関わらず、末尾で「右により心身の衰弱増進し、刑の執行により生命を保つこと能わざるものと認む」とされ、「釈放の喫急なることが要請される」という珍奇な「診断書」となっている。 つまり、宮顕の「一日早い釈放」には理由が有り、GHQの「民権指令」に基づく正規の手続きに拠ってではなく、生命危篤に基づく特例措置という超法規的措置による違法出所であったことが判明する。宮顕に付き何故、「生命危篤に基づく特例措置」が講ぜられたのか、これを「宮顕の釈放経過疑惑その二」とする。 「釈放書」は、10.9日付けで網走刑務所所長・山本捨吉から釧路地方裁判所網走支部検事局検事・佐々木利視宛てに送付され、即日許可されている。且つ、宮顕はその当日出所している。何とも手回しの良い出所であったことになる。かくて、宮顕につき何故かくも手際の良い、徳球ら他の政治犯よりも一日早い出所が講ぜられたのか、これを「宮顕の釈放経過疑惑その三」とする。 網走刑務所出所後の宮顕の足取りがつながらない。10.9日午後4時、出所し、8時の汽車で函館へ向かっている。台風のため青函連絡船が欠航となり、東京へ着いたのは14日とされているが、この日程は間延びしすぎであろう。真相は、一刻も早く東京へ辿り付いている可能性が強い。 この頃既に戦前以来の活動家の名だたる者は共産党の再建目指して競うようにして活動拠点となっていた国立の自立会へ結集しつつあったが、宮顕が出向いたのは10.21日と云われている。この間都合12日間要しているが、宮顕はそれまで何処で何をしていたのだろう、何らかの外部接触が為されていたと推定できる。これを「宮顕の釈放後疑惑その一」とする。 宮顕のこの間の経過で不自然なことは、他の指導幹部の全員が釈放に当たって事前・事後の数次に亘ってGHQ要員から聴取され調書を取られている事実があるにも関わらず、宮顕の場合その痕跡が記されていないことにある。宮顕が下部党員であった故に重視されなかったと見なすのは不自然である。戦後党運動の最初より宮顕は中央委員に選出されており、徳球と書記長の座を争ってもいる。GHQが見逃すことは有り得ないと考えるのが至当であろう。してみれば、宮顕には何故調書が取られていないのか、あるいは秘匿されているのか。これを「宮顕の釈放後疑惑その二」とする。 10.12日、CLO(終戦連絡中央事務局)は、GHQに対して「終戦恩赦」を上申し、10.17日、大赦令(勅令579号)、減刑令(勅令580号)が発令されている。減刑令により、宮顕は無期懲役から懲役20年に、袴田は懲役13年から2年3ヶ月24日を減刑された。つまり、無罪放免では無く無期懲役から懲役20年への減刑が言い渡されているが、何故放免され続けたのかという疑惑が生まれることになる。これを「宮顕の釈放後疑惑その三」とする。 その後宮顕は袴田と共に執拗に「復権証明書」を手に入れるべく奔走しているが、本来両名の言うが如く「小畑の死因が体質的なショック死」であれば、そのことを証する為に再審査を請求していくのが筋であろう。宮顕は何故冤罪として事件の再調査の要請に向かわなかったのだろうか。これを「宮顕の復権証明書取得疑惑その一」とする。 宮顕は、事件の再調査を要請する方向には向かわず、超法規的特例措置による「復権証明書」を手に入れんが為に涙ぐましい努力を見せていくことになる。宮顕はなぜそれほど執拗に「復権証明書」取得にi拘ったのか、相当の理由があると解するのが至当であろう。これを「宮顕の復権証明書取得疑惑その二」とする。 1946(昭和21).5.29日、宮顕、袴田両人に「復権証明書」が交付されている。この経過は、日本当局もGHQも互いの責任の痕跡を残さぬように努めており、今日でも「本当の事情はわからないという他は無い」(元内閣法制局長官・林修三、「宮本氏らの復権問題の法律的問題点」)と云われているように、闇の部分となっている。この発行経過が疑惑に包まれており、これを「宮顕の復権証明書取得疑惑その三」とする。 この時の「復権証明書」の文言にも問題が残されている。「勅令第730号」は、次のように記している。
この時の「将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなす」という文言による「復権」が問題とされる。なぜなら、「復権」の正確な法律的解釈は、純正思想政治犯に対して適用されるものであり、それまでの遣り取りでも宮顕・袴田らのような併合犯には適用されなかった経過がある。にも関わらず同様文言で復権させるには無理があった。これを政治的圧力で無理やり押し通したことになる。さて、誰がその圧力主体者であったのかが解明されねばならないだろう。これを「宮顕の復権証明書取得疑惑その四」とする。 以上、概略を述べたが、「宮顕の釈放経過疑惑」で三点、「宮顕の釈放後疑惑」で三点、「宮顕の復権証明書取得疑惑」で四点、都合ざっと10点の疑惑に包まれている。これだけの疑惑まみれにありながら、「将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなす」という文言の「復権証明書」を手にしているのだから「解決済み」と居直るのが宮顕―不破系党中央のスタンスである。これを真に受ける者はよほど奇特な御仁であると云わざるをえまい。 2003.7.25日 れんだいこ拝 |
| 【戦後釈放後の「復権証明書」が公布されるまでの経過】 | |
| 1945 (昭和20) | |
| 8.15 | 終戦。 |
| 10.4 | GHQの「民権指令」(SCAPIN93号)。治安維持法撤廃や政治犯釈放を指令。但し、釈放者は「併合犯」を除くと司法省に明示。 |
| 10.5 | 司法省は、刑事局長号外通牒で、「刑事犯、経済犯の併合犯を除く」政治犯を10日までに釈放するよう通知。 |
| 10.9 | 宮顕が網走より出所。 |
| 10.10 | 徳球・志賀らが予防拘禁所から出所。この時GHQは、「10.4日指令の実施要領」を発表し、「併合犯の詳細を20日までに求め、GHQの決定まで各併合犯を拘留してもよい」と指示を出している。 |
| 10.12 | CLO(終戦連絡中央事務局)はGHQに対して、「終戦恩赦」を上申。 |
| 10.17 | 大赦令(勅令579号)、減刑令(勅令580号)発令される。減刑令により、宮本は無期懲役から懲役20年に、袴田は懲役13年から2年3ヶ月24日を減刑された。 |
| 10.19 | 袴田里見が宮城刑務所から出所。 |
| 10.20 | CLO(第317号)は、10.10日のGHQ指令を受けて、「拘留中の併合犯」リスト37名を提出。その中に宮城刑務所の袴田ら4名が含まれていたが、実際には袴田は既に前日出所している。 |
| 10.22 | この日までに司法省刑事局に届いた報告に拠れば、政治犯439名が釈放、うち治安維持法関係272名、スパイ法関係77名、言論統制法関係90名。 |
| 11.6 | CLOは、GHQに政治犯として法務省関係439名、海軍省関係28名、陸軍省関係1名の計468名の釈放、SCAPIN93号で釈放された者2026名との報告書を提出。 |
| 12.19 | GHQがSCAPIN458号で、同93号によって釈放された政治犯の復権措置を指示。 |
| 12.19 | 宮顕はこの間「スパイ挑発との闘争」を書き上げており、この日執筆を完成させている。「査問事件」に対する宮顕的正義の弁明を満展開させていた。宮顕釈放の約2ヵ月後の頃であるが、宮顕の戦後党運動の最初はこの執筆闘争であったと云うことになる。「月刊読売.1946年3月号」に発表された。 |
| 12.29 | 12.19日のGHQ・SCAPIN458号指令を受けて、勅令730号発令。但し、宮顕、袴田には適用されず。 |
| 1946 (昭和21) | |
| 1.2 | 宮顕・袴田が12.29日の勅令730号で復権適用されぬことを司法省に抗議。1.8日付け「アカハタ」再刊第10号に「われらは抗議す」論文が掲載される。 |
| 1.20 | 宮顕・袴田が「復権申請理由書」を提出。 |
| 2.25 | 司法省が、宮顕・袴田に対する恩赦適用についてGHQに伺いを出す。この時司法省は、復権を求める両名に対して、政治犯として釈放した誤りから、刑期の残りを恩赦で消して復権させようとしていた。GHQは、何ゆえこの2名が出所し得たのか尋問している。 |
| 3.26 | GHQ民政局内部で、意見が対立。 |
| 4.5 | GHQ民政局内部で、宮顕・袴田の復権は政治的な判断で行うべきでないとの筋論が為される。 |
| 4.29 | GHQが、司法省の宮顕・袴田を恩赦法で復権させようという意向を拒否した。GHQは、誤って出所させた二人を日本政府が再逮捕しなかったことにより、刑事犯の部分が消えたとみなされるという観点から日本側に責任を委ねることにした。そこで、SCAPIN458号に基づく勅令730号の特例措置を指令することになった。 |
| 5.15 | 上記の主旨を明記したGHQ民政局法務部顧問ハワード・マイヤーズ署名の覚書「日本人の政治犯の復権にについて」が出される。 |
| 5.18 | 司法省が、宮顕・袴田を勅令730号で復権させる特別通牒を出す。 |
| 5.29 | 両人に「復権証明書」公布。 |
| 【宮顕釈放時疑惑考】 | ||||||||
| 以上を踏まえて、無期懲役の判決を受けた宮顕、懲役13年の判決を受けた袴田が、出獄し、「復権証明書」を手に入れるまでの動きをもう少し詳しく解明することにする。 1945.10.4日、GHQは、日本政府に対して「民権指令」(SCAPIN93号)を発した。この指令は、「政治的、宗教的、市民的自由の制限撤廃に関する覚書」指令のことであり、以下の観点に立脚した政策的措置を具体的に施すよう日本政府に指示していた。
「民権指令」はこれらを骨子としており、宮顕釈放問題に関して云えば次のようなことになる。「民権指令」は、2の項で10.10日までに政治犯の釈放を指令していたが、政治犯一般ではなく純正政治犯のみを対象としていた。純正政治犯とは思想犯・政治犯のことであり、その対象者は次のように判断されていた。1・治安維持法関係の違反者、2・罪名が明確でないにも関わらず入獄中の者、3・保護観察、留置、投獄あるいは自由を制限されている理由が、実際には彼らの思想、言論、宗教、政治的理念などによるにも関わらず、法律技術で軽微な犯罪を問われている者。かく規定して、「これらの人々を1945.10.10日までにことごとく釈放することを要求する」としていた。 「民権指令」は午後6時過ぎに政府に到達した。同夜8時過ぎに緒方内閣書記官長が首相官邸で東久邇首相と協議。翌日午前10時30分からの閣議で実施要領を打ち合わせすると共に、「民権指令」に抵抗してきていた岩田宙造司法大臣の辞任と東久邇内閣の総辞職を決定した。 これにより翌10.5日、司法省は、「刑事局長号外通牒」を出し「検事ノ指揮ニ因ル執行停止ノ方法ニ依リ」政治犯の釈放を指示するところとなった。但し、指令の主旨から純正政治犯にのみ適用され、併合犯には適用されないとしていた。このこと自体は法治主義の精神からしていわばあり得べき当局見解であったと思われる。 |
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| 【新聞報道のミステリー】 |
| 奇妙なことに、10.5日の刑事局長号外通牒を報じた10.6日の新聞各社の記事では、「即時釈放を予想される政治犯」として、「岡邦雄、元子爵土方久敬、久津見房、春日庄次郎、二見俊雄、宮本顕治ら約150名」と書かれており、宮顕の名が率先して掲げられていた。「日本産業経済」、東京朝日新聞の中央紙から、地方紙の北海道新聞に至るまでほとんど同じ内容の記事となっている。氏名の配列までそっくりであり、司法省当局の発表に基づいたものであることを物語っている。 |
司法省とGHQの遣り取りからして、宮顕のようにれっきとした併合犯が間違って釈放名簿に載ったとするミス説は不自然であろう。宮顕に限りこういう不自然なミスが連発する胡散臭さが付きまとっている。 |
| 【特別調査委員会の設置】 |
| こうして、司法省は政治犯の釈放手続きに入ることになり、釈放対象者を確定させるための特別調査委員会を設置している。同委員会では、刑法犯、経済犯を併せ持つ併合犯に対してはどうするのかという問題に逢着することとなり、GHQに問いただしている(76.6.26日付け「サンケイ」が公開した米政府公文書中の「資料4」より)。これに対し、GHQは、「そのような人々は釈放されるべきではない」と回答している。これに基づいて、司法省刑事局長は、10.5日、刑事局長号外通牒で、「『刑事犯、経済犯の併合犯を除く』政治犯を10日までに釈放」するよう通知している。 |
| 【刑事併合犯の取り扱い協議】 |
| 宮顕の場合、単に政治犯というのではなく、小畑殺害を直接的理由とする刑事犯でもあった。つまり、併合罪であった。宮顕の罪名「治安維持法違反、不法監禁傷、不法監禁致死、死体遺棄、銃砲火薬類取締法施行規則違反」は、この三規定のどれによっても釈放適用されない。にもかかわらず釈放されることになる。これは「違法出所」である。そのミステリーを以下追跡していくことにする。 そういう理由によって袴田は他の政治犯が釈放されたにも関わらず居残りぐみとなっていた。当人はややあきらめの気分を日記にしたためている。 |
| (れんだいこ調査によれば次のようなことになる) マイヤーズ法務部顧問の47.3.26日付け覚書「日本人既決政治犯の特赦(資料1)」で、この時宮顕と袴田の処遇が検討されたことを明らかにしている。「二人が政治犯罪と一般犯罪の両方で罪に問われたこと、また一般犯罪の故にさらに刑務所に拘禁され続けたかも知れないという事実を、日本の司法省は二人の釈放前に行われたGHQ担当官の調査のさい認めた」と書き記している。 この「マイヤーズ覚書」は米政府公文書であり、76.3.26日付け「サンケイ」が公開した貴重文書である。これによれば、日本の司法省がわざわざ宮顕と袴田の処遇をGHQに相談して、釈放拒否の回答を得ていたにも関わらず、結果的に日本側の独断で釈放に踏み切っているという経過が見えてくる。何が何でも宮顕を釈放せんとして、実際に釈放した「奥の院」の意思を想定せずには不可解であろう。 |
| 【出獄要請電報のミステリー】 |
| 「網走の覚書」に拠れば、この間宮顕は、概要「発信人は東京の予防拘禁にいた同志の一人と弁護士名の連名で、『出たらすぐ来い。宿舎の用意有り』との電報が届いた」ことを明らかにしている。が、この一文には胡散臭さが秘められている。なぜなら、袴田にはこの種の電報が届いておらず、当時他にこのような電報を貰った者の裏づけも無い。第一、差出人が誰なのか、連名の弁護士名も明らかにされていない。研究者の間では、「予防拘禁にいた同志の一人」が徳田球一、弁護士が栗林敏夫氏だと推測しているが、徳球が宮顕にそのような打電をしたのかどうか疑わしい。 これについては、少々調査を要する。徳球の指示で幾人かに電報を打っているようである。但し、宮顕に宛てたかどうか疑問があるのでこう断定しておく。むしろ、別な筋例えば「当局奥の院」から電報が届いたのではないかと思われ、これについては宮顕自身が明かさなければ永久に分からない。 |
| (れんだいこ調査によれば次のようなことになる) 今日に至るもこの時の電報の差出人が判明されていない。松本明重「日共リンチ事件」では、「三田村四郎(転向により昭和8年7月除名、その後反党活動を指揮する)がこの頃宮顕宛に電報を打っている事実と証拠も現存しているのである」と書かれているが、それより以上は詮索されていない。しかし、松本明重氏のこの指摘は重い。宮顕と三田村四郎が繋がっているということは大いにあり得る。肝心な時に現れる人間模様こそ凝視せねばなるまい。三田村の背後に誰が居たのか、興味は尽きない。 |
| 【「網走刑務所長発言」のミステリー】 | |
「網走の覚書」では続いて、次のように記している。
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| (れんだいこ調査によれば次のようなことになる) 加周義也の「リンチ事件の研究」では、「宮本だけに特別の『謀略的』な命令が密かに届いたと見るのは、見当違いである」とわざわざ見解を示しているが、『謀略的』であったかどうかはともかく、不自然きわまることには違いなかろう。私は、宮顕を一刻も早く出獄させ、戦後党運動の指導権を取らそうとしてなりふり構わなかった当局の意図が見え隠れしていると見る。 いずれにせよ、袴田は放置されており、宮顕だけが便宜を受けたのは何故か。この不明朗さについて、かって民社党春日委員長(当時)が国会質疑している。当然政治的に利用された訳であるが、咎められる理由があるからこそ突かれることになる。 |
| 【「虚偽診断書」のミステリー】 | |
| 宮顕は急遽「釈放上申書」を提出している。その上申書には医師の「診断書」が添付されている。これを見るに、病状診断ではさほどの所見が為されていないにも関わらず末尾で「右により心身の衰弱増進し、刑の執行により生命を保つこと能わざるものと認む」とされ、釈放の喫急なることが要請されているという変調な「診断書」となっている。
宮顕は「診断書」により釈放の口実が与えられていくことになるという意味で、「診断書」は重要な役割を負っている。以上からすれば、宮顕の釈放はGHQの「民権指令」に基づく正規の手続きに拠ってではなく、生命危篤に基づく特例措置という超法規的措置による「違法出所」であったことが判明する。 |
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| (れんだいこ調査によれば次のようなことになる) この診断書の所見に対し、元結核予防会・結核研究所長・東京大学医学部教授の斯界の権威・岡治道博士は、次のように述べている。
通常、「病気による刑の執行停止」とは、このまま服役させておけば命が危ない、と云う状況になって行われる。宮顕がこの当時、ジャガイモの一杯入った味噌汁を食べて、体重が60キロに増え、健康を回復したと云う事を、宮顕自身が幾つかの対談の中で語っている。このままでは命が危ないという状況では決してなかった。その証拠に、宮顕の出所後の歩みを見れば「先行き命が覚束ない予後、不良」などではなく、「出所後の途中で『あきあじ』などをご馳走になり、午後8時まで新聞を読んだり電文を書いたりして過ごす」(「網走の覚書」)とあり、何よりその後の党活動での反徳球運動に精力的な様子を見れば、宮顕釈放の手続きが、「刑の執行停止」で出獄させる為の形式手続きに過ぎなかったことが判明する。 こうして、宮顕の釈放には、網走刑務所長と釧路地裁網走支部検事による「虚偽の診断書」を利用しての「書類上のデッチ上げ釈放」という経過が見えてくることになる。伝えられるところによると、網走刑務所では、元気一杯の宮顕を「病気による刑の執行停止」という形で出獄させた為、その辻褄を合わせる為に過去に遡って偽の「病状経過報告書」まで作られていたと云う。問題は、そうした小官僚に小細工をさせた闇の部分こそ詮索されるに価するということであろう。事実、これは「ウッカリしたチョンボ」では無い証拠に袴田ら他の治安維持法+刑法犯は出獄を許可されていない。 |
| 【「釈放上申書」のミステリー】 | |
宮顕は出所を強く要請する為に「釈放上申書」を書き上げ、10.9日付けで網走刑務所所長・山本捨吉から釧路地方裁判所網走支部検事局検事・佐々木利視宛てに送付され、即日許可を得ている。「釈放上申書」は、釈放の理由として次のように記している。
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(れんだいこ調査によれば次のようなことになる) |
| 【宮顕出所日のミステリー】 |
| 宮顕は「釈放上申書」を提出した当日に許可を得、「病気による刑の執行停止」と云う事でやはり当日網走刑務所を出所している。何とも手回しの良い出所であたことになる。 なお、十全なる併合犯であった宮顕の10.9日釈放は他の政治犯釈放日より一日早い。これら全てが何とも妙な経過を見せている。 但し、共産党中央委員会の「日本共産党の50年」は、宮顕の出獄を10月16日としている。これは意図的かどうかまでは分からないが明らかに間違いである。というか、10.16日まで当局奥の院と何らかの折衝していたことの裏示唆とも考えることができる。 |
| (れんだいこ調査によれば次のようなことになる) してみれば、 「二人(宮本.袴田)の場合、罪名は政治犯だけではない。むしろ、殺人、死体遺棄、不法監禁の方が主である。戦後、徳田球一、志賀義雄らと同じような形で釈放されたのではなく、それに準じた刑の執行停止という恩恵によって出獄したのである」(全貌社主宰水島毅)は、根拠のある謂いと云うことになる。 ところが世の中好事魔多し。宮顕の「違法出所」が後に逆に事態を紛糾させることになる。これについてはこの後見ていくことにする。 |
| 【宮顕と袴田の落差のミステリー】 | |
| この不自然さは袴田の様子と比べてみるのが分かり易い。宮城刑務所の所長は、「併合罪の者は本省から釈放命令が来ていない」として政治犯の竹中・春日ら約40名の釈放後も、袴田に対しては出所させなかった。この見解と措置の方がむしろ原則的であったことになる。ちなみに宮城刑務所においてこの時釈放されなかった袴田・岸・田島・二見の4名はいずれも治安維持法+刑事犯の併合罪であった。これを仔細に見れば、岸・田島・二見らは党活動上で発生した警官の刺殺であり、袴田の場合のみ党員間のリンチ致死事件であったという性質の違いがある。 袴田の「獄中日記−1945年」には、次のように記されている。
つまり、竹中・春日らは純粋政治犯であることにより10.10日釈放され、袴田は併合犯という理由で見合わせられたということである。そういう理由によって袴田は他の政治犯が釈放されたにも関わらず居残りぐみとなっていた。「その際、所長の言明によって併合罪の者は本省より釈放命令が来ておらぬということを初めて聞かされ、政府のやり口の愚劣さにあきれ果てたり」と記しているが、ややあきらめの気分であるが納得しいる様子も行間から窺える。 |
| 【袴田の釈放ミステリー】 | |||
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宮顕が出所したことが袴田に伝わり、これが袴田の強圧出所に波及していくことになる。この経過について、袴田自身が次のように述べている。
つまり、宮顕の出獄を知った袴田が「頭へ来て」所長や看守を脅迫した様子が窺える。意訳・概要「次の日、夜が明けると早々と所長が出てきて、『全責任は私個人が負うから、本省からはまだ何の返事も無いけれど、あんた、今日直ぐ出て行ってくれないか』となり、出所することになった」。つまり、宮顕の超法規的出所とそれが契機となって袴田もまた10.19日、超法規的にドサクサ的に出所したことが明らかとなる。
「党とともに歩んで」は、共産党中央委員会の理論政治誌「前衛」に昭和41年8月号から18回にわたって連載されたものの刊行本である。松本明重「日共リンチ殺人事件」は次のように記している。
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| 【出獄後の足取りその一、「手紙・電文」ミステリー】 | |
| 10.9日、網走刑務所出所後の宮顕の足取りがつながらない。「網走の覚書」に拠れば、午後4時出所し、8時の汽車で函館へ向かっている。台風のため青函連絡船が欠航となり、函館市若松町の旅館で泊まって出航待ちしていた際に手紙や電文を書いたりして過ごすとに記している。 この時の電報が誰宛のものかも明記していない。党本部であればそう明確に記すのが自然であろう。なお、山口市の母親宛ての手紙の文面は次のように記されている。
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| 【出獄後の足取りその一、国立自立会へ向うまでの間延びミステリー】 |
| 東京へ着いたのは14日とされているが、この日程は間延びしすぎであろう。真相は、一刻も早く東京へ辿り付いている可能性が強い。戦前以来の活動家の名だたる者は続々と戦後党運動の拠点となった国立自立会へ結集しつつあったが、宮顕が出向いたのは10.21日と云われている。 |
この間都合12日間何をしていたのだろう、党関係以外の者と何らかの外部接触が為されていたと推定できる。 |
| 【GHQの宮顕調書不存在のミステリー】 |
| 宮顕のこの間の経過で不自然なことは、他の指導幹部の全員が釈放に当たって事前・事後の数次に亘ってGHQ要員から聴取されている事実があるにも関わらず、宮顕の場合その痕跡が記されていないことにある。宮顕が下部党員であったというのは不自然である。戦後党運動の最初より宮顕は中央委員に選出されており、徳球と書記長の座を争ってもいる。GHQが見逃すことは有り得ないと考えるのが至当であろう。 |
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| 【釈放後の「復権証明書」の取得経過疑惑考】 | |
| 【「終戦恩赦」】 | |
| この間10.12日CLO(終戦連絡中央事務局)はGHQに対して、「終戦恩赦」を上申し、10.17日大赦令(勅令579号)、減刑令(勅令580号)が発令されている。減刑令により、宮本は無期懲役から懲役20年に、袴田は懲役13年から2年3ヶ月24日を減刑された。
ここで恩赦法について述べると、恩赦には「大赦」・「特赦」・「減刑」・「刑の執行の免除」・「復権」の5種類がある。このうち「大赦」とは「有罪の判決を受けた者については、その言渡は、効力を失う」というものであり、「減刑」は「刑を減軽し、又は刑の執行を減軽する」というものである。更に「復権」とは「有罪の言渡を受けた為法の定めるところにより資格を喪失し、又は停止された者に対して」「資格を回復する」というものである。このように「大赦」と「減刑」は全くその効力が違う。「検事ノ指揮ニ因る執行停止」で出獄した大半の政治犯は、有罪の言渡は効力を失う、という「大赦」が適用されたのであるが、宮顕らは、刑事犯にも適用された途端に「刑を減軽」する「減刑令」が適用されたに過ぎないのである。出獄後に減軽されるとはどういうことか。これは、その時点で刑の執行が終っていなかった事を意味する。これも併合罪があったからである事は云うまでもない事であろう。 |
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(れんだいこ調査によれば次のようなことになる) |
| 【「終戦恩赦」と宮顕、袴田の出所問題との絡み】 | |
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以上見てきた通り、宮顕と袴田は合法的な出所ではなく、違法出所であったことにより、10.4日のGHQの「民権指令」により出所した政治犯は、12.29日、GHQがSCAPIN458号で、同93号によって釈放された政治犯の復権措置を指示し、司法省はこれを受けて12.29日勅令730号発令で政治犯の復権を措置した。「復権」とは、「政治犯人等の資格回復に関する件」のことであり、「将来に向かって刑の言い渡しは効力を失う」という文言で、差し迫った総選挙に際して選挙権、被選挙権を回復させようとすることに意味があった。これについても、大赦令と同じ流れで、純粋思想犯・政治犯だけが対象とされ、併合犯には適用されなかった。 |
| 【宮顕、袴田の執拗な抗議】 | |
| 宮顕、袴田は、昭和21年1.2日、復権適用されぬことを司法省に強く抗議している。 | |
宮顕は袴田と共に執拗に「復権証明書」を手に入れるべく奔走しているが、本来両名の言うが如く「小畑の死因が体質的なショック死」であれば、そのことを証する為に再審査を請求していくべきではなかろうか。事実は、超法規的特例措置による「復権証明書」を手に入れんが為に涙ぐましい努力を見せている。なぜ、それほど執拗に拘ったのには相当の理由があると解するのが至当であろう。 |
| 【宮顕、袴田が「復権申請理由書」を提出】 | |
| 1.20日、「復権申請理由書」を提出している。「復権申請理由書」とは、宮顕、袴田が復権措置を要求したさいの文書である、この辺りのことは宮顕が明らかにせぬまま経過していたところ、ロッキード疑獄究明等のため渡米した日本共産党調査団(内藤功参議院議員、庄司幸助衆議院議員)が、アメリカのメリーランド州スートランドの国立記録文書センターに保存されていたものを他の多数の文書とともに発見して、その写しを入手することによって明るみになった。この文書を受け取った日本政府側が書き写して、連合軍総司令部GHQに送付したものと見られる。 |
| 【日米当局の鶴首協議】 | |
| この申請によって、日本政府も従来の態度を続けることはできなくなり、47.2.22日(または25日)、宮顕、袴田の「特赦」措置をとることについてGHQの指示を求めている。GHQは検討の結果、4月末、二人に対して、恩赦によってではなく、釈放政治犯の資格回復に関する45.12.19日付け連合軍指令に基づく勅令第730号「政治犯人等の資格回復に関する件」(昭和20.12.29日公布)によって、公民権回復の措置をとるよう、日本政府に指示している。日本政府は法理論上の整合性に苦慮し、GHQの指示に従うのを躊躇していた形跡が有る。その為、GHQの再度の指示によって日本政府も復権措置をとらざるをえなくなった。 2.25日、司法省が、宮顕・袴田に対する恩赦適用についてGHQに伺いを出している。この時司法省は、復権を求める両名に対して、政治犯として釈放した誤りから、刑期の残りを恩赦で消して復権させようとしていたようである。ここには司法省も又復権させようとしている形跡を見て取ることができる。この時GHQは、何ゆえこの2名が出所し得たのか尋問している。 3.26日、GHQ民政局内部で、意見が対立。4.5日GHQ民政局内部で、宮顕・袴田の復権は政治的な判断で行うべきでないとの筋論が為される。 4.29日、GHQが、司法省の宮顕・袴田を恩赦法で復権させようという意向を拒否した。GHQは、誤って出所させた二人を日本政府が再逮捕しなかったことにより、刑事犯の部分が消えたとみなされるという観点から日本側に責任を委ねることにした。そこで、SCAPIN458号に基づく勅令730号の特例措置を指令することになった。 5.15日、上記の主旨を明記したGHQ民政局法務部顧問ハワード・マイヤーズ署名の覚書「日本人の政治犯の復権について」が出される。その要旨は、1・「二人が釈放の対象にならない」ことを「日本の司法省は二人の釈放前に行われたGHQ担当官の調査の際に認めた」にも関わらず、2・日本側当局が宮顕を病気を理由に仮出所させながら、3・追って宮顕が釈放されているのに同一犯の袴田が拘留され続けるのはおかしいという理由で袴田も出所し、4・二人はその後逮捕されていない。5・これは、GHQの意向に反してまで釈放すべきでない者を釈放させた日本側当局者の責任問題であり、6・どう解決するかについても日本側当局者の責任で行われるべきである。7・思うに、敢えて政治犯として釈放してきた経緯があるので、それなら勅令第730号を適用すべきである、としていた。 いずれにせよ、結論は「復権させるべし」の判決が先に出されており、残された問題は、GHQは日本当局の責任で処理させようとし、日本当局はGHQの超法規的措置によって処理しようとし、そのいずれで決着させるのかにあった。 |
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判明することは、宮顕・袴田の復権に当り、GHQ民政局法務部顧問ハワード・マイヤーズ氏が暗躍していることである。ハワード・マイヤーズの働き掛けなければ、宮顕・袴田の復権は有り得なかったが、こうなるとハワード・マイヤーズとはそも何者ぞということが詮索されねばならない。れんだいこは、宮顕が闇のラインを使ってハワード・マイヤーズ氏を登場させ、復権を手にしたと推定している。窮地の時に真実が現われる。この経緯に、宮顕と闇のラインの関係がはからずも露呈していると窺う。 もっとはっきり云おう。ハワード・マイヤーズ氏はネオ・シオニストの回し者ではなかろうか。ネオ・シオニストは、宮顕窮地に際して伝家の宝刀を抜いたのではないのか。皮肉なことになるが、党内スパイ摘発闘争を呼号し査問指令し続けていた宮顕こそがネオ・シオニストのスパイであったということになる。歴史の深層は深い。 2006.5.24日 れんだいこ拝 |
| 【「刑事局長特別通牒」】 | |
| 以上の経過を踏まえて5.18日司法省が、宮顕・袴田を勅令730号で復権させる「刑事局長特別通牒」を出し、宮顕らの復権に勅令730号を適用する事によって処理するよう指示している。 |
| 【「復権証明書」交付される】 | |
| 5.29日宮顕、袴田両人に「復権証明書」が交付されている。この経過は、日本当局もGHQも互いの責任の痕跡を残さぬように「本当の事情はわからないという他は無い」(元内閣法制局長官・林修三「宮本氏らの復権問題の法律的問題点」)闇の部分となっている。 | |
| (れんだいこ調査)
宮顕及び共産党現中央は、「『宮本・袴田に対する5.29日の復権証明書の交付』により、治安維持法裁判の判決は無効とされ、法的にも決着が着けられた」としているが問題が無い訳ではない。「復権証明書」の文言を見るに、「勅令第730号により、人の資格に関する法令の適用に付いては、将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなすとの同令第一条に則り、資格を回復したることを証明す」とある。この「将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなす」という文言による「復権」は、宮顕・袴田の場合にはやはり疑問が発生する。そもそも「勅令第730号」による「将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなす」とは、戦前の純正思想政治犯に対する復権文言であり、宮顕・袴田らのような併合犯には適用されなかった経過があり、にも関わらず同様文言で復権させるには無理がある。これを押し通すことを政治的圧力と云う。こういうゴリ押し手法は圧力以外には通らない。さて、誰がその圧力主体者であったのかが解明されねばならないだろう。 |
| 【「復権証明書」交付を廻る国会質疑】 | |||||||
そういう不明朗さが残っており、事実国会で問題にされている。当の質問の相手は公明党の矢野書記長(当時)であるから政治的に利用されたのは明らかであるが、利用されるだけの不分明さが残っているということでもある。それを再現すると次のようになる。これは、1976(昭和51).1.30日の衆院予算委員会で公明党矢野絢哉書記長(当時)を質問し、それに対する答弁で明確になった。この質問と答弁の要旨は次のようなものであった。
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この政府答弁は、勅令730号が「人ノ資格ニ関スル法令ノ適用ニ付テハ将来ニ向テ其ノ刑ノ言渡ヲ受ケザリシモノト看做ス」としており、勅令の目的が「人ノ資格ニ関スル法令ノ適用」に限定している事からみても妥当であろう。更に云えば次のことも問題である。恩赦法によれば、復権は「刑の執行を終らない者又は執行の免除を得ないものに対しては、これを行わない」としている。宮顕の刑が終っていない事は明らかだし「執行の免除」を受けたわけでもない。それにも関わらず、なぜ勅令730号が適用されたのか。大きな疑問である。 |
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1976.1.日、不破書記長(当時)が、記者会見で次のように述べている。
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| 【宮顕宛「復権証明書」】 |
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| 【宮本議長の出獄と復権をめぐる重大な疑惑】 | |||
菊地謙治氏の「日共の血腥い過去を忘れるな」は、「宮本議長の出獄と復権をめぐる重大な疑惑」として「崩壊した”虚構の論理”を繰り返す日共の詭弁」の見出しで次のように述べている。
「宮本・袴田の出獄と復権を巡る疑惑の数々」の見出しで次のように述べている。
「法律を無視した共産党の反論」の見出しで次のように述べている。
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(私論.私見)