40−122 水戸天狗党の乱

(参考サイト)「水戸幕末争乱(天狗党の乱

【水戸幕末争乱(天狗党の乱)】

 1863(文久3).3月、藩主徳川慶篤に従って京都に上った藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、そこで長州、因幡、備前らの藩士と交わり、いっそう尊王攘夷の志を固めたが、幕府が攘夷を行えという天皇の命令を受けながら横浜一港の閉鎖さえ実行しえないのに憤り、非常の手段をもって幕府に攘夷、具体的には横浜鎖港の決意を促すべきことを考えた。藩地に帰った小四郎は、南部の郷校に拠る同志を誘い、また常陸・下野(しもつけ)の間をしきりに遊説して挙兵への準備を進めた。

 藤田小四郎の政論は次のようなものであったと推測される。概要「尊王攘夷の『攘夷』は、幕府の方針である。すでに将軍自らが攘夷決行を宣言し、朝廷からは攘夷親征の詔勅が出されている。水戸藩は、烈公以来、天下に魁て攘夷を説いて来た。それを何故水戸藩が実行しないのか。遡れば、藤田小四郎の祖父・幽谷がそれを説き、父・東湖もこれを説いて来た。今こそ攘夷決行為すべし。この道こそが忠義である」。この主張の裏には既に長州藩との密約があった。

 3.27日、水戸藩町奉行・田丸稲之衛門を総帥と仰ぐ水戸藩の尊攘檄派(藤田小四郎藩士、郷士、神官、村役人ら63名)が、「尊王攘夷」を旗印として掲げ筑波山に挙兵する。かれらは、天狗党と称されたが、数日にして150名を越した。天狗という呼び名は、水戸藩9代藩主徳川斉昭が天保期(1830-44)の藩政改革を実施したとき、改革を喜ばない門閥派が、改革派藩士を非難したところから出ているようで、改革派には成り上がりの軽格武士が多かったから、成り上がり者が天狗になって威張るという軽蔑の意味がこめられていたとみられる。

 4.3日、天狗党(筑波勢、波山勢ともいう)は、東照宮参拝のためと称して下野の日光山へ向かった。が、日光奉行がこれを拒否したので一部の者が参拝したのみで日光を去り、同国大平山(おおひらやま)に宿陣する。

 一方、水戸藩内には、同じ尊攘派であっても急進主義の檄派に対立してゆるやかな改革をめざす保守系鎮派が勢力を保持していた。門閥派の市川三左衛門らは、尊攘鎮派が主流を占める藩校弘道館の諸生(書生)と結んで反天狗派を結成(これを通常「諸生党」と称する)し藩政の実権を握った。  

 天狗党の挙兵は両派の争乱を勃発させた。保守派は市川三左衛門・朝比奈弥太郎らが藩校弘道館の学生らを結集して江戸にむかい、江戸藩邸の主導権を握る。筑波山の挙兵に直面した幕府は、天狗党追討の方針を固め、常陸・下野諸藩へも出兵を命じた。田沼意尊を将とする部隊を派遣し、江戸藩邸の水戸藩兵(諸生党)もこれに従う。

 5月末、これを知った天狗党は筑波山に戻った。宇都宮をへて日光の東照宮に参拝し、太平山をへて筑波山にもどったこの時にはその数総勢凡そ700名に達していた。しかし、天狗党は隊員の武器や衣食のための資金不足に悩ませられた。天狗党との意見の違いから飛び出した田中愿蔵(げんぞう)らは別動隊を組織、栃木町(栃木市)や真鍋(まなべ)宿などに軍資金を要求、拒否されると放火、700人の罹災者を出したという。こうしたことからこの為天狗党の評判は急速に悪くなった。

 その間に池田屋事件が起こっている。6.16日には、一橋家の平岡円四郎が水戸藩士の林忠五郎と江幡貞七郎の二人によって殺されている。平岡円四郎は、藤田東湖に見出され、慶喜公が烈公にぜひ自分の側に仕えてくれる優れた人物がほしいと要望され、烈公から藤田東湖に相談があり、その時東湖は、幕府の川路聖謨から平岡円四郎が優れた人物であると聞いていたことにより彼を推薦したと云われている。渋沢栄一を見いだしたのが平岡円四郎である。渋沢栄一達が関東に来ている間に、慶喜公の主家筋にあたる水戸藩の二人の人物によって暗殺されてしまったことになる。

 7.23日、水戸藩内でクーデターが起こり、保守派が台頭。失脚した武田耕雲斎ら天狗党に加わる。
 
 7月、幕軍・諸藩軍・諸生党は、下妻多宝院などで交戦したが天狗党の夜襲をうけて敗北、市川らは水戸城に入って天狗党の家族を虐待した。この頃幕府は田沼意尊(おきたか)を追討軍総括に任じて陣容を整え直し、筑波山に向かった。天狗党は、攘夷の実行(横浜鎖港の実現)より先に市川らを討って家族らを救うことに決め、水戸城下に入ろうとしたが果たせず、これ以降、府中(石岡市)・小川(小川町)・潮来(潮来町)方面に屯集、水戸周辺で諸生党と戦った。

 このような情況を知った藩主徳川慶篤は、支藩の宍戸藩主松平頼徳(よりのり)を名代として水戸へ遣わすこととなり、これには用達(ようたっし)榊原新左衛門ら700名が同行(大発勢という)、一行には途中から下総小金(こがね)辺に屯集していた士民数千人や、江戸に向おうとして果たせずやはり小金にとどまっていた元用達武田耕雲斎らも合流した。しかし市川らが入城を拒んだため、頼徳らは那珂湊に移り、小川辺にいた小四郎らも応援に那珂湊へ来た。その間水戸藩内における紛争は、複雑な様相を呈し、激派・鎮派、そして諸生派と、いろいろな動きがある。

 このため那珂湊では大発勢と天狗党が共同戦線を張り、市川らと対峙するに至った。市川らは田沼の率いる幕軍・諸藩軍の応援を求めて那珂湊を包囲、10月の戦いで榊原ら大発勢千人余が投降した。(頼徳は10月5日、幕命により切腹)。

 この間に江戸藩邸の主導権をにぎった尊攘派鎮派は、藩主徳川慶篤にせまって藩内抗争を武力で収束することになり、支藩宍戸藩主松平頼徳を将とする部隊が水戸にむかった。これを大発勢という。天狗党の主力も筑波山から水戸にむかった。水戸の鎮派を結集した武田耕雲斎の部隊も江戸へむかう途中で、幕府軍に進路をさえぎられ、大発勢に合流した。水戸城に迫った大発勢は、諸生派に入城をこばまれ、やむなく那珂湊にしりぞいた。天狗党もここに接近して、大発勢を支援する姿勢をとった。幕府軍は水戸の諸生派と連携して大発勢を包囲し、松平頼徳を誘い出して切腹させた。幕府軍はさらに那珂湊の大発勢と天狗党に総攻撃を加えた。

 11.1日、大発勢の過半は幕府軍に降伏したが、投降に反対した武田耕雲斎、藤田小四郎らは脱出、大発勢の残りと天狗党・武田軍は幕府軍と戦闘をまじえながら北上して大子(だいご)村(大子町)に集結、態勢を立直して、武田耕雲斎を総大将にえらび、筑波挙兵組の田丸と藤田を副将とした。彼らは尊皇攘夷の目的を達成し、幕府軍とやむなく対戦した事情を朝廷に訴えるため、常陸大子を出発し京都へむけ西上を開始した。その数1千名人余り。

 大部隊は、総大将のもと、大軍師(山国兵部)、本陣(田丸稲之衛門)、輔翼(藤田小四郎、竹内百太郎)、天勇隊、虎勇隊、竜勇隊、正武隊、義勇隊、奇兵隊などを編成、11.1日大子を出立、真冬の下野・上野(こうずけ)、12.1日、耕雲斎達は美濃の揖斐宿に到着する。

 この間、耕雲斎達は重大なことを知らされる。それは頼みの綱と思っていた慶喜公が朝廷の命をうけて西上軍討伐の大将となって出陣してくるという報せだった。慶喜公は、禁裏御守衛総督という立場から、幕府軍や諸藩兵と戦いながら京都に向ってくる耕雲斎達の西上浪士軍に対応しなければならなかった。そこで追討軍を自ら率い、近江へ出陣するために許可願いを朝廷に提出し、11.31日、朝廷から出馬してよろしいという御沙汰書が出る。但し、もし降伏して来た時にはそれに応ずるだけの処置でいいんだぞ、ということを併せて朝廷では命じている。

 この時突然、薩摩の西郷隆盛の秘命を受けたという中村半次郎(のちの桐野利秋で、人斬り半次郎と言われた人)が、耕雲斎に面会を求めて参る。耕雲斎は直接会わずに、藤田小四郎や竹内百太郎に面会させた。中村が言うには、薩摩藩が尽力するから間道を通らず、速やかに本道(中山道のことか)を経て入京するように、との勧めであった。ところが小四郎達は、慶喜公が鎮撫のために出陣されるとのことであるから、本道を行くのは難しい。好意は有り難いが本道を行くのはお断りする、と答えた。そして耕雲斎達は、慶喜公の追討軍と遭遇しないように越前に向おう、ということで路を北に取り、今の福井県境の木の芽峠を越えて行く。薩摩は本道を通れと言うが、どのような援助をするのか。どのような行動を取るのか。中村半次郎は何も具体的には示さなかった。耕雲斎達にとっても不安は十分にあった。

 12.3日、慶喜公は追討軍を率いて京都を出発、琵琶湖のほとり大津に出陣する。弟の松平昭武公も翌日在京の水戸藩兵、即ち本圀寺勢とよばれる兵を率いて出陣する。12.7日、大津の総督本陣から加賀藩の永原甚七郎に呼び出しが来た。そこで永原が一橋総督の陣に行ったところ、この頃、薩摩の探索方と称する者が四人、早打駕篭で美濃路に来て、大垣・彦根二藩に次のようなことを通達したという(『武田耕雲斎詳伝』下)。「今度賊徒歎願の筋申立多人数間道から押寄せ来たので。一橋卿には追討を願立。諸藩へ加勢を命じたのであるが。元来一橋卿は賊徒へ理解され。降伏せしむるの内意であるから一方に於て之れを討伐したのでは。内意に悖ることになるべし。此ことを告ぐる為に是れまで出向いたのである」。このように永原甚七郎は総督の陣で言われたと伝えられている。即ち、「慶喜公は耕雲斎達に理解を示されて、追討とは言っているけれども、実際には降伏させようという気持なのだから、これを一方的に討ったのでは総督の心に反することになるぞ」という意であり、薩摩藩はその趣旨を流布していった。それを聞いた彦根藩と大垣藩は、慶喜公がそういう気持ならば、積極的に討つわけには行かないと弱腰になった。

 薩摩の真意は測りかねるが、結局、幕府軍と戦いながらやって来る者が、慶喜公と充分に連絡が取れていて、慶喜公が京都に迎え入れようとしている印象を与えてしまいかねなかった。結果的に慶喜公を非常に複雑な立場に立たせた。幕府は一橋総督慶喜公を疑いはじめ、慶喜公としては命取りになりかねなかった。そこで、慶喜公は、さような所存は毛頭ないから、浮説に迷はさるゝことなく充分に討伐するようにと永原甚七郎に言い渡している。

 12.10日、一橋家の探索人で渋沢誠一郎(成一郎、渋沢喜作のことで渋沢栄一の従兄)が葉原宿の金沢藩の陣にやって来て、概要「薩人が濃江諸藩へ離間策の言を放ったといふことが知れた。この薩人は河田十郎といふ者で。拙者が濃州路で面会したから之れを詰問した所。大に困惑したが。押て之れを追及もしなかった。薩人遊説のことは一橋卿に於て何等関知しないのであるから。否。寧ろ一橋卿の嫌疑を解くには。速かに武田の同勢を征討するに在り」と述べたと伝えられている(『武田耕雲斎詳伝』下)。

 12.1日、西上浪士軍は美濃揖斐から北上して越前の新保宿に入る。今度は長州藩が密使を遣わし、「若狭・丹波、すなわち日本海側を通って長州へ来い。長州と一緒に行動しよう」と勧めてきた。72歳の山国兵部は「是非そうしよう。ここで自首しても我々は滅ぼされる。華々しく一戦を交えるためにも長州へ行こう」と主張したが、耕雲斎が言うには(『武田耕雲斎詳伝』下)、「夫れ我が徒の国を去る正邪を明らかにし。先君烈公の遺訓を遵奉し外夷を掃討し。以って国威を宣揚せんとするに在った。────至願禁闕に達するに在るのであるが。命か運か今此に主君に等しき二公(慶喜・昭武)に敵することは。臣子の情。忍ぶべからざる所であるから。万事此に窮すといふべきである。従って我が徒の態度は此に決したのである」ということで、降伏を決意した。

 12.12日、耕雲斎は嘆願書を提出したが、これは取り上げられず、降伏文書でなければ受け付けられないということであった。12.16日、慶喜公は本陣を琵琶湖の北、海津というところに移る。そして12.17日に総攻撃と決定する。17日に総攻撃すると慶喜公が決定したという知らせは、西上軍を窮地に追い込んだ。その報を加賀藩の家老永原甚七郎から知らされた耕雲斎は、12.19日、遂に降伏する。12.20日、耕雲斎ら823名が加賀藩に投降した。

 12.21日、一橋総督は降伏状を正式に受理する。12.23日、慶喜公は海津を発って京都に戻る。降伏軍は12.24日から25日にかけて敦賀の三つの寺(本勝寺・本妙寺・長遠寺)に収容され、この時加賀藩は実に懇切に彼らのめんどうを見る。永原甚七郎達は助命嘆願し、朝廷でも盛んに武田耕雲斎達の助命嘆願する。永原達は、出来れば加賀藩が預かって能登半島あたりに移して、暫らく生活させようという事まで考えていたという説もある。皆が耕雲斎達が処刑されることを避けようと努力した。

 しかし年が改まるや様相が変わる。慶応元年1.18日、田沼玄蕃頭意尊が京都にやって来て慶喜公に会う。慶喜公は田沼に対して、直ちに引受けになるよう申し入れる。温情の措置を期待する旨を告げ、田沼は、「天下の公論も之れあり。最もよき公平の処置方でなくては。皇国人心の折合もあり。別して常野にも之れと同様。降伏の徒も之れあるから。その処置は一致せねばならぬ」(『武田耕雲斎詳伝』下)、つまり「不公平な取り扱いは致しません」と請け合い、慶応元年1.29日に、常野浪士追討軍総括・若年寄の田沼玄蕃頭意尊の手に引き渡されることになる。

 田沼は直ちにこれを越前海岸の舟町にある十六棟の鰊倉に閉じこめてしまう。五十名づつ収容し、足枷まではめてほとんど動きが取れない状態にして、帯とか袴など紐類は全部取り上げ、一日の食事も握り飯二、三個ぐらいという凄惨な状況に追い込んだ。2.4日から、352名が斬首される。徳川慶喜から鎮圧を引き継いだ田沼は、西上軍の約3分の1を処刑するという苛酷な処置をした。

 2月、耕雲斎・小四郎ら天狗党の主要メンバー352名が斬罪、他は遠島や追放の刑に処せられた。武田耕雲斎や藤田小四郎、田丸稲之衛門、山口兵部の四名の首は、塩漬けにされて水戸へ送られ、市中に晒されるという残忍な事まで行なわれている。そのほか遠島・追放、或は水戸藩引渡しなどに処せられ、水戸におけるその家族縁者達も、八十数歳の老婆をはじめ三歳の子供まで殺されるという悲劇が繰り返されて行った。

 慶喜公は、まさか耕雲斎達があのような処置を受けるとは想像もしていなかったと思われる。後に『昔夢会筆記』の中で、慶喜公は次のように答えています。概要「江戸の方では、武田が私等と気脈を通じているとこう見ているのだ。それで降伏するまでの手続きはちゃんと付けて、それぞれ加州はじめへ分けて預けた。で、田沼玄蕃が 受け取りに来るというから、それを待って玄蕃が来たところで田沼へそれを引き渡した。御引渡し申す、受け取った、それまでで此方の手は切れた。それから後の処置は田沼がやったんだね」。慶喜公の立場は、武田耕雲斎達を京都の手前で、京都の町に入らないように抑える。それが禁裏御守衛総督の役目でありました。降伏した者を受け取るのが、常野の浪士達を取り締まる田沼の役割でありました。慶喜公としては渡さざるを得ないわけです。ただ、その後の処置が、まさかそこまでやるとは多くの人達は考えなかったのであります。見事に田沼にしてやられたのであります。そしてこれが明治の初めの時代まで尾を引く、深刻な悲劇、悲惨な状況を生み出す原因となってゆく。 

 敦賀での処刑をまぬがれた西上軍の多く(約500人)が農民身分であったことでわかるように、水戸藩尊攘派の運動には多数の農民が参加していた。たとえば文久3年(1863)9月小川郷校での尊攘派集会の参加者名簿によれば、合計701人の内訳は、農民458人、村役人163人、郷士43人などであった。郷校での尊攘思想の普及や軍事技術の練習が、周辺農村の農民を尊攘運動に動員することになったのである。一方、尊攘派の農民が挙兵・移動・交戦・西上などの行動に参加して村落を離れているあいだに、村々では反尊攘派の動きがたかまった。それは自村の防衛をめざして農兵的組織を結成するものと、尊攘派の上層農民の家を打ち壊す一揆に結集するものとがあった。こうして、水戸藩の尊攘派と保守派との抗争は、武士階級から農民階級にひろまり、明治維新にかけて、いやしがたい傷痕をのこすことになった。





(私論.私見)