| 「読売新聞社史考」そのBナベツネ考、その背後勢力考 |

(最新見直し2005.6.24日)
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| 2004.6月頃、ナベツネが世に突如浮上し始めた。プロ野球の1リーグ化を廻り指導力を発揮せんとしたが、その独断的権力的手法が批判を浴び、どんでん返しで読売巨人軍のオーナーを辞任することになった。 このナベツネの正体を見破り論述する際には、彼の戦後焼け跡期の共産党入党時の「東大新人会運動」の足跡から追わなければならない。れんだいこには、宮顕同様の変調さが臭って仕方ない。 読売入社後のナベツネの「天下取り」の動きがこれまた興味深い。思うに、「知力、体力、気力」というレベルにおいては相互に遜色無い者達が雌雄を決していく過程で何が決め手となったのであろうか。れんだいこに見えてくるのは、マキャベリズムとも云うべき智謀力、最後に運命力というものもあるような気がする。ナベツネはこの闘争に勝利したが、その彼の決定的な欠陥は、彼をして闘争に嗾(けしか)けた理念つまり自己の実存を歴史において何の為に何を求めて争ったのかという「社会進歩へ向けてのグランド・デザイン」が全く見えてこないことに有るように思われる。「単に権力掌握の為の生の躍動」としてしか伝わってこない。いずれ寿命がある身のものをそういう風に費消するのは虚しいものでしかなろうに、と思うに付きこちらまで虚しくなる。 以下、木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」、「元日本共産党『二重秘密党員』の遺言その7」、「(13−5)最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり」、魚住昭氏の「渡辺恒雄、メディアと権力」その他を参照する。 2003.7.10日、2004.8.14日再編集 れんだいこ拝 |
| 【東大新人会の「再建」運動】 |
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現読売新聞社長・渡辺恒雄(通称ナベツネ、以下ナベツネと表記する)は、1926(大正15).5.30日、東京都杉並区で誕生している。1939年、13歳のとき私立開成中学入学。1945(昭和20)年、敗戦直前に東京帝国大学文学部哲学科に入り、学徒動員で中断後、まだ旧制のままの文学部哲学科に戻った。終戦後まもなく青年共産同盟に入り、母校の東高に通い大島利勝、氏家、馬場らと戦犯追放運動に乗り出す。 当初は党のコントロールに置かれるフラクション活動と位置付けていたが、次第に党の指導下から逸脱した「東大独立共産党」的な動きを見せ始め、その内実は青共運動に代わる右派系路線を敷いていくことに狙いがあった。ナベツネ派のこの動きの是非はともかく、この分派的活動がやがて党中央と対立するのは時間の問題となる。 |
この「再建」活動の背後関係が疑惑に包まれている。この種の活動が単独で為し得ることは考えにくく、実際にはそれを支える党内グループが存在していたということにもなるが、解明されていない。「東大細胞の指導部が少なくとも表面上は賛成をしていた」と漠然と認識されているが、この時の指導部とは誰であろう。れんだいこの臭いからすると、党中央内反徳球派即ち宮顕派との阿吽の呼吸で為されていた可能性を推定する。但し、ナベツネはその関係を明らかにすることを注意深く避けているように見える。 |
| 【東大新人会の再建運動の資金源疑惑】 |
| この時ナベツネは、新人会創立仲間の中村正光を経由して、活動資金5千円を戦前に共産党を抜けて裏切り、党の破壊に走ったことで有名な三田村四郎から受け取っていた。ナベツネは後にかなりの長文の「東大細胞解散に関する手記」(「始動、48.3.1」)を書き上げており、その中でナベツネ自身がこのことを追認している。「私は新人会財政部として若干の寄附を三田村氏から得た」、「その際我々は同氏が党の転向者でもあるので、旧指導部員の諸君と相談しその賛成を得た」という書き方で、三田村から金を貰った事実を認めている。 三田村はかなり初期の頃からの労働運動畑活動家であり、佐野学、鍋山貞親、水野成夫、田中清玄らと共に戦前の共産党幹部の一人であり、時の共産党弾圧に際しての転向組の一人であり、関係者で知らぬものはいなかった。転向後の三田村は、「三田村労研」の名で労働組合の御用化工作を続けており、鍋山と共に精力的に反共活動を展開していることで知られていた。この三田村から、ナベツネは右派系運動の工作資金ということを承知で金の工面を受けていたことになる。つまり、その活動は最初から怪しさがあったことになる。 |
| 【東大「再建」新人会運動の「モダニズム」との連動】 |
| ナベツネらの活動は、当時各分野で巻き起こりつつあった「モダニズム」と関連していた。「モダニズム」とは、この当時経済理論における大塚史学、文学理論での近代主義、哲学戦線での主体性論など各分野で硬直的なマルクス主義からの解放が生み出されつつあり、これを擁護するイデオロギーとして跋扈しつつあった。その主流は社民運動と連動していた。 「主体性論争」は、マルクス主義運動の見直しの契機=「反省の矢」として重要な意義を持っていたと思われるが、文学の領域で狼煙が上げられ、やがて哲学の分野に飛び火し、遂に論壇を席捲していった。しかし、共産党系イデオローグの一人古在由重氏などの「主体性などと騒いでいるのは人間の屑」という観点から水を差され、鎮火していったという経過がある。 新人会運動の慧眼点は、この時既に「東欧の主体性無き民の悲劇を見よ」とスターリン主義的な圧政を批判していたことにある。この視点からソ連に追随する党中央路線をも批判していたことになる。今日から見れば「先見の明あり」ということにもなる。 ナベツネは翼23年雑誌「胎動」に手記を発表している。次の一説がある。「政治とは多かれ少なかれ目的至上主義的要素を含む。だがこの目的至上主義こそ我々の最も憎むべき敵である。だからたとい終局において政治無き社会、真実の自由の王国が目指されても、そこに至る最短距離をとるべく如何なる手段を執ろうとも差し支えないという論理は成り立たない。プロセス自体が問題である。私は今ブルジョア的人道主義を持ち出して階級闘争に水をさそうとするのではない。美しい終局目標を振りかざすことによって不正と虚偽とを温存とようとする集団に対して抗議するのである」(「三一書房編集部編 資料戦後学生運動」)。 |
| 【東大新人会運動の渡辺ら処分される】 |
| 1947年に開始されたナベツネらによる東大新人会の「再建」の流れは翌48年まで続く。しかし、次第に「再建新人会」の指導的幹部・ナベツネ、中村に対する嫌疑が渦巻いていくようになり、査問に付されている。47.11.15日、代々木の党本部で東大細胞談話会が開かれ、ナベツネの動きが批判されている。「新人会の発展は極左派の諸君の猛烈な反対と妨害を受け、私は代々木に喚問され、十人近くの極左派の諸君の取り巻き罵倒する中で宮本中央委員、山辺統制委員に詰問された」(「東大細胞解散に関する手記」)とある。しかし、これはれんだいこの読みであるが、ナベツネの黒幕に宮顕が位置していたとしたら、そんな査問は八百長デキレースにしかならない。 11.30日、東大細胞全体会議が開かれ、新人会活動の動きを廻って右派系渡辺グループと左派系力石・沖浦グループが難詰応酬している。中村の査問問題を廻って遣り取りされたが、本質的には新人会運動を容認するのか潰すべきかの是非論であった。この時の宮顕の立場が胡散臭い。宮顕はこの時、党中央の統制委員会の責任者として出席している。凡庸な俗説は、宮顕をナベツネ査問側に見て取る見解を流布しているが、凡そ皮相的であろう。ナベツネ日記に、「(細胞全体会議の)帰途、宮本顕冶と赤門で談ず」とあるように、通謀関係にあると見るのが正しいと思われる。 12.7日、東大細胞総会が開かれ、ナベツネ派問題が討議されている。「日本共産党決定・報告集」その他によると次のように議事が進行した。まず、ナベツネ派弾劾の脱党届が読み上げられている。渡辺らの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められた」ものの、中村除名案に関しては投票にかけられ、「除名賛成・27、反対26、棄権3」で僅差で可決されている。 除名反対派の意見は、「事実は除名にあたいするが、しかしながらその当時は組織も弱かった、指導部の人たちも関係しておったのであるから情状をくんでやって、離党をすすめればよいという」見解であった。更に、「もし除名して新人会の運動に圧迫を加えるなら、党や細胞のいろいろなことをバクロするという捨てぜりふを中村、渡辺が残したので、要するに後難をおそれた」とも記されている。 まもなく青共本部の壁新聞に断罪状が張り出されている。これを見れば、罪状として概要「一、三田村四郎のような階級的裏切り分子から金をもらって活動していた。二、河野密(こうのみつ)等の追放された戦犯とも通じ金をもらっていた。三・党の文書等を本富士警察署に廻していた」とある。これが全て真実であるとするなら、紛う事亡きスパイ活動そのものではないか。 12.16日、ナベツネの脱党から9日後のこの日、東大細胞に突如解散命令が下されている。これは、「共産党が戦後再出発して以来の最大の処分」(「第6回党大会統制委員会報告」)となった。「まちがった考えを細胞の半分くらいの人がもっていたのでは、党のいう、鉄の規律も、意志とおこないの統一もたもてない」(1948.1.8日付アカハタ)という理由で、「東大細胞の解散、全員の再登録を決定し」、東大細胞に通告した。 この判断責任者は宮顕と考えられる。凡庸な俗説は、宮顕を査問指示者として描き出しているが皮相的であろう。沖浦の回想で、「解散と聞いてびっくりしてね。ミヤケンのところに飛んで行った。そしたら『時間を待って復党とかの措置を決める』とこわい顔して言うてましたで。まぁ、見せしめという意味でしょうね」(魚住昭「渡辺恒雄 メディアと権力」)とある。 この証言は貴重である。何ら必然の無い東大細胞に突如解散命令は、ナベツネ一派の「警察のスパイ疑惑」が高まり、これを究明すべきところをその芽を潰している。むしろナベツネ一派の救済の役目を果たした、と窺うのが相当ではなかろうか。これを奇禍として左派急進的に盛り上げを図るべきところを強権的に捻じ曲げている、と窺うのが相当ではなかろうか。沖浦氏の「まぁ、見せしめという意味でしょうね」的理解は、事の真相を何ら理解していないことになろう。 当時の或る細胞は次のように回顧している。「私たちの間では思想的・路線的な食い違いだったのに、党本部が規律違反の問題にすりかえてしまった。意見の対立が起きたとき相手を排除するのでなく、オープンな実践の中でどちらが正しいか検証していくべきだった。結局細胞内の意思疎通が不足していたんですね。そういう意味では不幸な出来事だったと思っています」(魚住昭「渡辺恒雄 メディアと権力」)。それは半分の真実であり、残りの半分はナベツネ一派のスパイ活動事件のウヤムヤ化ではなかったか。そのように受け取らない方が不自然であろうに、史実は宮顕の狙い通りに進む。 |
| 【アカハタのナベツネ除名記事について】 |
| 1.6日付けアカハタは概要「二人は警察のスパイであり反革命分子」の烙印を押し追放した」(1984.1月号「文芸春秋」)。更に、1.8日付けアカハタは、「まちがった考えを細胞の半分くらいの人がもっていたのでは、党のいう、鉄の規律も、意志と行いの統一もたもてない」を理由とする記事を載せている。 |
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| (前年の12.7日東大細胞総会の内容との絡みが良くわからないが次のように流布されている) 1.30日、当時中央の統制委員会の責任者だった宮本顕治(現議長)も参加する細胞総会が開かれた。この時の様子は、2.7日付けアカハタ(「日本共産党決定・報告集」・人民科学社)に発表されている。それによると、細胞総会には約80名が出席して、会の今後の方針を協議した。席上、ナベツネらの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められ」、「大衆討議の結果、非民主的ボス性を除去することになり、渡辺、中村は脱退した」。 こうして、大衆討議の結果、ナベツネ一派は放逐されたが後味の悪いものを残している。ナベツネは、「東大細胞解散に関する手記」の締め括りで、「私は党内党外の真摯な青年諸君の批判と審判を待つのみである」と書き上げている。 |
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| 【その後のナベツネの学内での動き】 |
| 東大細胞解散後は、沖浦、武井、力石、大久保の4名が細胞再結成運動へと取り組んでいくことになる。渡辺は脱党後いったん新人会を解散、翌年1月再発足させている。メンバーは東大YMCA代表の植木光教(後に三木内閣の総理府総務長官)、緑会(法学部自治会)委員長の有馬弘(後の新日鉄監査役)ら10名前後。氏家も遅れて参加している。「アンチカーペー(共産党)」の野合でもあり、沖浦、武井ラインと東大自治会の主導権を争っていくことになった。 有馬の後に新人会系の緑会委員長を引き受けた玉井外茂は、往時を回顧して次のように述べている。「法学部が動けば全学部が動く。東大が動けば他の大学も動く。だから法学部自治会がカーペー(共産党)側に行かないよう奔走したんです。新人会は御用化したとよく批判されましたけど、それはワタツネや植木君らがやはりそういう作戦しかなかろうと考えてやったことです。僕らが学生課で打ち合わせするのを学生課長が聞いていて『うん、そうしてくり。そうしてくれ』と言う。だから新人会は御用商人みたいなもんです」(魚住昭「渡辺恒雄 メディアと権力」)。 新人会は大学当局の全面的なバックアップを受けており、「権力と結託して政治的な権謀術数世界にはまり込む」原型がこの辺りに形成されていることが判明する。 ナベツネの往時の回顧は次の通り。「東大では一時、共産党が完全に学生運動を牛耳って各学部をみんな動かして、フラクション活動に成功した。だから、本当に一人で百人は動かせるんだと分かった。百人で一万人が動かせる。そういう計算になるわけですよ。二百人居れば、東大二万人の学生を好きなように動かせる。それが共産党体験で得た最も役立つことだった」(魚住昭「渡辺恒雄 メディアと権力」)。 1949.3月、東京大学文学部哲学科卒。 |
| 【ナベツネによるこの時代の回顧】 | |
ナベツネは、「1996.6.27日講演・これからのマスコミの在り方」で、この時代を次のように回顧している。
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| 【ナベツネ読売新聞社に入社】 |
| 1950.9月、「レッド・パージ」の吹き荒れる最中、読売新聞社に入社。面接試験でマルクス主義批判を展開したのが奏効した。ナベツネの誘いで、半年遅れの1951.4月、氏家齋一郎が入社。かくて、ナベツネは、「東京高校〜東大日共細胞〜読売と肩を並べて歩んできた親友」氏家を配下に持つことになる。この二人の連れション街道が興味深い。 ナベツネは読売ウィークリー編集部に配置され、機動的な取材に明け暮れることになる。「山村工作隊潜入レポ」でスクープを取る。但し、社会部との軋轢が開始されることになる。 1952.7月、「山村工作隊潜入レポ」記事が評価されて政治部入りとなる。ナベツネが政治部入りして手掛けた最初の仕事は鳩山家への取り入りであった。 1954.3月、宇都宮徳馬夫妻の媒酌で篤子と結婚。 1954.12月、鳩山政権が誕生すると、自由党総務会長・大野伴睦の番記者になった。ポスト鳩山を廻っての政争の最中、大野と行動を共にすることで正解人脈を広げていった。 1955.2月、読売新聞社主・正力松太郎が衆院選に初当選。 |
| 【ナベツネ―中曽根―児玉同盟結成される】 | |
| 1956年、総裁選の最中、読売新聞社主兼代議士でもあった正力松太郎を介して中曽根康弘と出会う。一時、政権取りを目指した正力が、正力のシンパであった中曽根とナベツネを懐に抱えようとしたことによる。ナベツネは犬猿の仲であった大野と中曽根の手打ちをお膳立てしている。 1958.4月、次期FXの機種選定で、グラマン機に決定とのスクープをものにしている。この頃、防衛庁にFX問題が発生している。1958.4月、防衛庁担当を兼ねていたナベツネがFX問題で一面トップのトクダネをものにしている。防衛庁がFXに米国グラマン社のF11F1F(通称スーパータイガー)を採用することを内定し、近く開かれる国防会議で正式決定されることになっていた。これをスクープした。 国防会議は筋書き通りにF11FをFXに内定し、秋にも日米両国間で正式調印の見通しとなった。これを政界のフィクサー児玉がひっくり返す。児玉はグラマンのライバル会社ロッキード社のエージェントとなっており、河野を使って岸や防衛庁に機種選定の再検討を働きかける。続いて「政界のマッチポンプ」と云われた衆院決算委員長の田中彰冶(河野派)を使って決算委員会で「グラマン汚職」を追求させる。岸や幹事長の川島正次郎がグラマン社から巨額の賄賂(リベート)を受け取った疑いがあると騒いだ。たまりかねた政府はグラマンの内定を白紙決定。改めて、ロッキード派と云われた空幕長の源田実らを調査団として派遣し、その報告を受けた形で翌59.11月、FXをロッキード社製F104Cに逆転決定した。全ては児玉が描いた筋書きで、ナベツネがこれを読売新聞を使って援護射撃した形になっている。 7月、始めての著作「派閥ー保守党の解剖」を弘文堂から出版している。続いて翌年の2月には2冊目となる「大臣」を同じく弘文堂から出版している。 1959.2月、岸、大野の「誓約書」の取材で児玉誉士夫邸を初訪問。ちなみに、「中曽根は、児玉を先生と呼んで私淑していた関係にあった」。 ジャーナリストの高野孟氏は「別冊宝島72 ザ・新聞」に次のように記している。
つまり、児玉軍団のいわば準構成員として「中曽根−ナベツネ−氏家」連合が形成されていたことになる。 |
| 【ナベツネが政界経済界に暗躍】 |
| 1959.6.18日、中曽根は科学技術庁長官の座を射止める。この頃毎週土曜日、ナベツネと中曽根の読書会が続いている。メンバーには産経新聞の福本邦雄(戦前一世を風靡した共産党の理論的指導者・福本和夫の息子で戦後の党運動からの転向組)、読売新聞経済部の氏家、後に小林克己(戦後の党運動からの転向組みで、当時参院事務局勤務)も加わっている。主として憲法改正試案の作成と米国流政権取りの研究。その他週一のペースで料亭「松山」で財界人を招いての懇親会を開いている。中曽根の人脈や資金源を広げることになった。「大臣」を出版。 1959年、福本は岸内閣の官房長官・椎名悦三郎の秘書官となる。その縁で、中曽根は岸−椎名ラインに食い込むことになる。 1960.7.13日のポスト岸の跡目争いで、ナベツネは大野派の参謀格として立ち働く。結果的に敗戦したが、大野のナベツネに対する信頼は更に強まった。新総裁就任の件で、伊藤昌哉を通じて池田隼人と面談する。 1961年、「党首と政党ーそのリーダーシップの研究」を出版。 1962(昭和37)年、ナベツネは中曽根と共訳の「政界入門−現代アメリカの政治技術」を弘文堂から出版。 1962.5月頃、児玉の紹介でKCIAのさい英沢と赤坂の料亭で会合。10.22日、KCIA部長・金*泌が大野と秘密会談。11.12日、金*泌が大平外相と会談。極秘メモ「金・大平メモ」が作成される。11.13日、「大野伴睦訪韓」の特ダネをスクープし一面に掲載される。12.9日、児玉が訪韓。12.10日、日韓条約交渉政府特使として訪韓する大野に同行。12.15日、「金・大平メモ」をすっぱ抜く。 1963.1月、大蔵省、大手町の国有地を読売に払い下げする方針を省議決定。 1964.5.29日、大野伴睦が心筋梗塞で死去。 1964.11.9日、池田が後継総裁に佐藤栄作を指名。 |
| 【ナベツネの「九頭竜ダム補償問題事件」との関わり】 |
| 1964.12月初旬、緒方克行が九頭竜ダム補償問題で児玉に調停依頼。12.27日、氏家斉一郎と共に児玉邸で緒方克行と会う。これが「ナベツネの九頭竜ダム疑惑」に繋がる。1964.12月初旬、九頭竜ダム建設で水没することになった鉱山経営者・緒方克行は補償交渉の調停人として児玉の元を訪ねる。この時、児玉は、「内容も理解できたので、何とか調停して差し上げましょう。既にこの問題に携わるメンバーも決めてあります。中曽根さんを中心として読売政治部の渡辺恒雄君、同じ経済部の氏家斉一郎君に働いてもらいます。ま、暫くは成り行きを見ていてください」。 12.27日、緒方は児玉邸で渡辺と氏家に引き合わせられる。この時、事前運動費として1千万円(当時の金額を今換算すれば1億円相当)を児玉に差し出している。しかし、働きかけは成功せず、後日1965.7.25日運動費も返還されている。妙な事件である。 ジャーナリストの高野孟氏が「別冊宝島72 ザ・新聞」に、「社会部の事件記者たちが、たとえば九頭竜ダムの汚職事件を突っ込んでいくと、児玉(誉士夫)と並んで自社の渡辺の名前が出てきてしまうのだから、これでは取材にはならない」と指摘している。 石川達三の「金環蝕」の題材ともなり、同名で映画化までされた一大スキャンダルである。多くの疑獄関係書に、詳しい経過が記されている。 |
| 【ナベツネの「日韓基本条約締結」との関わり】 |
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1965.6.22日、日韓基本条約及び4協定が締結された。その舞台裏で児玉とナベツネが動いている。(概要、略) この時、植民地支配の賠償として日本から韓国に支払われた巨額の賠償金の利用を廻って癒着が発生し、日韓政財界に賠償利権ビジネスを生み出している。元関東軍作戦参謀にして伊藤忠商事取締役・瀬島龍三が暗躍している。 |
| 【社会部との抗争】 |
| 1965.7.8日、河野一郎が急死。 1965.8.1日、正力の娘婿・小林與三次が主筆兼論説委員長(役員待遇)として入社。 その後、社会部との抗争を繰り広げる。ナベツネの急速な昇格ぶりは、「社会部帝国」といわれて久しい読売の体質に根本的な変革をきたすものだった。 1966年夏、佐藤首相が読売に決まりかけていた国有地払い下げを白紙撤回宣言。ナベツネは氏家と共に国有地獲得工作に奔走。 12.22日、務台光雄が本部長会議の席上で、佐藤首相批判の大演説。それを受けてナベツネが反佐藤キャンペーン記事を執筆。翌年7月頃、佐藤首相は読売への払い下げを決断。 1967.11月、中曽根が第2次佐藤内閣で運輸相に。 |
| 【政治部の戸川猪佐武との抗争】 |
| 政治部の戸川猪佐武との抗争。 |
| 【ナベツネの人心掌握術】 | |
元読売新聞社会部記者・前沢氏の著「渡辺恒雄 メディアと権力」は次のように記している。
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| 【ナベツネワシントン支局へ転出】 |
| 1968.9月、大蔵省との間で国有地売買契約を締結。その6日後、ワシントン支局赴任のため、渡米。ジャーナリストの高野孟氏は「別冊宝島72 ザ・新聞」に「『あんなのを政治部長にしたら大変だ。児玉に読売を乗っ取られる』という社会部の圧力があって、ワシントンに支局長に出されることになる」との裏事情があったと記している。 1969.10.9日、社主・正力松太郎が冠不全で死去(享年84歳)。1970.5月、務台光雄が社長に就任。小林與三次は日本テレビ社長に。 |
| 【ナベツネワシントン支局から凱旋】 | |
| 1972(昭和47).1月、ナベツネがワシントン支局の任務を終え帰国。2年の約束が3年余に延びての帰国であった。編集局参与になる。 11月、解説部長に昇格。 1973(昭和48)年、「ウォーターゲート事件の背景」を出版。 1975.6.26日、ワシントンより帰国後3年目にして政治部長兼編集局次長の座に登る(「読売政変」)。
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| 【ロッキード事件勃発】 |
| 1976(昭和51).2.4日、ロッキード事件勃発。事件の黒幕として児玉誉士夫が逮捕され、繋がりの深い中曽根も窮地に陥る。児玉、中曽根と実懇のナベツネにも疑惑が向かい、「強きの渡辺も一時は辞表をだすことまで覚悟」(高野孟氏の「別冊宝島72 ザ・新聞」)とある。 |
| 【九頭竜ダム補償事件告発本が出版され、ナベツネ窮地に陥る】 |
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「児玉誉士夫というキーパーソンが、メガトン級の政界疑獄、ロッキード事件の主役として世間の注目を浴びていた苦境の最中」、1976年、「権力の陰謀」(現代史出版会)が出版され、九頭竜ダム補償事件の当事者緒方克行が事件を告発した。((13−5)最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり) |
| 【ナベツネがピンチをチャンスでのし上がる】 |
| 1976.12月、三木首相退陣、福田内閣発足。 1976.10月、鬼頭史朗判事補のニセ電話事件をスクープ。 1977.2月、720万部で朝日を抜き発行部数日本一を達成。 1977.7月、編集局総務(局長待遇)に。 1978.10月、務台社長が心臓発作で倒れる。12月に再起不能説を覆し出社するも既に往年の指導力発揮できずの事態となる。 |
| 【ナベツネがプロ野球界に手を染める】 |
| 1978.11月、52歳のとき、プロ野球界を揺るがした「江川入団事件(空白の一日事件)」が起きる。ナベツネは、阪神から江川の代償として指名された小林繁の説得に当たり、これがプロ野球問題に関わる最初の仕事となった。 |
| 【ナベツネ論説委員長になり、右派系論調形成に乗り出す】 |
| 1979.6月、ナベツネは取締役・論説委員長に就任する。以降、社説はナベツネ式に統制され右傾化論調を定式化する。 「小林が日本テレビ社長を経て読売社長に返り咲いたのち、渡辺は、政治部長から論説委員長へと急上昇した。政治部が人事的に優遇され始め、紙面でも政治面が優先されるようになった。このような結果の表われの一つとして、大阪読売で編集局次長の地位にあった社会部出身の黒田清が、定年以前に退社した。黒田は、その後、『黒田ジャーナル』を砦として『窓友新聞』を発行し続け、公然と読売を批判している。現・渡辺王朝は、従来の「社会部帝国」の主導権を剥奪した上に成り立つ、恐怖の新独裁支配体制である」((13−5)最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり)。 1980.6月、常務取締役・論説委員長。 10月、長島茂雄が巨人軍監督を解任される。 1981.6月、務台に代わり日本テレビから復帰した小林與三次が社長就任。 1982.4.22日、会長・務台が、役員会の席上で、「社内の重大危機」と長演説をぶつ。5.14日広告局長・氏家が日本テレビ副社長に転出。 11月、ナベツネが日本テレビの政治座談会で司会者を罵る。 |
| 【中曽根政権誕生】 |
| 1982.11月、中曽根が総裁予備選で勝利、首相に就任する。この時、ナベツネは「私が首相を作った」と公言している。これにつき「顰蹙をかった」と評する向きがあるが、そうではなかろう。事実、「ナベツネが中曽根政権を作った」。以降、ナベツネは中曽根首相のブレーンとして政界に対する発言力を増していくことになる。 「この四半世紀、渡辺と二人三脚で政界の荒波を潜り抜けてきた盟友が遂に権力の頂点を極めたのである。もう怖いものは何も無い、そんな心境に渡辺はなったのだろう。この頃から傍若無人と言われても仕方ない行動が目立ちはじめる」(「渡辺恒雄 メディアと権力」)。 |
| 【ナベツネの我が世の春時代】 |
| 1983.1月、中川一郎が札幌のホテルで自殺態で発見される。 1983.2月頃、鈴木宗男の衆院選立候補阻止のため画策する。 1983.5月、専務取締役・論説委員長。 1983.10.12日、ロッキード裁判で田中元首相に実刑判決。 1984.1月、ナベツネ執筆の社説「平和・自由・人権への現代的課題/日本の役割と新聞の使命を考える」掲載。ナベツネは、この社説で、明確に右より路線を打ち出した。 1984.1.26日、中曽根首相が、「戦後政治の総決算」を表明。 1985.5月、氏家、日本テレビ副社長を解任される。 1985.6月、専務取締役・主筆兼論説委員長。 1986.12月、「よみうり寸評」の中曽根批判記事が差し替えられる。 1987.1月、大阪読売の社会部長・黒田清が退社。 1987.6月、専務から筆頭副社長・主筆へ就任。11月丸山福社長が退社。 1989(昭和64).2月、小林社長が脳出血で倒れる。 |
| 【ナベツネ読売新聞社長に就任】 |
| 1990(平成2).4.30日、務台光雄氏が死去(享年94歳)。5.2日ナベツネが代表取締役副社長・主筆に就任。小林は会長に。水上達也が代表取締役副社長に就任。 7月販売店会議で「1千万部達成」の大号令をかける。 1991(平成3).5月、読売新聞社の代表取締役・社長・主筆に就任。同時にプロ野球巨人軍の親会社・読売興業の取締役になり、球団運営にも積極的に口出しするようになる。 1991.6月、氏家、日本テレビ副社長へ復帰。11月、社長就任。 1991.12月、ナベツネは、プロ野球のフリーエージェント制を主張し、「通らないなら新リーグの結成に向う」と発言する。 1993.3月、67歳のとき、プロ野球のドラフト制度の撤廃を主張。セイプ・堤オーナーとタッグを組み、1リーグ制に向けて画策する。 1993.10月、フリーエージェント制とドラフトでの大学・社会人の1・2位指名選手に限り逆指名制度導入。 |
| 【憲法改正試案を紙面に発表】 |
| 1993(平成6).11.3日、「読売新聞・憲法改正試案」を紙面に発表。 |
1994.1月、68歳のとき、1リーグ制に対し、セ・リーグ側から強硬な反対が起こり、早期実現を断念する。12月、川淵三郎チェアマンのJリーグ運営を批判し、「独裁者だ」批判で注目を集める。
| 【野球の読売巨人のオーナーに就任】 |
| 1996.12月、70歳のとき、野球の読売巨人のオーナーに就任(2004.8.13日、巨人軍オーナーを辞任)、正力亨前々オーナーを名誉オーナーに据える。。改めて1リーグ制とドラフト撤廃を主張する。以来、8年間にわたり、球界のドンに収まる。 |
1997.10月、71歳のとき、メジャー息を希望する桑田に「俺が肩代わりしている借金はどうするんだ」と17億という金額を示して痛烈批判。
| 【日本新聞協会編集委員会が「ネットワーク上の著作権に関する協会見解」を発表】 |
| 日本新聞協会編集委員会が、「ネットワーク上の著作権について―新聞・通信社が発信する情報をご利用の皆様に」として「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」なるものを発表している。 |
1998.2月、72歳のとき、前立腺がんで入院。
| 【日本新聞協会会長に就任】 |
| 1998.6月、日本新聞協会会長に就任。 |
| 【中央公論買収】 |
| 1999.2月、73歳のとき、読売新聞社は、113年の歴史を誇る老舗出版社・中央公論社を傘下に入れている。この交渉は、看板雑誌「中央公論」の編集長でさえ直前まで知らされていなかったほど極秘裏に進められた。同社幹部によれば、「今年の5月、嶋中雅子会長(兼社長)と読売の渡辺恒雄社長が会談を持ち、“読売による支援”という基本方針がトップ同士で確認され、夏頃今回の形に決まった」という。非常版役員に就任。 読売新聞社は「This is 読売」という月刊オピニオン雑誌を発行していたが、これを廃刊にして「中央公論」を存続させることにした。しかし、名前こそ「中央公論」を継承したものの、その内容は大きく改変されていくことになった。 |
1999.11月、五輪へのプロ派遣に積極的な西武を批判。球界から出て行けと発言。
2000年、74歳のとき、契約更改時の代理人制度が導入される。ナベツネは断固反対の姿勢を示す。
| 【横審委員長を辞任】 |
| 2001.1月、75歳のとき、ナベツネが横綱審議委員会委員長に就任。 |
2001.11月、ニッポン放送が横浜の筆頭株主になる動きを阻止。その結果、横浜の親会社はTBSになった。ドラフトで自由獲得枠制度が導入される。
2002.11月、76歳のとき、消費者金融会社とスポンサー契約を結んだ近鉄に対し、「そういう球団は潰れる」と批判。
| 【横審委員長を辞任】 |
| 2003.1.27日、この日、渡辺恒雄・読売新聞グループ本社社長が横綱審議委員会の委員長を辞任した。以前から辞任の意向を示していた。委員は留任する。この日あった横審の席上で了承され、互選で後任に石橋義夫委員(共立女子学園理事長)を選出した。また委員長代行を置くことも決まり、海老沢勝二委員(NHK会長)が選ばれた。 |
2003.7月、77歳のとき、パ・リーグが導入を決めたプレーオフ制度を批判。巨人が優勝した場合はボイコットも示唆。
| 【読売新聞グループ本社会長に就任】 |
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2004.1月、78歳のとき、ナベツネが読売新聞グループ本社会長に就任。 |
2004年、近鉄の命名権売却に反発。
2004.6月、近鉄のオリックスへの吸収合併が発表され、1リーグ制実現に向け、再度動き出す。
2004.7月、性急な1リーグ制移行案に異を唱える古田選手会会長に対し、「無礼だ。たかが選手が」と発言し、世間から猛反発を受ける。
| 【読売巨人軍オーナーを辞任】(「政治権力とスポーツ界」、「ナベツネのダイエー球団消滅策動考」参照) |
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2004.8.13日、読売巨人軍は13日、臨時株主総会と同取締役会を開き、ドラフト候補選手へのスカウト活動でルール違反の裏金誘引行為があったとして、吉田部長の編成部長職、土井誠代表取締役社長、三山秀昭常務取締役球団代表、高山鋼市取締役球団副代表の3名の解任、渡辺恒雄取締役オーナーの辞任を発表した。新オーナーには滝鼻卓雄・読売新聞東京本社代表取締役社長が現職のまま就いた。 近鉄、オリックス両球団は10日に合併合意書に調印した。一方で労組・日本プロ野球選手会は98%の高率でスト権を確立し、伝家の宝刀・ストライキの行使を真剣に考え始めた。このままでは利害や主張の対立が平行線をたどり、プロ野球が空中分解する危険性も見えてきた。プロ野球の再編問題は、渡辺前オーナーがオーナー会議議長として期日を定めた9月8日の次回会議を最終期限に、さまざまな動きが進んでいる。 |
以上から推測するのに、「渡辺オーナーの突然辞任の背景事情」は、@・一般ファンからの批判をかわす狙い、A・「渡辺院政」の宣言、そのどちらかであろう。れんだいこは、B・老齢からくる悪行の根気負け、と見る。それは一つの時代の終わりであろう。 |
| 【読売巨人軍代表取締役会長に就任】 |
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2005.6.23日、ナベツネが、読売巨人軍の株主総会と取締役会で代表取締役会長に就任した。引責辞任からわずか10カ月。
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| 【ナベツネの戦前軍部批判考】 | |||||
「奇っ怪ニッポン」より、長野県知事・田中康夫氏の「傾聴に値する渡邉恒雄氏の発言」(2005.7.28日掲載)を転載する。
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「阿修羅戦争版73」の木村愛二氏の2005.9.3日付け投稿「答え:読売新聞の独裁者・渡辺恒雄はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり」を転載しておく。
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(私論.私見)
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