生涯の履歴

 (最新見直し2005.10.31日)

【立花隆(たちばな たかし)の総評履歴】
 立花隆(以下、単に立花と記す)は、田中角栄の金脈追求以来マスコミの寵児となり、幅広い分野での著作も多いところから「現代日本の知の巨人」と評されている。が、その実態は「極悪倒錯のネオ・シオニズム系政治評論家(ジャーナリスト)にしてノンフィクション作家」と命名されるべきであろう。

 1940年、長崎県生れ。本名、橘隆志。1964(昭和39)、東京大学文学部仏文科卒業。文藝春秋社に入社し「週刊文春」に配属される。66(昭和41)年に退社しフリーライターとなり、67(昭和42)年に東京大学文学部哲学科に学士入学、並行して評論活動を開始

 1974年、「文芸春秋」に発表した田中角栄研究――その金脈と人脈で一躍名を知られるようになった。厖大な資料を駆使して田中金権政治の実態を暴き、同年11月の田中首相退陣、後のロッキード疑獄事件勃発、田中元総理逮捕への引き金となった。ロッキード事件の田中公判は一度も欠かさず傍聴し続け、その都度のコメンテーターとしての発言が影響を与える等論調をリードした。

 立花の関心は幅広く、田中金脈から新左翼、共産党に関する政治論、マスメディア論、脳死、臨死体験、インターネット、エコロジー、進化学、宇宙学など多岐にわたって言及している。著書も「角栄もの」多数、「中核vs革マル(上・下)」(1975、講談社)」、「日本共産党の研究」(1978、講談社)、「宇宙からの帰還」(1983、中央公論社)、「脳死」(1986、中央公論社)、「農協」、「サル学の現在」、「インターネット探検」、「知のソフトウェアー」、「精神と物質など多数。近著に「滅びゆく国家」がある。

 ネオ・シオニズム的着眼点を元にした批判のユニークさと東京大学文学部哲学科学士入学で鍛えた論理力、平易な文章能力の三部構成で数々のルポをものし、ニュージャーナリズムの旗手となる。1979年に講談社ノンフィクション賞、86年に菊池寛賞、87年に「脳死」で毎日出版文化賞、98年に司馬遼太郎賞受賞をそれぞれ受賞している。平成7年より東京大学先端科学技術研究センター客員教授。

 かって本多勝一氏とやらせ論争をし、「立場をもたない知性は腐敗する」という本多の批判に、「僕は面白いものしか取材しない」と反論。

 文京区小石川の六角坂脇に構えた事務所は黒塗りで猫の顔が描かれ、通称、猫ビルと呼ばれる。


【立花隆の履歴】
 立花の履歴につき「立花隆・言論活動略年譜」その他を参照する。れんだいこの関心分野のみ列挙し、適宜にコメント付ける。
 1940(昭和15).5.28日、長崎県長崎市鳴滝に生まれる。本名、橘隆志。
 1942(昭和17)〜1944(昭和19)年、2〜4歳まで北京にて過ごす。
 1945(昭和20)年、5歳。中国より引揚げ、その後茨城県那珂西(なかさい)に住む。
 1946(昭和21)年、6歳。水戸市に移る。
 1957(昭和32)年、17歳。千葉県柏市に移る。茨城県立水戸一高から都立上野高校へ転入。
 1959(昭和34)年、19歳。都立上野高校卒業。東京大学文科二類入学。
 1960(昭和35)年、20歳。イギリスで開かれた国際反核会議出席のため、カンパを集めてヨーロッパへ。4月から10月まで、各国をまわる。
(私論.私見) 「国際反核会議出席」、「4月から10月まで、各国をまわる」考

 「国際反核会議出席」とあるが、立花の学生運動歴はどのようなものであったのだろう。何の絡みで「国際反核会議出席」に出席しているのだろう。「4月から10月まで、各国をまわる」とあるが、この時の歴訪国が知らされていない。れんだいこの見るところ、この時期に早くもネオ・シオニズムに取り込まれているような気がする。当然イスラエルを旅していると思われる。これを仮に第1回目のイスラエル詣でとする。

 1964(昭和39)年、24歳。東京大学文学部仏文科卒業。文藝春秋入社。「週刊文春」に配属される。
 1966(昭和41)年、26歳。社員会報に「退社の弁」を寄稿し、文藝春秋を退社。
 この頃、講談社の女性誌「ヤングレディ」でアンカーマンを勤めている。
(私論.私見) 「文藝春秋入社。『週刊文春』に配属」について

 立花と文芸春秋社の繋がりはこの時より始まる。しかも、「週刊文春」に配属されている。この親密関係は退社後も密接に維持され、同社及び同誌の言論をリードしてきているのは周知のところである。

 1967(昭和42)年、27歳。東京大学文学部哲学科に学士入学。
(私論.私見) 「東京大学文学部哲学科に学士入学」について

 「学士入学」というものがどういう方法で為されるのか知らないが、立花の「東京大学文学部哲学科に学士入学」の資格はどのようなものであったのだろうか、れんだいこには疑問がある。「東京大学文学部哲学科への学士入学」は容易くできるのだろうか。

 1968(昭和43)年、28歳。10月、「文藝春秋」臨時増刊号に立花隆の名で「素手でのし上がった男たち」を発表、フリーライタとして言論活動を開始する。

 1969(昭和44)年、29歳。「文藝春秋」2月号に「60年安保英雄の栄光と悲惨」掲載される。「文藝春秋」3月号に「東大ゲバルト壁語録」掲載される。同5月、「素手でのし上がった男たち」(番町書房)を刊行。「諸君」7月号に「この果てしなき断絶」。「諸君」9月号に「『少年マガジン』は現代最高の総合雑誌か」。「文藝春秋」10月号に「実像・山本義隆と秋田明大」などを執筆。
(私論.私見) 「立花の全共闘運動に対する関心の奇怪さ」について

 立花が当時の全共闘運動に並々ならぬ関心を持つのはそれは自由である。しかし、立花の学生運動歴があってこそ向うのが普通だろう。れんだいこは、立花の学生時代の学生運動との絡みを知らない。恐らく、接点はともかく学生運動歴が無かったのではないかと推測している。ならば、立花は、なぜかように全共闘運動に対する関心を深めたのか。この現象は一般に何やら臭いと思うのはれんだいこだけだろうか。
(私論.私見) 「立花の売り出しに関わる月刊誌『文藝春秋』、同『諸君』の梃入れの奇怪さ」について

 その立花の売り出しに手を貸したのが、文藝春秋、諸君であった。その登用のされ方もかなり厚遇であることが判明する。一般に、29歳の青年がこのように後押しを受けるものなのだろうか。この背後に何が蠢いていたのだろう。

 1970年(昭和45)年、30歳。「諸君」3月号に「これが世界最大のシンクタンクだ」、「諸君」8月号に「生物学革命──人類は生き延びられるか」。「潮」10月号に「人間としてのあなたの限界と可能性」。「潮」11月号に「毛沢東の徹底的解明」など執筆。
 1971(昭和46)、31歳。「諸君」4月号に「宇宙船地球号の構造」。「文藝春秋」5月号に「『異常気象』は地球滅亡の兆か」。「潮」5月号に「人間この罪と罰の記録」。5月、「思考の技術」(日経新書)刊行。 「諸君」6月号に「石油のすべて──その化学構造から政治学まで」。「文藝春秋」7月号に「漫画家ジョージ秋山の失踪」。「潮」8月号に「赤い屍体と黒い屍体」など執筆。
(私論.私見) 「立花の売り出しに関わる月刊誌『潮』、日経新書の新たなる参入」について

 立花は、売り出しについてこの頃より「潮、日経新書の新たなる参入」を受けている。彼の能力の為せる技のみで説明しうることだろうか。

 この後、一時筆を絶ち、新宿・ゴールデン街でバー「ガルガンチュア」を約半年間経営する。この頃、菊入龍介というペンネームで評論を書いたりしている、とのことである。
(私論.私見) バー「ガルガンチュア」経営時代について

 一転、立花は一時筆を絶ち、新宿・ゴールデン街でバーを経営する。れんだいこは、立花が何を思い立ちバー経営を始めたのか、この転機に何があったのか興味が有るが分からない。バーでどういう顧客との親交が為されたのか、その経営状況はどうだっのか等々この頃の様子を知りたいがこれも関心があるが不明。

 1972(昭和47)年、32歳。「ガルガンチュア」の経営権を売却、イスラエルへ旅立つ。
(私論.私見) 「イスラエルへ旅立つ」について

 ここが臭い。何らかの事情で急遽バー経営を断念し、よりによってイスラエルへ向っている。立花氏はこの時、何の因果関係でイスラエルへ旅立っているのだろうか。これを仮に第2回目のイスラエル詣でとする。

 ヨーロッパ、中近東と放浪し、テルアビブ事件に遭遇。「週刊文春」(7.24日号)に「テルアビブで岡本公三と一問一答」を発表し、言論活動を再開する。「月刊リクルート」及び「いち」に不定期連載「時代と状況の病理学」。「文藝春秋」10月号に「世紀の米ソ頭脳決戦」。「文藝春秋」11月号に「商社・日本原産のモンスター」。「文藝春秋」73.1月号に「子殺しの未来学」など執筆。
 1973(昭和48)年、33歳。「文藝春秋」5月号に「総合商社解体論」。週刊文春10.29日号より「未来ルポ1980年のニッポン(第1〜4回・完結)」連載。同11.26日号より「日本列島石油パニック〔菊入龍介〕(第1〜5回・完結)」連載。11月、菊入龍介の名で「日本経済・自壊の構造」(日本実業出版社)を刊行。「文藝春秋」74.1月号に「資源小国昔も今も」など執筆。
(私論.私見) 「執筆活動再開に当たっての月刊誌『文藝春秋』、週刊誌『週刊文春』の後押し」について

 立花は、イスラエル詣での後執筆活動を再開する。これを文藝春秋、週刊文春が後押ししている。同社と立花との誼には相当厚いものがあることが判明する。

 1974(昭和49)年、34歳。この年の前半、中近東を放浪。
(私論.私見) 「この年の前半、中近東を放浪」について

 「中近東を放浪」とあるが、当然イスラエル入りしている。これを仮に第3回目のイスラエル詣でとする。立花はこの時、何の因果関係で再再度イスラエルへ旅立っているのだろうか。

 「中近東放浪」後のこの年の後半より衝撃的な論文を精力的にこなしていくことになる。「諸君」8月号に「パレスチナ報告」。「週刊現代」8.23日号に「意外!田中首相が三福に圧勝した七月政変の内幕」。「文藝春秋」11月号に「田中角栄研究─その金脈と人脈」を発表する。
(私論.私見) 「中近東放浪」後の立花氏の執筆について

 「中近東放浪」後の立花は、「諸君」8月号に「パレスチナ報告」を発表している。れんだいこはその論調を知りたいが未入手のため分からない。続いて、「田中角栄弾劾」に精力的に取り組み始める。このことと「中近東放浪」との因果関係有りやなしや。
(私論.私見) 「田中角栄研究─その金脈と人脈」執筆その後について

 立花は、「文藝春秋」11月号に「田中角栄研究─その金脈と人脈」を発表する。忽ち評判と成り、立花は時代の寵児となる。「田中角栄研究─その金脈と人脈」執筆の裏舞台の検証もさることながら、この時の立花の持ち上げられ方も作られたものではなかったか。れんだいこはそういう気がしてならない。

 「現代」11月号より連載「中核・革マルの『仁義なき戦い』(第1〜3回・完結)」。「文藝春秋」75.1月号に「田中角栄研究の内幕」など執筆。
(私論.私見) 「月刊誌『現代』の新たなる後押し」について

 この頃より、月刊誌「現代」が立花を後押しし始めていることが判明する。なお、角栄追討戦の次に「中核・革マルのゲバルト検証」に向ったのは何故か。必然性があったのか無かったのか。

 1975(昭和50)年、35歳。「現代」5月号に「『田中角栄金脈の決着』に異議あり」。「現代」7月号に「新星企業金脈商法の疑惑をついに追い詰めた」。「現代」9月号より「連続企業爆破事件への重大疑惑(第1〜4回・完結)」連載。朝日ジャーナル11.14日号より「田中金脈裁判傍聴記(第1〜4回・完結)」連載。11月、「中核vs革マル(上・下)」(講談社)刊行。「文藝春秋」76.1月号より「日本共産党の研究(第1回)」連載など執筆。
(私論.私見) 「週刊誌『朝日ジャーナル』、講談社の新たなる後押し」について

 この頃より、週刊誌「朝日ジャーナル」が立花を後押しし始めていることが判明する。
(私論.私見) 「角栄、中核vs革マル、日本共産党の同時的研究」について

 一見何の脈絡もないように見える「角栄、中核vs革マル、日本共産党の同時的研究」であるが、角栄を土着左派と見立てれば、何やら「外から見た日本左派運動的関心に応えたレポートもの」であることが判明する。

 1976(昭和51)年、36歳。7.27日、田中角栄逮捕される。この頃、「日本共産党の研究」(第2〜11回)が同時並行して掲載される。「文藝春秋」4月号に「事件の核心──ロッキード疑獄を追って」、「週刊文春」3.11日号より「ロッキード事件追及レポート(第1〜3回・完結)」連載。「文藝春秋」5月号に「児玉誉士夫とは何か」。「週刊文春」4.22日号より「CIAと児玉誉士夫(第1〜5回・完結)」連載。「週刊朝日」7.16日号に「田中角栄氏への公開質問状」。「文藝春秋」9月号に「新・田中角栄研究」。10月、「田中角栄研究 全記録(上・下)」(講談社)刊行。「週刊文春」12.16日号に「『田中角栄』を大勝させた日本は終わったか」など執筆。12月、「文明の逆説」(講談社)刊行。
(私論.私見) 「主流メディアの立花総後押し」について

 この頃、時代の寵児となった立花は、主流メディアから総後押しされている。興味深いことは、ロッキード事件で、田中角栄、児玉誉士夫への追求をしていくが、中曽根康弘には言及を控えている点である。果たしてこれが公正であるのか、立花の政治主義的立ち回りを窺うべきではなかろうか。

 1977(昭和52)年、37歳。1.27日、田中裁判・初公判。2.11日号より「ロッキード裁判傍聴記(第1〜11回)」連載、「諸君」8月号より「ジャーナリズムを考える旅(第1〜4回・完結)」)連載。「朝日ジャーナル」に「日本共産党の研究(第12〜21回・完結)」など執筆。
(私論.私見) 「日本共産党の研究」について

 立花の「日本共産党の研究」は、これまで未流出の公安資料を豊富に駆使しているところに特質がある。その意義は大きいというべきだが、どうやって未流出の公安資料を手に入れたのか興味は尽きない。ロッキード事件に於ける角栄金脈の研究の中での国税庁データの公開も然りで、立花はその取得の経緯を明らかにせねばなるまい。

 以上で、立花の何たるかが判明したので簡略に事歴のみ記す。 
 1978(昭和53)年、38歳。「諸君」12月号より「アメリカSEX革命報告(第1〜9回・完結)」連載、3月、「日本共産党の研究(上)」(講談社)刊行。5月、「ジャーナリズムを考える旅」(文藝春秋)、「文藝春秋」7月号より「不破・上田兄弟論(第1〜5回・完結)」連載。9月、「日本共産党の研究(下)」(文藝春秋)刊行。「ロッキード裁判傍聴記(第27〜31回)」など執筆。
 1979(昭和54)年、39歳。「朝日ジャーナル」1.5日号より「ダグラス疑獄(第1〜7回・完結)」連載。「文藝春秋」3月号に「白い黒幕」。9月、「アメリカ性革命報告」(文藝春秋)刊行。「週刊朝日」10.5日号より「農協 巨大な挑戦(第1〜14回)」連載。「日本共産党の研究」が評価され、講談社ノンフィクション賞受賞。ジャーナリストとしての地位を不動のものにする。「ロッキード裁判傍聴記(第22〜26回)」など執筆。
 1980(昭和55年)年、40歳。「諸君」5月号に「『地獄の黙示録』研究」、「文藝春秋」7月号に「新・田中角栄の研究 被告人と宰相」、「文藝春秋」8月号に「被告人の選択を待つ首相候補たち」。7月、「農協」(朝日新聞社)刊行。「ロッキード裁判傍聴記(第27〜31回)」、「農協 巨大な挑戦(第15〜21回・完結)」など執筆。
 1981(昭和56)年、41歳。「文藝春秋」3月号に「『田中角栄独占インタビュー』全批判」、「くりま」春号に「ニユーヨーク ’81」。7月、「ロッキード裁判傍聴記1」(朝日新聞社)刊行。「文藝春秋」9月号に「『田中角栄無罪』はあるか」、「ロッキード裁判傍聴記(第32〜48回)」、「中央公論」11月臨時増刊号より「宇宙からの帰還(第1〜2回)」連載など執筆。
 【1982(昭和57)、42歳】
 「週刊朝日」1.22日号より「”田中新金脈”追及(第1〜10回・完結)」連載)、「中央公論」5月号に「古井喜実『首相職務権限論』を駁す」、週刊文春7.1日号、同8日号に「無人島生活六日間(第1〜2回,完結)」連載、「中央公論」8月号に「角栄を精算しきれぬ日本政治の惨状」、11月、「田中角栄いまだ釈明せず」(朝日新聞社)刊行。「図書」83年1月号より「情報のインプット&アウトプット(第1回)」連載。「宇宙からの帰還(第3〜7回・完結)」、「ロッキード裁判傍聴記(第49〜58回)」など執筆。
 1983(昭和58)、43歳。
 1月、「宇宙からの帰還」(中央公論社)、「文藝春秋」3月号に「巨大な悪の連鎖を断て」、「プレイボーイ」5月号より「レンタカーオデュッセイ8000キロ(第1〜4回・完結)」連載、「ペントハウス」5月号より「ヴュー・フロム・ザ・トップ(第1〜9回)」連載、「ペントハウス」8月号に「NASA宇宙飛行特訓からの帰還」、10.12日、田中裁判一審有罪判決。10月、「ロッキード裁判傍聴記3」(朝日新聞社)刊行。「文藝春秋」11月号に「田中角栄と私の9年間」、「中央公論」11月臨時増刊号に「虚構が崩れた時──10・12判決で感じたこと」、「文藝春秋」12月号「田中擁護のあらゆる俗論を排す」。この間、「ロッキード裁判傍聴記2」、「ロッキード裁判傍聴記(第59〜68回・完結)」、「情報のインプット&アウトプット(第2〜12回・完結)」、「徹底した取材と卓抜した分析力により幅広いニュージャーナリズムを確立した文筆活動」により、菊地寛賞受賞。
 1984(昭和59)、44歳。
 「スコラ」3.8日号より「青春漂流(第1〜12回・完結)」連載、3月、「『知』のソフトウェア」(講談社現代新書)刊行。「諸君」7月号に「立花隆の大反論」、「週刊朝日」7.27日号より「再開・”田中新金脈”追及(第1〜10回・完結)」連載、「諸君」9月号に「ふたたび『角栄裁判批判』に反論する」、「朝日ジャーナル」10.12日号より「ロッキード裁判批判を斬る(第1〜13回)」連載など。「ヴュー・フロム・ザ・トップ(第10回・完結)」。
 1985(昭和60)、45歳。
 2月、「ロッキード裁判傍聴記4」(朝日新聞社)刊行。2.27日、田中角栄倒れる。「朝日ジャーナル」3.15日号「『倒れる』前に『倒す』ベきだった」、スコラ8月号に「青春漂流」、8月、「田中角栄新金脈追及」(朝日文庫)刊行。「中央公論」11月号より「脳死(第1〜3回)」連載、12月、「論駁」(朝日新聞社)刊行。私家版レコード「RAGA GAUD MALHAR RAGA YAMAN」(「シェ・タチバナ」レーベル)発売。「ロッキード裁判批判を斬る(第14〜48回)」、「ロッキード裁判批判を斬る・番外篇(第1〜5回)」。
 1986(昭和61)、46歳。
 「別冊専門料理」3月号「立花隆ヨーロッパ・チーズの旅」、「文學界」4月号より「読書ノート(第1〜3回・完結)」連載、4月、「論駁」(朝日新聞社)刊行。9月、「論駁」(朝日新聞社)刊行、10月、「脳死」(中央公論社)刊行。「アニマ」10月号より「サルに学ぶヒト(第1〜4回)」連載、「ナーシング・トゥデイ」10月号より「人間存在の本質を見る」連載、「太陽」11月号に、「河童のお邪魔対談」など。「ロッキード裁判批判を斬る(第49〜62回・完結)」、「脳死(第4〜10回・完結)」。
 1987(昭和62)、47歳。
 「週刊現代」1.24日号より「情報ウォッチング(第1〜49回)」連載、「中央公論」2月号より「宇宙への道(第1〜7回・完結)」連載。2月、「ロボットが街を歩く日」(三田出版会)刊行。中央公論4月号に「脳死を医者はごまかすな」、文藝春秋5月号に「神の王国イグアス紀行」、「ペントハウス」6月号より「AIDSの荒野を行く(第1〜5回・完結)」連載、7.29日、田中裁判二審有罪判決。「太陽」8月号に「ラテン・アメリカのキリスト教美術──インディオたちの聖像」、「朝日ジャーナル」8.21日号に「〔ロッキード裁判控訴審判決〕弁護側の主張を『論駁』、最高裁でも耐え得る判決」、「ポリフォーン」10月号に「音楽過剰の時代」、「太陽」12月号に「ヨーロッパ名酒紀行──フランスの岩盤深きところより」など。 私家版レコード第2弾「とぎれた闇」(吉原すみれ)発売。「サルに学ぶヒト(第5〜15回)」。
 1988(昭和63年)、48歳。
 「朝日新聞」1.18日に「汚職体質 野党にも」、「ペントハウス」2月号に「ポルドーのシャトーより 陽のあたるブドウ園紀行」、「ペントハウス」3月号に「その日のソウル──大統領選挙前日、当日、翌日に見た隣国の素顔」、「中央公論」3〜6月・8月号「脳死(再論)」、「サウンドトップス」春号より「立花隆のここが知りたい(第I〜4回)」連載、4月、「同時代を撃つ 1」(講談社)刊行。「朝日新聞」6.16日に「信濃川河川敷訴訟判決を読んで」、「文藝春秋」8月号より「安保反対からノーベル賞へ(第1〜4回)」連載、「毎日新間」7.16日に「〔リクルート事件〕検察は眠りから覚めよ」、「世界」10月号「巨悪は眠っている──『ロッキード』以後の政治家と検察(対談/国正武重氏)」、「朝日新聞」10.11日に「税制改革ここが議論不足(座談会)」、11月、「脳死再論」(中央公論社)刊行。「科学朝日」89.1月号より「立花隆が歩く──研究最前線(第1回)」連載など。「サルに学ぶヒト(第16〜26回)」、「情報ウォッチング(第50〜99回)」。
 1989(平成元年)、48歳。
 「朝日ジャーナル」1.25日臨時増刊号「わたしの天皇感覚──大多数は無関心、無感覚派」、3月、「同時代を撃つ2」(講談社)刊行。「朝日新間」5.18日に「リクルート事件・政界捜査の報に」、NHK6.20〜22日に「立花隆の思索紀行──南米・失楽の500年」発表、「世界」8月号に「『表紙』も『中身』も変わらなかった──総括リクルート事件」(対談/国正武重氏)」、「朝日新聞」10.9日に「〔朝日サンゴ報道〕この程度になぜ時間──背景の掘り下げ足りない」など。「サルに学ぶヒト(第27〜34回)」、「情報ウォッチング(第100〜147回・完結)」、「安保反対からノーベル賞へ(第5〜8回・完結)」、「立花隆が歩く──研究最前線(第2〜13回)」、「立花隆のここが知りたい(第5〜8回)」。
 1990(平成2)、49歳。
 「文藝春秋」2月号に「東欧解体──これが新しい現実だ(討論)」、3月、「同時代を撃つ3」(講談社)刊行、7月、「精神と物質」(文藝春秋)刊行。TBS7.23〜26日に「立花隆宇宙への道」発表。「マザー・ネイチャーズ」夏号より「ネイチャー・トーク/自然を考える(第1〜2回)」連載、文藝春秋12月号に「立花臨時講師が見た東大生」など。「サルに学ぶヒト(第35〜36回・完結)」、「立花隆が歩く──研究最前線(第14〜18回・完結)」、「立花隆のここが知りたい(第9〜12回)」。
 1991(平成3年)、50歳。
 「文藝春秋」2月号に「宇宙飛行士秋山豊寛の『心理』と『生理』」、2月、「サイエンス・ナウ」(朝日新聞社)刊行。NHK3.17日に「臨死体験」、NHK教育3.18〜20日に「臨死体験を探る」発表、「月刊ASAHI」4月号に「私の提言──国連軍を常備軍とし兵力と費用を出す」、「毎日新聞」3.5日に「〔湾岸戦争〕算定の根拠なく戦費支援おかしい」、「月刊ASAHI」5月号に「私の『国連軍』合憲論」、「科学朝日」4月号より「コンピューター最前線(第1〜10回)」連載、「中央公論」6月号に「脳死臨調 これでいいのか」、「朝日新聞」7.4日に「やはり問題多い脳死判定基準」、「中央公論」9月号に「脳死臨調『中間意見』を批判する」に、「文藝春秋」8月号より「臨死体験(第1〜6回)」連載、8月に「サル学の現在」(平凡社)刊行。「太陽」11月号に「立花隆が荒俣宏のすぺてを聞く」、「毎日新聞」11.17日に「自民党を考える」、11月、「ランダムな世界を究める」(三田出版会)刊行など。「ネイチャー・トーク/自然を考える(第3〜4回)」、「精神と物質」により、新潮学芸賞受賞。「立花隆のここが知りたい(第13〜16回)」。
 1992(平成4年)、52歳。
 NHK1.1日に「21世紀への対話 大江健三郎vs立花隆」、中央公論4月号より「脳死臨調の危険な論理(第1〜4回・完結)」連載、「太陽」6月号に「生命の根源から人類の究極へ──立花隆が埴谷雄高のすぺてを聞く」、「文學界」6月号に「武満徹・音楽創造への旅(第1〜7回)」連載、「週刊文春」8.27日号より「私の読書日記(第1〜3回)」連載、9月、「宇宙よ」(文藝春秋)刊行。9月、「脳死臨調批判」(中央公論社)刊行。「週刊文春」10.15日号に「検察幹部は全員辞職せよ」、「朝日新聞」10.15日に「新聞の利点を生かせ」、「文藝春秋」12月号に「検察のかくも長き眠り」など。「ネイチャー・トーク/自然を考える(第5〜6回・完結)」、 「コンピューター最前線(第11〜15回)」、「臨死体験(第7〜17回)」。

 12月、ネコビル竣工。
 1993(平成5)、53歳。
 2月、「『電脳進化論」(朝日新聞社)刊行。NHK3.22日に「ドキュメンタリーとは何か」、「文藝春秋」5月号に「何が金丸事件を生んだのか」、NHK教育4.12・13日に「未知への対話(対談/コリン・ウィルソン」、「朝日新聞」6.24日に「新生党に問う──過去にけじめをつけずに何が新生」、「文藝春秋」8月号に「遅すぎた終焉」、「婦人公論」8月号に「僕の秘書公募 500人顛末記」、「週刊現代」8.7日号に「立花隆『金丸裁判傍聴記』」、「週刊現代」8.21日号に「小沢一郎新生党代表幹事の大罪」、8月、「バーパラ・ハリスの『臨死体験』」(訳・講談社)刊行。8月、「巨悪vs言論」(文藝春秋)刊行。「科学朝日」10月号より 「脳研究最前線(第1〜3回)」連載、「世界」11月号に「新生党が『単独与党』になる日(対談/国正武重氏)」など。「ネイチャー・トーク/自然を考える(第7回・完結)」、「臨死体験(第18〜26回・連載中)」、「武満徹・音楽創造への旅(第8〜18回・連載中)」、「私の読書日記(第4〜10回・連載中)」。

 1995-1998年東大先端研客員教授。1996-1998年東大教養学部非常勤講師。2005年10月-2006年9月東大大学院総合文化研究科科学技術インタープリター養成プログラム特任教授。2006年10月より東京大学大学院情報学環の特任教授。2007年4月より立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科特任教授。

 最近では、脳死・臓器移植問題に絡んで、立花隆はかっての自身の主張を変えて「ドナーカードを持とう」と熱心である。吉本隆明は、同じ時期に立花隆とは逆に「私はドナーカードを持たない」と主張している。

【「マルコポーロ廃刊事件」の際の立ち回り】
 この立花が、後に文芸春秋社最大の言論弾圧事件となった「マルコポーロ廃刊事件」の際にどのような態度を採ったのか、知りたいところである。

【「田中真紀子外相失脚事件」の際の立ち回り】
 この立花が、「田中真紀子外相失脚事件」の際にまたぞろ立ち回っている。その際にどのような態度を採ったのか、「角栄の孫娘のプライバシー漏洩にまつわる週刊文春販売差し止め事件考」で検証する。





(私論.私見)