関が原の戦い余話
関が原の戦いにまつわる雑記、エピソードなど
関が原の戦い
大阪冬の陣1
大阪冬の陣2
大阪夏の陣1
大阪夏の陣2
島津、脱出逃避行2へ
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■前哨戦■
日本に初めて鉄砲が来たのは1543年天文10年、ポルトガル船が薩摩の南にある種子島の領主
種子島時尭に二丁渡したものである、これが京都に運ばれ将軍足利義晴に献上され
足利義晴は滋賀県長浜市国友の刀剣鍛冶に鉄砲を作るように命じた
国友刀剣鍛冶はわずか数ヶ月で和製鉄砲を作り上げた、長浜町は太閤秀吉がはじめて城持ち大名になった町だが
後、石田三成の所領になる、国友鉄砲は性能がよく好評でよく売れた、戦国時代は日本が世界一多く
多く鉄砲を持っていたという、秀吉、三成は国友鉄砲を独占し、他の大名に売らぬように規制していたが
徳川家康は関が原の戦いの5ヶ月前1600年慶長5年4月に大砲15門を発注した
国友鉄砲鍛冶も大いに迷ったが禁制を破って注文に応じた、次の時代は徳川家康と予見していたのだろう
徳川家康も必ず戦争になると予想して準備していたのだろう
後、この大砲が大阪冬の陣、夏の陣で大活躍した、大きさは一貫目玉5門、800目玉10門
関が原の戦いの60日ほど前、領主の石田三成はそれに気付き軍を出して、大砲15門を奪おうとした
これを徳川の護衛が実力で阻止した、このときが関が原の戦いの実質的な前哨戦だろう
関が原の戦いの50日ほど前、石田三成は改めて禁制を守れと禁制状を出したが、威令は守られなかった
国友鉄砲鍛冶はこの政治的決断の成功により以後繁栄の道を歩むことになった
■開戦■
9月15日関が原の戦いでは結局、東軍徳川家康が勝ち、西軍の石田光成が敗北した
勝敗の要因は多々あるが、やはり総合力で東軍徳川家康が勝利したと言えるだろう
常識的に見れば徳川軍の主力徳川秀忠軍の到着を待って軍勢を優勢にしてから
関が原という台地に攻め込むはずだが、石田三成軍が大垣城から出て関が原へ向かうと、機会を逃さず
追尾するように雨中にもかかわらず進撃した、西軍の迎撃体制が整わぬまに叩くということだろう
西軍が山の中に陣地を敷いて東軍がその袋の中に入るという格好だが毛利軍の動かぬことに
よほど自信があったのだろう
■謀略工作■
上杉討伐に進軍した徳川方武将が会議を開いたのは下野小山で7月27日
その後徳川家康は江戸城でひたすら各地の武将に手紙を書いて味方につくよう説得工作をしている
太閤秀吉の正妻ネネにも工作して、小早川秀秋に東軍につくよう説得してもらったようだ
小早川秀秋はネネの甥にあたる近い血縁関係、福島正則、加藤清正などはネネが育てた武将だ
この時期、他の東軍参戦武将がなぜ早く家康が出陣しないのか不思議に思ったほどである
田の刈り取りの終わった頃を開戦時期にしたものと見える、謀略工作も入念に行った
西軍の動きは伊賀の忍者組織などから詳細に報告されていた、神君伊賀越えの時期から
伊賀忍者とは非常に密接な関係になっていた
■実戦経験■
関が原の戦いの前日、9月14日徳川家康は全軍に「雨中であるが生米を食うな」と指令する
そのおかげで東軍は下痢をしなかったが西軍の石田三成は初陣のせいか生米を食べて下痢をしていたという
下痢腹ではなかなか気合の入らぬもの、このあたりに実戦経験の少なさが出た
この戦国時代にはどちらの武将につくかは、生死を分ける重大事、さして学問もない武将が
どうして決めたのだろう?第一は強いほうにつく、同じくらいの強さの場合は運の強い武将につくだ
戦場で生死を分けるのは運の強さ、運が強いかどうか?を考える、そして運の強いほうにつく
徳川家康は奇妙に運の強い男だ、父、祖父とも若くして家臣に斬殺されているが家康は
武田信玄に三方が原で大敗北して城に逃げ込んだのに命は取られなかった、九死に一生を得た男だ
あの時、武田信玄が城攻めを強行すれば歴史は大きく変わったことだろう
■石田三成■
対する石田三成は頭の良い秀才官僚タイプだがいかんせん人望が無い、加藤清正、福島正則らに憎まれた
加藤、福島らは豊臣秀吉の正妻ネネ北政所に近く、石田三成は近江出身で淀君に近いという
派閥抗争もあったのだろう、が、これだけの天下分け目の大戦争にもっていったのは立派といえるだろう
■裏切り■
勝敗を決めたのは小早川秀秋の裏切りだが、巷間いわれるように徳川家康軍から銃弾を受けて
決断したというより山の上から戦況を見ていてやはり東軍徳川軍が勝ちそうだということで
西軍攻撃を決断したのだろう、午前8時ごろ開戦して初めは西軍が優勢だったが午前10時ごろ
徳川家康が最前線の近くに本陣を移している、これが勝因だろう
また東軍の謀将黒田長政は自分の家臣大久保猪之助を小早川陣中に常駐させ裏切りを決断するよう迫った
徳川家康の晩年の言葉に「いまどきの武将はだらしが無い、床机に腰掛けて自分では手を出さず
口先だけで命令している、武将が部下の後頭部ばかり見てるような指揮では戦には勝てない」」
という夜話の言葉が残っている
勝負どころの10時には最前線に突入している、このあたりが実戦のカンというものだろう
大将の徳川家康が最前線まで突入すれば部下も奮い立たざるを得ない、それで東軍が優勢になり
小早川秀秋の裏切りを呼び込んだというべきだろう、それが他の西軍の武将、脇坂、朽木、赤座、小川の
裏切りを呼んだ、この4者も徳川家康が手紙でも送って説得工作をしていたのだろう
そして西軍が総崩れ、西軍敗走かと思いきや西軍の兵士が東軍の武将のツテを頼って
その配下に入れてもらうという現象が多発したという、そしてあっという間に東軍の兵士ばかりに
なったという、末端の兵士は東軍でも西軍でもかまわないというのが大半だろう
■薩摩■
西軍の武将宇喜多秀家はなんと薩摩まで逃亡、後八丈島送りになったが後年許されて天寿を全うしている
織田信長も薩摩逃亡説があるし、豊臣秀頼にも薩摩逃亡説がある、薩摩は中央権力の及ばない
独立国家という認識が当時の人にあったのだろうか?豊臣秀吉も九州征伐したが島津は本領安堵
関が原でも西軍についた島津を徳川家康も本領安堵している、不思議なことである
■実力主義■
後年冬の陣、夏の陣で結局徳川家康が天下を取ったが、当時の考えでは実力あるものが天下を支配するのが
当然ということでありすべて実力次第ということである、忠孝などという考えは江戸中期以降に
儒教などによって広められた考えで戦国時代はすべて実力次第という考えであったようだ
徳川家康が最終的に天下が取れた要因は多くあるが、彼もまた信長、秀吉とは違ったタイプの天才だ
学びの天才というべきか?武田信玄、天海、、、などから多くを学び生かしている
そして当時の武将の中では珍しく学がある、今川家に人質時代に基礎学力を身につけたのだろう
基礎学力があるから学びができ、現実的な行政手腕も発揮しえたのだろう
■武田軍団■
武田の優秀な家臣団を配下に組み入れたことも大きい、軍制も武田方式に変えたくらいだ
徳川家康の愛人といわれる井伊直政(旧今川家家臣、幼名万千代)はよほど気に入っていたのか
常々「万千代に手柄を立てさせてくれ」と言っている、そして武田の旧家臣団の精鋭を井伊に預けた
世に言う井伊の赤備えの軍勢であり武田の赤一色の備えのことである、関が原の戦いでも
井伊直政は軍監として出陣、東軍を指揮した、徳川軍の先方は常に井伊軍である
この後裔から安政の大獄で有名な井伊直弼が出た
■減税大名■
年貢もそれまでの7公3民から6公4民に減税した、だから農民層が支持した、これも大きい
豊臣秀吉の時代に日本はゴールドラッシュに沸きあちこちで金鉱山が発見された、佐渡、多田、生野、、
金鉱があちこちで発見され財政状態が非常に良くなった、一説には豊臣秀吉を山の民サンカが支援したという
元々は丹波の樹下というサンカの出ではないかという説もあるくらいだ
戦国時代の戦争の原因もほとんどが金山、銀山などの争奪戦というのが多い
経済的メリットが無いと戦争は起こさない、戦争に勝つには莫大な軍費がかかるのが現実だ
信長が秀吉をサル、猿と呼んでいたというのも顔が猿顔というよりその出自を知っていたということだろう
その財産を受け継いだわけだから徳川家康も大金持ちになった、久能山には莫大な金塊を隠していたという
三代目の徳川家光の時代に掘り出して江戸城に運び込んで、その金で日光東照宮を建立したが
掘り出さずに久能山に財宝を埋めたままにしておけば江戸時代はもっと長く続いたかもしれない
■安定感■
また徳川家康は信長、秀吉と違って無茶苦茶なことはしていない、信長の一向宗虐殺、比叡山焼き討ち、
秀吉の豊臣秀次一族虐殺、朝鮮出兵などのような無茶なことをしていない、律義者で通している
安定感がある、戦争が長く続いて安定、平穏を望む大衆が無言の支援を与えて
徳川家康に天下を取らせたといえるかも知れない
幼年期の今川家人質時代に忍の精神を体得したものだろう
そうすると今川家人質の時代に学んだ基礎学問と忍の精神が天下を取らせたと言えるかもしれない
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