忍者と関が原と家康
忍者と関が原の戦いと徳川家康について考察してみよう

関が原の戦い
大阪冬の陣1
大阪冬の陣2
大阪夏の陣1
大阪夏の陣2
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忍者の歴史
日本での忍者の歴史を見ると始まりは聖徳太子の時代に聖徳太子のスポンサーのような役割をした秦河勝のようだ
当時は志能備という言葉を使ったようだが、伊賀の上忍の筆頭格の服部氏などは秦氏の末裔を僭称していたようだ
戦争の多いときは必然的に忍者が必要になり、敵方の情報を探ったり謀略活動に忍者がよく使われるようになる
戦国時代の関が原の戦い、大阪城攻めまでが忍者の活躍のピークで江戸時代になり落ち着いてくると忍者の活躍の場も少なくなった
戦国時代には忍者の使い方のうまい武将が戦争にも勝って、大大名になっているようだ
北条早雲の風魔(風魔小太郎)武田信玄の透波(スッパ)武田の女忍者の望月千代女のクノイチ、信濃の戸隠忍者、織田信長のヒキ猿
出雲の鉢屋衆、紀伊の根来衆、伊賀忍者、甲賀忍者、、、著名なのは伊賀と甲賀だがその他にも数多く見られる
忍者の定義もさまざまで使われ方、役割もさまざまで出陣前の物見から破壊工作、盗賊、山賊、火付けまでさまざまなようだ
戦国時代は実力主義の時代で勝ってナンボの世界で負けたら歴史上から消えるイストリゲームみたいなもので
なんでもありで忍者も多く使われたようだ、闇討ち、毒殺、暗殺、火付け、強盗、、、何でもありの時代であったようだ
歴史の表舞台には滅多に出ず、また名前が出ないことを誇りとする忍者、ちょうど修験者の世界とよく似ているようだ
修験の世界も歴史の要所要所で活躍しているが歴史にはいっさい名前が出てこない、また名前が出ないことを誇りとする
忍者と修験の世界も表裏からまりあって入り乱れて複雑な世界を作り上げているようだ
歴史にチョコっと顔を出した部分から探ってみよう

家康と忍者
徳川家康と忍者の関わりも深いものがある、服部半蔵などは伊賀の出自だが数代前から家臣として仕えている家系だ
忍者働きというより普通の家臣としての勤めのようだが伊賀者が各地の武将に散在して仕え、情報のネットワークをこしらえていたものだろう
家康が松平元康と名乗っていた永禄5年(1562年)に今川方の鵜殿長照を攻めるのに甲賀武士の鵜飼氏200名を使っている
また本能寺の変で織田信長が明智光秀に本能寺で襲われ急死したとき、徳川家康と穴山梅雪は堺にいたが、穴山梅雪は土地の百姓に襲われ非業の死
徳川家康は甲賀と伊賀の武士に守られ、「神君伊賀越え」で伊賀を経由して岡崎城に戻った、この時から甲賀、伊賀との関わりが
より強まったといえよう

甲賀忍者と関が原と徳川家康
関が原の戦いでは小早川秀秋の裏切りでからくも東軍が勝利を得たが、この小早川秀秋の裏切りに大きく貢献したのが
甲賀の山岡道阿弥、元々は甲賀の毛枚の出身だが、出家して三井寺に入り光浄院せん慶と名乗り、将軍の足利義昭に仕えていたが
豊臣秀吉の時代には秀吉の御噺衆として秀吉に仕えた 関が原の合戦では早くから家康につき会津攻めにも参加していた
またひそかに家康から小早川秀秋の調略の指示を受け、部下の西尾正義と小西正重の二人を近江柏原の小早川の本陣に差し向け
裏切りを確約させた、その際に道阿弥は以前に小早川秀秋からもらった狸狸緋(しょうじょうひ)の腰当を証拠の品として持参させた
家康が大垣城の近くの岡山本陣に到着すると、山岡道阿弥の家来の西尾正義と小早川秀秋の家来の菅気清兵衛が
東軍の本陣を訪問して、伊井直政と黒田長政と会見して、裏切りの最終打ち合わせをしている

戦争の最中に家康がなかなか裏切らぬ小早川軍を見て「金吾にたばかられたか?」といってあせっていたという
8時に戦闘が開始され、西軍健闘の中、10時に家康軍が最前線に本陣を移し、11時に西軍が総攻撃の狼煙を上げたが
西軍の南宮山の毛利軍、長曽我部軍、長束軍も動かず、12時になってやっと小早川軍が裏切りを決断した
裏切りの要因は家康との約束もあるが毛利軍が総攻撃の狼煙が上がったのに動かなかったことも大きな要因だろう
毛利軍には徳川家康に内通した吉川広家がいて「総攻撃するならこの広家のしかばねを越えてから行け」と猛烈に抵抗したという
毛利軍には石田三成と謀議を重ねた安国寺恵けいなどもいたが、毛利両川といわれる吉川が押し切ったということだろう
もし、毛利軍が南宮山から降りて東軍を攻めれば東軍は袋のネズミで全滅していただろう

伏見城攻防戦と甲賀忍者
関が原の戦いは慶長5年1600年9月15日だが、その前哨戦が伏見城であった、戦いは7月19日から始まり8月1日に落城している
守将は鳥居元忠、内藤家長、内藤元長、佐野綱正、松平家忠、松平近正、駒井直方、上林政重らで主将は家康の股肱の臣の鳥居元忠
6月17日に伏見城で家康と鳥居元忠は別れの宴を催している、二人は密室でお互いに手を取り合って泣きあったという
会津攻めに参陣していた山岡道阿弥は弟の山岡景光に命じ甲賀衆百余名が伏見城に入場した
甲賀武士として甲賀作左衛門、岩間兵庫頭光春、深尾清十郎らが加わり総勢で1800名ほどが篭城した
伏見城で守将がよく守り、なかなか落城しなかった、あせった石田三成が7月29日に西軍諸将を激励して対策を講じた
西軍の近江水口城主で五奉行の一人の長束正家の家臣に甲賀衆の鵜飼藤助がいて城内の深尾清十郎と顔見知りであり矢文を送った

「そのほうども、申し合わせて返り忠をいたせ 城内に火を放ち内応して寄せ手を引き入れれば、莫大な恩賞が与えられるであろう
もし、これに同意しないようならば甲賀に残している妻子や眷属をことごとく磔にいたす」

そして実際に甲賀衆の家族を城前で磔刑にするそぶりを見せた、頭領の深尾清十郎は動揺しなかったが小頭の永原十内と
山口宗助が動揺して「30日の深夜に城内の松丸の放火する」との返書を鵜飼藤助に送り、裏切った
山岡景光は裏切らなかったため妻子は皆殺しにされた
甲賀衆の一部の裏切りによって8月1日の西軍の総攻撃でさしもの伏見城も落城、鳥居元忠は石階段で切腹して果てた
関が原の戦いの後、敗走する水口城主の長束正家を山岡道阿弥軍が追撃、帰城した近江水口城で長束正家は自刃、
その弟の道玄春を捕虜にしたので、弟の山岡景光の仇とばかりに山岡道阿弥が首をはねた
関が原の戦いの論功行賞で伏見城にこもった甲賀衆の一族子孫が取り立てられ甲賀組の同心衆として山岡道阿弥に預けられた
山岡道阿弥は9千石を与えられ、そのうち4千石を甲賀組の知行にあてた

戦国時代の忍者
戦が多いほど忍者の需要も増える、戦がなくなると忍者も不要になり江戸時代にはほぼ消滅してしまった
戦国時代には各武将とも忍者をたくみに使って情報を得ている、忍者といってもさまざまで修験者、坊主、旅芸人、医者、商人
遊び女、猿楽、連歌師、能役者、山賊、盗賊、飛脚、猟師、、などさまざまな業種、業態で使われ方もさまざまなようだ
「敵を知り己を知らば、百戦危うからず」の孫子の兵法のように敵に弱点をつかみ、敵の動静をさぐることに懸命だったようだ
実力次第、仁義無き戦いの戦国時代は「勝てば官軍、負ければそれまでよ」という厳しい生存競争の時代で綺麗も汚いもない
勝たねば滅びる時代だったわけで忍者仕事も必要になったのだろう
歴史の闇にうずもれ表にはなかなか出てこない忍者の活躍だが、日本の歴史の裏半分は忍者が作ったともいえるだろう
刃物の下に心を置く、忍という字もなかなか興味深い文字のようだ

忍者列伝
★忍将
◆小幡景憲(おばたかげのり)甲州流軍学者、大阪夏の陣で大阪城に篭城、東軍に密通?、江戸時代に「甲陽軍鑑」を著す
◆黒田官兵衛 如水(くろだかんべえ じょすい)播磨出身で豊臣秀吉の家来になり大名になる、福岡の黒田藩主の黒田長政の父
黒田長政は小早川秀秋に徳川家康に人質を出させ、決戦当日は家来の大久保猪之助を小早川陣に常駐させ裏切りを決断させる大功を上げた
◆藤堂高虎(とうどうたかとら)近江出身で豊臣秀次の家臣だったが巧みに泳ぎ、忍者頭といわれ江戸時代は伊賀を領地する
関が原決戦当日の小川、赤座、朽木の裏切り、大谷軍攻撃は藤堂高虎の工作といわれ、東軍勝利を決定づける大功を上げた
◆山本勘助(やまもとかんすけ)武田信玄の軍師、川中島の戦いの失敗で敵陣に討ち入り討ち死に

★忍者
◆伊賀忍者=服部半蔵、城戸弥左衛門、山田八右衛門、石川五右衛門、立岡道順、加藤段蔵、百地丹波、藤林長門
◆甲賀忍者=滝川一益、伴太郎左衛門、杉谷善住坊、佐治為次、望月平太夫、山岡景友、篠山理兵衛、多羅尾光俊、大原数馬


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